其の二 葦原
枯れた黄金色が、視界の片隅からじわじわと広がり、やがて空と海が交わる果てにまで達していた。
その葦原は、まるで低い壁のように島の岸辺に立ちはだかり、果てしなく続いている。
凍りついた海を越え、ついにここまでたどり着いた。
陸地だ。ここは陸地だ。
目指していた終点に到達する喜びは、何にも代え難いものだ。
胸の中で歓喜の叫びを上げながら、一歩一歩を力強く踏み出す。
目の前に広がるあの枯れた黄金色が、ぼんやりとした輪郭から次第に鮮明になっていくにつれ、ようやく全貌が見えてきた。
目の前に広がるのは、無数に積み重なった屍。
葦原の残骸だ。
茎はなおも直立し、低い枯れ壁を形作っている。葉は苦しげに縮まり、薄黄色に変わった細長い葉脈が、いまもはっきりと見える。それらはただそこに硬直したまま留まり、骨のような茎にしがみついている。
まるで、時間そのものが凍りついたかのように。
もしかすると、それらの命は一瞬の閃光のように終わりを迎え、その儚さを時間の凍結に飲み込まれたのかもしれない。
あるいは、それらはここで何千年もの間存在し続けてきたのでしょうか。
数世紀を一瞬に凝縮したような時間軸の中で、ほとんど停止したかのように成長してきたのかもしれない。
砂時計をじっと見つめるように、一粒一粒の砂が落ちるのを数えながら。そして今日、この長い生命がようやくその終焉を迎えた。
葦原は静寂に包まれている。けれど、その無音の挨拶は、いつの間にか僕の耳に届いていた。
どこからともなく、静寂の中の響きが伝わってくる。それは、古い歌謡に忘れ去られた音符のように、耳元でゆっくりと旋回している。
「久しぶり」
聞こえた。「久しぶりだ」と。
その瞬間、全身を電流が駆け抜けるような感覚に襲われた。思わず身震いがした。
――久しぶりだって?
ここに足を踏み入れるのは初めてのはずだ。けれど、この土地には、なぜか懐かしさのような既視感が付き纏っている。
頭の中で思い出そうとしても、そこには何も浮かばない。ただの空白だ。
それでも、自分自身に驚きを感じずにはいられなかった。この異様で混沌とした光景にではなく、自分自身の静けさに。
そうだ。なぜこんなにも落ち着いていられる?頭の中の思考は、まるで穏やかな小川の流れのように、波ひとつ立てないままだ。
時間の海が、時間神の故郷であることは知っている。神が存在することも、時間神の秘宝が現実に存在することも知っている。海の中心に島があることも知っている。
そうだ。僕は白雪村の皆を騙していたのだ。風花湾に来た目的は、ただ一つだけだった。
――時間神の秘宝、「創世者・時の心」を手に入れること。
だが、正直に言うと、時間海が僕をどんな形で迎えるのか、全く予想できなかった。
こうして島の前に立ち、金色の葦原を目の当たりにして、ただ親しみと懐かしさを感じている。
一瞬、思った。
もしかすると、もう一人の自分が、同じ景色を見て、同じ旅路を歩き、同じことをしているのかもしれないと。エミの夢の中に出てきたような、もう一人の自分。
同じ時間に、二人の自分が現れた?それとも、一人の自分が、二つの時間で繰り返し同じことをしている?
考えることはできなかったし、考えたいとも思わなかった。
どこかで時間の線が乱れてしまったのかもしれない。
――ふん、そんな馬鹿な話があるものか……
迷いの中の自分に、無力な自嘲を投げかけるほか、何もできなかった。
とにかく、今はこんなことを考えている余裕はない。
終点は目の前だ。それでも、まだ辿り着いてはいない。
この最後の重要な一歩を、何としても成功させなければならない。
一歩踏み出すごとに、足が重く、地面に根を張ってしまったかのようだ。氷の上に張り付いた足を無理やり引き剥がすと、全身に鈍い痛みが走り、冷や汗が額を伝う。
先ほどまでの激痛を乗り越えたはずの体は、今や感覚を失ったように麻痺している。本来なら致命的な痛みのはずなのに、もう何も感じない。
これが良いことなのか、悪いことなのか、正直わからない。
だが、いつも自分に言い聞かせてきた通りだ。
考えるな。ただ進め。
――あと少しだ。あと数歩だ。
心の中で自分を奮い立たせ、痛みを完全に忘れようとする。
ただ、目の前の終点に向かって進むだけだ。
……ふむ。
葦原が僕を呼んでいるような気がする。初めての出会いのようでいて、どこか懐かしい再会のようにも思える。
きっと、答えはすべてあの揺れる草原の中にあるのでしょう。そこに辿り着くことで、初めてすべてが明らかになる。
奥歯を噛みしめ、一歩一歩、地面に足を押しつけながら進んだ。
島に足を踏み入れる瞬間、両足がついに氷の層を離れ、島の縁の地面にしっかりと立ったとき、僕は大きく息をついた。
その瞬間、自然と笑みがこぼれる。
そうだ、事実はこれ以上なく明確だった。
長い道のりを経て、「風鈴」と名乗るこの旅の少女は、ついにこの島に到達したのだ。
だが、時間はそんな簡単に許してはくれない。軽率に足を踏み入れた訪問者には、神は罰を与える。そして、この葦原こそが、神の小さな悪戯だ――
僕は葦原の中に一歩足を踏み入れる。
すると、葦が静かに揺れ始め、やがてその干からびた茎が、次々に砕け散った。
「パキッ、パキッ——」
金色の破片が舞い散り、足元に落ちていく。破片は土の上を少し転がり、やがてその動きを止めて、土の一部になったかのように見えた。
――なに?
その刹那、僕は気づいてしまった。
先ほどまで自分がしていた推測に、致命的な「誤り」があったのだと。
小さな誤り。しかし、それは致命的。僕を殺すに十分な過ちだった。
そう、これらの葦は、時間の中で凍りついていたわけではなかった!中心の島で流れる時間は、時間の海の外側と全く同じ速度で流れている!
つまり、島に近づくエリアだけが時間の流れを遅くし、あるいは停止させている。だが、一度凍りついた海を越えて島の土地に足を踏み入れた瞬間、時間の流れは元の速さに戻るのだ!
それは、嵐の中心が無風で最も安全であるのと同じ理屈だ。嵐の渦から抜けた瞬間、狂風が全てを飲み込む。
――しまった!!!
神の用意に気づいた瞬間、すべてはもう遅かった。
無形の力が背後から猛烈な勢いで迫り、僕の背中で爆発した。極端に異なる時間の流れが生み出す衝撃波は、まるで巨大な手が僕を前方へ押し飛ばすかのようだった。
バランスを崩し、体は風船のように宙を舞い、葦原の地面に叩きつけられた。だが、足はまだ時間の止まった氷原にあり、動かすことができない。
腰から体が裂けるような痛みが全身を貫いた。血液が体内で膨張し、血管が裂ける音が頭の中で反響する。
――くっ……!
体の機能が急速に低下し、意識も遠のいていく。死が、一瞬で僕の目の前まで迫ってきた。
もう、ためらう余裕はない。このままでは真っ二つに引き裂かれてしまう!
今、この瞬間、できることはただ一つ。
時間の波動に身を委ね、その流れに逆らわず、最後の賭けに出ることだけだ!
ありったけの力を振り絞り、痛みを完全に無視して、果敢に体を動かし、思い切って前方へ飛び込んだ。
!!!
目の前の景色が急速に迫ってくる。そして、恐れていたような腰からの裂傷も起きなかった。自分の体が、確かに、完全な形で前方へ進んでいる感覚がある。
成功だ!
この大胆な行動が功を奏し、ついに両足が時間の束縛を振りほどいた。そして、今や完全に、通常の時間の流れの中に入り込むことができたのだ。
だが、神が簡単に僕を許すはずもない。この先に待ち受けるのは、最後の試練だ。
さっき、僕は時間の流れの巨大な差を一瞬で飛び越えた。その意味を、十分理解している。
そう、停止した時間でのわずかな速度は、通常の時間の流れに換算すると、「無限大」になる。
一瞬にして、自分の速度が無限に加速し、完全に制御不能に陥ったのだ。
まるで、地表に向かって墜落する彗星のように、僕は猛烈な勢いで地面に突き進んでいく。
鋭い風が刃のように肌を切り裂く。目を開けることすらできない。
このまま着地すれば、間違いなく首が折れる。
ちくしょう。
何かをしなければ、何としても!
ほんの一瞬の間だったが、本能的に反応した。着地の瞬間、両腕を体の前に突き出し、頭部を必死で守るようにした。
視界がぐるぐると回り、天地がひっくり返る感覚に襲われる。痛みを感じる間もなく、自分の体が乾燥した大地に激突し、大きな穴を作った。
肌の裂け目から血が滲み出し、湿った土に吸い込まれていく。両腕はすでに血肉が剥がれ落ち、見るも無惨な状態だ。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い――
胃がひっくり返るような感覚が押し寄せ、強烈な鉄の臭いが喉を駆け上がる。内臓が波打つたびに、血液が喉を突き破って噴き出しそうになる。
本能的に激しく咳き込み始めた。鼻孔から、耳から、目から、喉から……血が大量に飛び散っていく。
まずい…
血を失いすぎている。
たった数秒もない短い時間の中で、想像以上に多くの血液を失ってしまったのだ。
このままでは、本当に死んでしまう。
頭の中でめまいが激しさを増し、視界がますますぼやけていく。
——うっ……
全身に残ったわずかな力を、右腕に集中させる。
肉体は既にズタズタに損壊し、血管もことごとく破裂している。それでも、骨はまだ折れていない。神経の繋がりも残っている…まだ右腕を動かせる。右手を動かすこともできる!
この最後のチャンスを、どうしても掴まなければならない。
右手で「星滅」の刀鞘をしっかり握りしめる。親指で鍔を押し、ゆっくりと刀身を露出させていく。
次の瞬間、手を刃へと押し付けた。
鋭利な刃が掌を切り裂き、鮮やかな赤い血液が刃に染み込んでいく。
そしてその瞬間、刀身が燃え上がった。暗紅色の炎が刃を伝い、右手に燃え移り、さらに全身へと広がり始める。
――早く……!
この炎が僕の身体全体を包み込むことができれば、まだ希望はあるかもしれない。
でも、僕はもはや耐えられなくなった。
反射的に首をひねり、口から鮮血をもう一度吐き出す。
息ができない。まるで肺が押し潰されるような窒息感に襲われながらも、この死に至る奔流を耐え忍ぶしかない。口、鼻、耳、目……すべてから血が流れ出し、体を真っ赤に染め上げていく。
もう、だめだ……
意識は急速に沈んでいく。視界は霞み、すでに何も見えない。
死神が耳元で囁く。
目を閉じさせようとする彼の低い声が、はっきりと聞こえる。
「夢を見ろ。一度も目覚めたことがないように。」
彼はそう囁きながら、魂に繋がる最後の一本の糸を、無慈悲に断ち切った。
そして僕は、虚無の闇へと還っていった。




