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この世界の光と影  作者: 混乱天使
第二章 時間海、無尽反響
36/65

其の一 時言葉

これは『この世界の光と影』第二章の第一話です。

物語は第一章と密接に繋がりつつも、同時に一つの独立したストーリーとして展開されます。

本章の内容に興味を持った方は、ぜひ第一章の物語も振り返ってみてください。

 目を開けた時、世界は静寂に包まれていた。あたり一面、相変わらず白く霞んでいる。

 昨夜、凍てつく海の上で眠りについた。薄っぺらいマント「霧の紗」が、吹き荒れる風雪を防ぐ唯一の盾だった。雪の結晶が髪先に張り付き、寒風が容赦なく頬を刺していく。冷たい空気は温もりを奪い、闇に包まれた夜では目を開けることさえ困難だった。

 それでも、痛みを堪えながら、どうにか眠りに落ちた。

 その時、こう自分に言い聞かせたんだ。

 ――もし二度と目を開けられないなら、極楽のような夢に戻ればいい。もう目覚める必要なんてない。もし目を開けることができたなら、海の中心へ向かって歩き続けるだけだ。

 そして今、こうして目を開けたのだから、まだ休む時ではないのでしょう。旅は続いている。僕の終着点はまだ遥か先だ。

 寒さは僕を殺しはしなかった。これは海からの慈悲でしょうか。だが、だからこそ、この慈悲を無情にも利用し、海の心臓へと進むつもりだ。

 そう思いながら、周囲の様子を見渡してみた。


 わずかな日差しさえ見えず、視界は灰色に染まっている。厚い雲が天を覆い尽くし、果てしない雪が降り続いていた。

 時が止まったかのように感じられた。旅もまた停滞しているようだ。目の前に広がる風景は昨日と変わらないように思える。相変わらず大海の終わりが見えない。ただ、僕は確信していた。この氷の原野を長いこと歩き続けていると。それでも、尽きる気配はない。

 手元の金色の懐中時計が、時間の流れを教えてくれる。

 現在、午前八時。灰色の朝。

 これだけは確かだ、時間は止まってはいない。つまり、僕はまだ海の中心に近づけていない。

 そのことが、少しだけ幸運に思えた。時間に囚われてはいないのだ、と。だが同時に、それが不運でもあった。この旅はまだ終わらず、果てしなく長い道のりが待ち構えているからだ。

 歩き続けた時間や距離を数えることすら、もう諦めていた。僕ができることといえば、何かしらの信念を胸に抱き、決して後退せず進み続けることだけだ。

 ただ、僕はよく分かっている。これから進む道は、さらに険しくなるだろう、と。


 海の奥深くには、時間を凍結させる強大な結界が存在している。それは「暮鐘」と呼ばれるもの。その正式名称は――

 「至高の空・暮天鐘鳴」。

 伝説によれば、その存在は「世界鎖」と関係していると言われる。

 「創世者・時の心」と呼ばれる秘宝――世界鎖を解く三つの鍵の一つ。それは時間神の秘宝であり、この強大な結界を支える力となっている。結果として、この結界は「時間海」として自己防衛の仕組みを形成している。

 その力の階級は、この世の人間が行使する最上位の魔法や、亡霊たちの究極の呪術と同等だとされる。それは「力」「霊」「空想」「境界」を超越した第五の階級――「至高」。

 極めて強力な人間や亡霊ですら、その魔法や呪術の多くは「境界」のレベルを超えられない。

 だからこそ、「至高」は神に最も近い存在だとされている。

 では、なぜ「神と等しい」ではなく「神に近い」とされるのか。それは伝説によれば、「至高」すら凌駕する力が存在するとされているからだ。

 「識」。

 それは神の力、世界を覆すほどの力。この世界の誰も触れることのできない、禁じられた力だ。

 

 史書によれば、暮鐘は時間海の中心に限定された存在とされている。しかし実は、その力は時間海全域にまで及んでいるという。

 時間海の沿岸に位置する白鈴郡や風花湾ですら、この無形の力の影響を受けているとされる。

 力は波紋のように広がり、海の深部から岸辺へと徐々に弱まりながら伝播していく。そのため、岸辺や海の外縁部では、ほとんど異常を感じることはない。

 伝説によれば、海の中心に近づくにつれて時間の流れはますます遅くなるという。そして、核心となる暮鐘の領域に足を踏み入れると、時間はほぼ完全に停滞した状態に入る。

そこへ無謀にも踏み込んだ生物は、凍結された時間に囚われ、逃れることができなくなる。

 そう、時間海が凍らせるのは、ただの海水だけではない。

 凍結されるのは、「時間」そのものだ。


 この世界に生きるすべての存在は、時間と共に生きている。

 多くの人間は、自分が時間を支配できると信じている。だが時間は、冷酷な現実をもってその考えがいかに誤りであるかを証明する。

 小さな生命たちは、時間を支配するどころか、それを所有したことすら一度もない。

 おそらく、すべての個体はただの「時間に支配されたの人形」に過ぎないのでしょうか。

 命が尽きるとき、人は自分の「時間」が終わったと思い込む。その最期の瞬間ですら、彼らは真実を悟れないかもしれない。

 だが実際には、時間は存在し続けている。ある者が生きようと死のうと、時間は変わらずに流れ続ける。その者の運命がどうなろうと、時間は関心を持たない。

 魂が天へ昇るその瞬間、ようやく気づくのだろう。時間は決して止まっていなかったのだと。

 消費し尽くされたのは「自分の時間」ではなく、「自分」という存在そのものが時間に見捨てられたのだと。

 そう、時間はこの世界の創造主のような存在だ。どれだけ古くとも、誰よりも若々しい。なぜなら時間そのものは、永遠に変わることなく青春を保つ存在だからだ。

 時間は平等だ。それはすべての命に時間を与え、彼らが短い生涯の中で人生を味わえるようにしている。

 だが、時間は同時に不平等でもある。人間の生老病死、幸運と不幸は、それぞれ異なり、誰も自分がこの世界でどれだけの間生きられるかを知ることはできない。

 いや、もしかすると時間はそもそも、自分が与えたものの量など気にしていないのかもしれない。生物の寿命を決める際、時間は実に気まぐれだ。

 たぶん、時間にとって世界はただの小さなおもちゃなのでしょうか。


 時間の脅威だけではない。この海には他の危険も潜んでいる。

 亡霊。

 正確にいえば、邪霊。もっと正確にいえば、「海神」。

 そう、僕は不意に考え込んだ。今この瞬間、本来なら僕を無情にも殺しに来るはずの強敵は、一体どこにいる?

 僕はすでに死の森を抜け、この海へと足を踏み入れた。これまでの誰よりも深く、そして中心へ近づいている。

 それでも、海神は姿を現さない。

 彼がこんな愚かな失策を犯すとは思えない。

 きっと彼は考えている。計画を練っているのだろう。あるいはどこかで僕をじっと見つめ、適切な時を待っているのかもしれない。

 その時が訪れれば、彼は黒い鴉の羽の中から現れ、死の審判を宣告する。迷い込んだ僕を狩り、死の森の一部へと変える。

 今、この白一色の氷原では、ほかの何者の姿も見当たらない。それは本来なら不思議なこと。

 だが、不思議と驚きはしない。

 敵が十分な忍耐を持ち、好機を待ち続けているのなら――

 僕が取るべき道はただ一つ。恐れることなく、進み続けることだ。

 彼は僕の前方で待っている。僕が前進し続けることを望んでいる。

 彼は僕がその罠にかかることを待ち、最後の一撃を完璧にするために準備を整えている。

 ならば、僕は振り返らない。ただ進むだけだ。


 いや、正確に言えば、海神のことを気にしている余裕すらないのかもしれない。

 どれほど海神が強大であろうとも、所詮は亡霊の一種に過ぎない。神明の目から見れば、僕も海神も同じだ。どちらも取るに足らない虫けらのような存在でしょうか。

 ふん。たぶん、それすら過大評価かもしれない。我々は虫けらですらない。ただの塵、あるいは虚無そのものだ。

 今この瞬間、僕は神明の圧迫感を肌で感じている。

 強大な「時間」という存在が、無情にも僕の前進を阻んでいる。

 過去に時間へ挑んだ無知な者たちは、皆敗北を喫したという。絶対的な神の力の前では、誰もが代償を支払わなければならない。

 当然、僕も例外ではない。

 ただ一歩ずつ前へ進むだけで、時間の流れがさらに遅くなっていくのを感じる。それに伴い、歩みそのものが次第に困難になっていく。

 最初は単なる疲労感から始まり、やがて全身を包む鈍い痛みへと変わる。そしてその痛みは次第に激しさを増し、全身を蝕んでいく。

 両足はまるで凍りついたように動かない。いや、寒さで凍りついたわけではない。時間そのものに凍結されているのだ。

 今では、足を地面につけることすら容易ではない。

 やっとのことで足先が地面に触れると、足裏全体が逆さに突き立てられた何千本もの剣に刺されるような激痛が走る。その痛みは骨を砕くような感覚を伴い、瞬く間に全身を駆け巡る。

 ――くっ。

 思わず痛みに叫び声を上げたくなる。

 叫ぶことで、少しでもこの苦痛を和らげられるのではないかと考える。

 だが、神は愚かな者に哀れみを与えはしない。叫ぶ機会すら、無情に奪われてしまう。

 声は喉の奥で凍りつき、外に出ることはない。喉は詰まり、まるで失声したかのように音を発しない。

 声すらも、時間に縛られてしまった。

 叫びたいのに叫べない。声にならない叫びは、喉で腐り落ちていくだけだ。

 僕は何度も自分に言い聞かせる。この場で倒れるわけにはいかないと。歯を食いしばり、痛みに耐えながら、目の前に広がる厳しい道を睨みつける。

 それでも、全身に広がる絶望と恐怖が、僕を次第に侵食していく。

 そして、恐ろしい真実に気づく。

 このように時間がゆっくりと流れる中で、僕の肉体が耐えられる限界が、今まさに迫っているのではないかと。

 凝り固まった時間の中で一歩を踏み出す。それは奇跡に等しい行為だ。

 もしこれを通常の時間の流れに換算するなら、僕の一歩進むたびに、この世界の大陸全体を瞬時に回っているようなものでしょう。

 身体は測り知れない負荷に耐え続けている。肉体が無限に膨れ上がっていくような感覚すら覚える。

それでもまだ体は裂けない。血が噴き出すこともない。なぜなら、全てがこの凍りついた時間によって支えられているからだ。

 …ふん、この時間の圧迫がなければ、僕はとっくに死んでいたのかもしれない。

 もし神の封印を打ち破り、時間の流れが正常に戻ったその瞬間、僕の身体は爆発し、粉々になるのでしょうか。

 だが、今この瞬間、僕はまだ生きている。

 ならば、そんなことを考えている暇はない。

 余計なことを考えず、ただ進め。

 進むのだ――前へ。


 ある瞬間、僕はついに自分の足で辿り着ける限界点に到達した。

 目の前には、完全に停止した時間が広がっていた。目に見えない壁が僕の行く手を遮り、一歩も先へ進むことができない。

 ――そう、これは予想通りの展開だった。

 亡霊たちは、この壁を突破することができない。

 だからこそ、あいつらは海神をこの海域に送り込み、ここを監視させたのだ。大海に近づこうとする者を容赦なく殺し、この場所へ到達することを阻むために。

 自分たちが手に入らないなら、他者にも手に入れさせない。亡霊は時間神の秘宝を奪うことができない以上、人類にもそれを渡すことは決して許さない。

 典型的な思考だ。

 だが、この混沌とした世界を見渡せば、亡霊連邦の判断がいかに正しいか認めざるを得ない。

 もしどちらか一方が時間神の秘宝を手に入れるならば、戦争の均衡は大きく傾く。

 つまり、「創世者・時の心」。それは人間王国にとっても、亡霊連邦にとっても、奪い合う価値がある存在なのだ。

 僕は自分が行おうとしていることの結果をよく理解している。

 それでも、僕はこうしなければならない。

 僕は亡霊を代表するわけでもなく、人類に仕えるわけでもない。ただ、自分の中の何か――強烈な直感に従い、ここに来たのだ。

 ここに来る必要がある。そして、それを手に入れる必要がある。そういう感じだけ。


 目の前の見えない壁を前に、僕は思考に沈んだ。

 時間神が作り出した法則の下で、「永遠」というものは必ずしも美しいものではない。

 **「永遠」とは、「時間」よりも一秒遅いだけの存在だ。**

 **「時間」とは、「永遠」よりも一秒速いだけの存在だ。**

 そのたった一秒の違いの中で、「永遠」は生と死の法則を打ち破り、「時間」が支配する無数の法則を灰燼に帰す。

 神々はいつも矛盾している。

 時間神は「時間」の神でありながら、「永遠」もまた一つの武器なのだ。


 短い沈黙の後、刀を抜いた。

 暗紅色の炎が刃先を包み、その光に照らされて、錠前の形をした魔法陣が目の前に浮かび上がる。

 刀尖をその鍵穴に合わせ、ゆっくりと差し込み、力を込めて捻る。

 「カチリ――」

 魔法陣から響くその音は、耳に心地よく、それと同時に胸中に強い葛藤を呼び起こした。

驚愕から平静へ、あるいは平静から驚愕へ――その音は僕にとって初めてのものなのに、どこか懐かしさも感じさせた。

 その音をどう言葉で表現すればいいのか、僕には分からない。ただ、見て、聞くのみ。

 想像しようともせず、忘れようともせず、ただこの瞬間に起きている事象を感じ取るだけだ。

 一片の壁が三角形の破片となり、氷の上に落ちた。

 その破片が奏でる音は澄んだ旋律を帯び、まるで無数のガラス玉が地上で跳ね回るかのようだった。

 その刹那、何か異変を感じ取った。

 慎重に手を前に差し出し、指先で崩れた壁の部分に触れてみる。

 ―― 

 触れた瞬間、分かった。

 目の前に凍りついていた時間が、ゆっくりと再び流れ始めている。

 結界の裏側から時間の流れが侵入し、その小さな欠片を通して、ここの停滞していた時間が再び動き出しているのだ。

 これこそが道の第一歩。


 再び、ゆっくりと歩みを進めた。

 その先に広がるのは、黄金色に輝く一面の葦原だった。

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