其の三 光塔
どれくらい経ったのでしょうか。気がつけば、目を開けていた。
冷たい感触が頬に触れ、湿った土の香りが鼻をくすぐる。思わず身震いしながら、湿った地面からゆっくりと体を起こした。反射的に唇を舐める。
――ん……
まだ血のかすかな鉄の味が舌先に残っている。
マントはすっかり血に染まり、乾いた血の薄い膜がしっかりと張り付いていた。
まるで黒い枝に赤い花が咲き乱れるような模様。あるいは、漆黒の騎士が血に染まった鎧を纏ったようにも見える。
腕にも固まった血の塊がびっしりと付いていた。手でぬぐうと、赤黒い破片がパラパラと砕け落ち、地面に散らばる。その下から現れた肌は、まるで何もなかったかのように無傷だった。
腕だけじゃない。頭も、首も、胸も、腹も、脚も、足も…先ほどまで血まみれで、ほとんど原形を留めていなかった体が、今は何事もなかったかのように元通りになっている。
意識が完全に戻ると、自分の体を取り戻せた実感が湧いてきた。
試しに立ち上がり、ぐっと背伸びをし、軽く足踏みをして、その場で一回転してみる。疲労感と少しの筋肉痛以外、どこにも異常はない。
……いや、これ、どう考えてもおかしいでしょう。
ついさっきまで、生死の境を彷徨っていたのが嘘のようだ。
もちろん、魔刀「星滅」の力がどれほど強大で、そしてそれが自分とどれほど特別な共鳴を持っているかは理解しているつもりだ。でも、ここまで致命的なダメージを跳ね返してくれるなんて、想像もしていなかった。
そう、あの時間差の攻撃――抗うことなど不可能とも言えるような凄まじいダメージの中、自分はこうして生き延びただけでなく、完全無傷の状態でここに立っているのだ。
危なかった。本当に危機一髪だった。いや、それどころか……
もしかして、あの出来事は夢だった?ただの夢から目覚めただけ?
もしくは、すでに自分は死んでいて、ここに立っているのは別の“自分”なのか?
いや、本当に危機を乗り越えた?それほど運が良かったというのか?
そう信じたい。そう、ただ単純に運が良かったのだと。
これ以上考えたところで答えが出るわけでもない。
とにかく、こうして生き延びたのだから、次に進むしかないだろう。探索を再開する時間だ。
そうして、周囲を見渡し始めた。その瞬間、風の余韻を感じた。
それは透明な糸のように、形のない道を軽やかにたどりながら、枯れ果てた黄金色の葦原を越え、翠緑の葦の茂みに潜り込んでいく。
一瞬の後、葦の茂みからささやくような音が聞こえた。風に揺れる葦たちが、古代の無名の歌を合唱しているようだった。
それは僕を歓迎している歌。僕のために奏でられる歌。
嬉しくなった。そうだ、僕は本当に「時間海」の最深部、すなわち時間神の故郷にたどり着いたのだと気づいた。
これで一つの障壁を超えたようだ。今、この神秘的な島にいる。
ここでは時間の流れが完全に正常だ。それはつまり、自由に行動できるということだ。
そう考えると、自然と笑みがこぼれた。
数歩、軽やかな舞踏家のように足を踏み出してみた。
…ん?何かを踏んだ気がする。
地面に目を落とすと、土に浅く埋もれた貝殻が見えた。
しゃがみ込んで手でそっと湿った土を払い、その貝殻を手に取る。耳に当てると、「ゴー」という音が微かに聞こえる。それは故郷の澄んだ潮騒の響きのようだった。
葦原は広々として果てしなく、どこを見ても終わりが見えない。
――どこへ向かえばいいの?
心の中で神に問いかけてみる。
その祈りに応えるように、地面から無数の敷石が浮かび上がり、一本の道を作り出した。そして、少し離れた空の高みに、眩い光の球体が現れる。
神は僕を導いている。僕はその道に従い、光の方へと歩みを進めた。
十数分後、目の前に建物が現れた。
驚いたことに、その建物にはどこか見覚えがあった。
灯台。
白雪村の海岸にあったあの灯台とそっくりで、ほとんど区別がつかないほどだった。
柔らかな灯りが視界に入った瞬間、懐かしい記憶が心に押し寄せた。
――エミ…
あの冬の精霊のような少女。そして、彼女と過ごした日々が脳裏に浮かび上がった。
*灯台に立ちて、未来を描き、*
*消えることなき面影を胸に刻む。*
*いまや彼女は雲海の果て、空の涯へと還り、*
*人知れぬ寂寥が息づく、初春の静けさに溶けゆく。*
*浮世を吹き抜ける風は凛として冷たく、*
*風花湾に春の訪れなきこと、忘れかけたり。*
*されど、故郷を遠く離れし我は、*
*この時の海に身をゆだねたり。*
*もはや悲しみは我を縛らず、*
*なぜならば、楽園を見いだせしゆえに。*
灯台の一階の部屋。
壁には一枚の油絵が掛けられていた。深い茶色の滑らかな木枠が、葦原の美しい景色を永遠に切り取っている。
その油絵の中には、雲海が、波が、そして果てしなく続く碧い世界の中に浮かぶ、小さな島が描かれていた。
油絵の隣には窓があり、金色の格子窓の下には精巧な花瓶が置かれていた。湿った土壌に根を張り、美しく咲き誇る白い鈴の花がいくつも揺れている。
陽の光が石のテーブルを照らし、小さなティーカップに金色の輝きを与えていた。
その石のテーブルの向かいには暖炉があり、灰黒い薪の燃えカスが見え、その周囲にはかすかな煙の香りが漂っていた。
すべてが心地よく、穏やかで、夢のようだった。
この部屋の主は、随分と丁寧に部屋を整えているようだ。
それにしても、不思議な感覚だった。
まるで…かつてここに誰かが住んでいたような気がする。
僕は無意識に、この部屋の主が誰なのかを考え始めていた。
記憶のどこか遠い場所から、微かに関連する断片が浮かび上がる。しかし、それらの断片は、どうしても一つの全体像を結ぶことができなかった。
この部屋の主に関する記憶は、忘却の深淵の中に沈んでいる。
部屋の奥には、淡い霧が立ち込めていた。
その霧に惹かれるように歩み寄り、小さな霧松を見つけた。それは平たく広い鉢に植えられており、部屋の一角を遮るように置かれていた。
霧の向こうには、薄っすらと階段が見えた。それは上の階へと続いているようだ。
その時、突然、頭の中にある光景が浮かび上がった…一つのベッドだ。
エミ。
エミのベッド。
なぜか、そう思えて仕方がなかった。
その直感を確かめたくて、螺旋階段を駆け上がり、屋根裏部屋へとたどり着いた。
ここは…寝室のようだ。
そして――
やっぱり。
小さな木製のベッドが、部屋の片隅に置かれていたのだ。
「じゃお願い。」
――大丈夫。
「寒いのは平気だから、毛布はいらないよ。えっと、代わりに抱き枕を一つくれる?淡い青のがいいな。」
――うん。
……
見覚えのある場面が、頭の中を駆け巡った。
その小さなベッドには、確かに淡い青色のクジラの抱き枕が置かれていた。
――う。
思考が無限に広がり始め、目の前の光景が心をざわつかせる。
そのベッドをじっと見つめながら、落ち着きを取り戻そうと努めた。しかし、胸の内に湧き上がるのは、言いようのない重苦しさと、奇妙なまでの親しみだった。
首を振った。
――これは僕じゃない!
何かが頭の中で叫んでいる。
記憶の断片が次々と崩れ、忘却の蓋が外れたかのように、記憶の奔流が意識を飲み込む。数え切れないほどの記憶の破片が、一瞬にして鋭く響き渡る音を立てた。
これは僕の記憶?それとも、誰か他人の記憶?
それがどちらであれ、なぜこんなにも鮮明に僕の中に現れる?
両手で頭を抱え込んでも、何の助けにもならない。混沌とした膨大な記憶が、無情にも僕の思考を侵食していく。
――ちくしょう、これは僕じゃない!出て行け、今すぐ出て行け!
クジラの抱き枕を力強く叩きつけ、その奇妙な思考を追い払おうとした。
――くっ。
十秒が過ぎた。
無駄な抵抗だと悟った僕は、無意味なもがきをやめた。そして、仕方なくベッドに倒れ込むと、クジラの抱き枕を頭上に掲げた。
淡い青のクジラ。うん、確かにどこか懐かしい感じがする。
抱き枕はとても柔らかく、そっと握りしめると、全身に眠気がじわじわと広がり始めた。
このまま、ここで眠ってしまいたい。永遠にここから離れたくない。
まあ、今は急いで何かをする必要もない。ここで少し眠るのもいいかもしれない。
そう思って、そっと体を横に向けたその瞬間――
目に飛び込んできたのは、顔だった。
――誰だ?
いや、それは他人の顔ではなかった。自分自身の顔だった。
無数の鋭い破片の中で、自分の顔が異様に歪んでいる。それは無数の小さな欠片に切り刻まれたようだった。
そして今、目の前に現れたのは、そんな恐ろしく歪んだ顔!
――うわああ!!!
驚いて飛び起きる。
その時ようやく気づいた。壁には鏡が掛かっていたのだ。
そうだ、ただの鏡だ。しかし、その鏡の中心は何らかの物理的な衝撃を受けたのか、ひび割れていた。
本来なら滑らかで完璧だったはずの鏡面は、無数の亀裂で覆われ、映し出される世界を細かく分断していた。
突然、胸の内に強烈な虚しさが押し寄せてきた。それは、どうしようもない徒労感と無力感だった。
思考が混乱していたにもかかわらず、かすかにある結論にたどり着いた。
――違う…ここじゃない。
そう自分に言い聞かせた。
突然、この場所が間違っていると気づいた。
寝室の奥には、もう一つ扉があった。
その扉の前に駆け寄り、勢いよく開け放った。
小さな木製のベッド。淡い青のクジラの抱き枕——
まったく同じ光景が、再び目の前に現れた。
別のことを考える暇もなく、急いで鏡の方に目を向けた。
自分の顔は相変わらず恐ろしく歪み、映し出される世界は粉々に砕けている。
この部屋の鏡もまた、破壊されていた。
時間の輪が一周したように、また出発点に戻ったのだ。
――違う。
それを確認すると、迷わず次の扉へと駆け出した。
これを何百回繰り返した?いや、もしかすると千回を超えているかもしれない。
かつて百五十回目の時点で数えるのをやめ、それ以降は考えることさえ放棄してしまった。
扉を開ける、寝室に入る、木のベッドを見る、抱き枕を見る、鏡を見る、鏡が壊れている、確認する、次の扉へ走る、扉を開ける…
体を高速で動く機械のようにして、この工程を無限に繰り返した。
千もの寝室。千もの木のベッド。千ものクジラの抱き枕。千もの壊れた鏡。
千回の期待。そしてその後に続く千回の失望。失望を超えた先には、また新たな期待が芽生える。
……
そして今回。
寝室。小さな木のベッド。クジラの抱き枕。
次に、待ちきれない気持ちで鏡に目を向けた――
自分の顔は無事だった。映し出される世界も綺麗に整っていた。そうだ、この鏡は、完璧なままだった。
千回以上繰り返した末に、僕はついに見つけた。
長く待ち望んでいた結果が、今この瞬間、目の前に現れたのだ。
その時、大きく息をついた。
自分では気づかなかったが、おそらく僕は笑っていた。
鏡の中の自分もまた、微笑み返してくれていたから。




