其の三十四 エミと夢の泡影
3489年、木乙月の第二風甲日。寒い冬の日――。
ううん、違う。また癖で間違っちゃったみたい。
その辺り、風鈴には何度も注意されてるんだよね。
そう、私たちの風花湾には冬と夏しかないけど、王国では一年に四つの季節があるんだって。春、夏、秋、冬の四つ。
だから――
3489年、木乙月の第一風甲日。初春。
今日は約束の日、旅立ちの日だ。
白雪村のみんなと一緒に「深雪号」に乗って、南の薄桜城を目指す。
みんなそれぞれの思いを胸に抱えて、それぞれの未来に夢を見てる。この瞬間、すべての時間の軌跡が一つに重なり合って、白雪村は新たな希望を胸に、この素敵な旅に出るんだ。
「本当に決めたの、エミ?」
お母さんがそっと私の髪を撫でてきた。優しい笑顔がその顔に浮かんでるけど、透き通る瞳の奥に、ほんの少し悲しそうな色が滲んでた。
そうだよね。旅立つ子どもを送り出す親の気持ちは、きっと寂しいに決まってる。私たちがいなくなった後、きっとお父さんもお母さんも、私たちのことを思い出してくれるんでしょう。そして私たちも、故郷の美しさや友だち、家族のことを恋しく思うんでしょう。
うっ……そんなこと考えたら、泣きそうになっちゃう。
薄桜城に引っ越したら、一年のうちにどれくらい故郷に帰れるんでしょ。私とお兄ちゃん、そして風鈴の三人が家を出たら、賑やかな墨雪家も一気に静かになっちゃう。お父さんもお母さんも、寂しく思うんじゃないかな。
だから、出発する前に、もっとお父さんとお母さんと一緒にいよう。愛情たっぷりのハグほどぴったりなものって、他にない。
そう思って、勢いよくお母さんに抱きついた。
「お母さん、ぎゅー!」
お母さんは嬉しそうに笑いながら、ぎゅっと私を抱きしめ返してくれた。その腕は離したくないみたいに、いつまでも温かかった。
そんなとき、台所からお父さんの声が聞こえてきた。
「ほら、エイ。これを持って行こう。」
焼きたての魚が五匹、こんがりとしたいい匂いを漂わせて、太い麻紐にきれいに吊るされてる。
「ああ、お父さま。旅の食べ物は凛が用意してるからいらないって言ったじゃん。」
お兄ちゃんがちょっと呆れた顔でお父さんを見つめた。
「ん?そうか?全然覚えてないな、はは――」
お父さんは頭を掻きながら、照れくさそうに笑ってた。
「はぁ、やっぱり忘れてる。でもまあ、お父さまも年だしね。」
お兄ちゃんはため息をついた。
でも、私は違うと思った。きっとお父さんは、忘れたふりをしてるだけで、実は私たちが途中でお腹を空かせないように心配してるんだよね。
私の言葉に、お父さんはちょっと得意げな顔をして、私に向かってこっそりウインクしてきた。お兄ちゃんがその顔を見る前に、すぐいつもの照れ笑いに戻した。
それを見たお兄ちゃんも、ふっと笑みを漏らした。
「ふん、やっぱりエミの言う通りだ。」
「まったく。これ以上、この年寄りの俺をいじめるんじゃないぞ。ほらほら、早く持って行こう!」
お兄ちゃんは頷いて、お父さんからその魚を吊るした紐を受け取った。
お父さんは満足そうにうなずいた。次の瞬間、その笑顔は消えてしまった。表情が急に真剣になって、父さんは兄の肩に手を置き、まっすぐに兄の目を見つめた。
「エイ、ちゃんと聞ってくれ。」
「はい、お父さま。」
「君はもう立派な大人だな。これから南の大都市に行くことになるが、エミのことをしっかり守るんだ。いいな?」
「ご安心ください。お父さま。」
お兄ちゃんは真剣な顔で頷いた。
男同士の約束を交わしたあと、お父さんは晴れやかな笑顔を浮かべ、勢いよくお兄ちゃんの肩を叩いてから台所に戻っていった。
そう、今回の旅は普通の旅行なんかじゃない。お兄ちゃんと一緒に白雪村から薄桜城へ行くというよりは、お兄ちゃんが薄桜城から白雪村へ帰ってきて、私を迎えに来たようなものだ。
そう。私はもう決めていた。お兄ちゃんと一緒に薄桜城で暮らすことを。
お兄ちゃんは薄桜城で裕福な医者をしていて、自分の家も持っている。貴族や将軍のような立派な屋敷ではないけど、私たち二人が住むには十分な家だ。薄桜城の生活に慣れたら、私も早く仕事を見つけるつもりだ。でも、それはもう少し先の話。
風鈴はしばらくお兄ちゃんの家に滞在する予定だけど、その後は離れることになっている。どんなに説得しても、彼女は薄桜城に留まることを拒んだ。
「薄桜城の調査と記録が終わったら、王国の他の場所に向かうつもりだ。」
旅人の風鈴は、まるでタンポポの綿毛みたいな人だ。どんな場所にも長く留まることはなく、一人で広い世界を目指して進んでいく。
「僕には故郷なんてない。だからこの世界が僕の故郷。お墓もいらない。死ぬときは、この美しい空に埋もれるだけでいい。」
こんな悲しくて中二病っぽいことを真顔で言えるのは、きっと風鈴くらいだと思う。
「さて、それよりも、もう時間だね。エミ、エイ。篠木家に向かう準備をしようか。」
私は頷いて、風鈴とお兄ちゃんと一緒に両親に別れを告げ、篠木家に向かうことにした。
そういえば、他のみんなは今、何をしてるかな。
篠木家に着くと、一番に仁也の姿が目に入った。
彼は家の前に立っていて、私たちを迎えに来たように見えた。
……いや、違うみたいだ。仁也はうつむいたままで、どこか沈んだ様子だった。その姿は、まるで裁判を受けたあとの罪人みたい。
「どうした、団長?家の中が暑すぎて、外で涼んでる?」
「えっと、俺は…」
仁也は口ごもって、答えを迷っている。
「ほら、僕の勘は外れないでしょ?また誰かがうちの探偵団の「火の魔女」を怒らせたんじゃない?さあ、どうして凛を怒らせたのか言ってみなよ。」
風鈴のからかい混じりの問いかけに、仁也はため息をついた。
「別に。ただ…」
「何?もっと大きな声で言わないと聞こえないよ!」
「まあまあ、風鈴。この可哀想な団長をこれ以上いじめるのはやめようよ。凛の許しが出るまで、ここで待たせておけばいいじゃない。」
「そうね。今朝は、静かにはならなさそう。」
「うん、確かに。」
「じゃ、準備はできた?」
「もちろん。」
「おい。お前、恋愛経験もないのに、そういうことわかる?」
「確かに未経験だ。でも、凛のやり方には詳しいんだ。」
「ふふっ、さすがは凛ね。彼女の『名望』は隅々まで広がってるってわけか。」
「ほら。もう外でこそこそ話すのはやめよう。もし凛に聞かれたら、僕たちも終わりだから。」
今、お兄ちゃんと風鈴はまるで暗号で話しているみたいに、私にはよくわからないことを言い合っている。
「大丈夫、エミ。すぐにわかるから。さあ風鈴、いこう。」
「オッケー!それじゃあ、三、二、一!」
カウントダウンが終わると同時に、風鈴が篠木家のドアを勢いよく開けた。
その瞬間、世界が灼熱の怒りに飲み込まれるようだった。冷たい空気は一瞬で溶け、木々は燃え上がり、私の骨までもが焼ける音が聞こえそうなくらいだ。吹き出したマグマが火山の頂上から流れ落ち、燃え盛る炎が小さな家を包み込む。
そこにいたのは――地獄の悪魔そのものだった。彼女の怒りの咆哮は、世界中に響き渡った。
「本当に、仁也の頭はどうなってるのよ!全然理解できない!私の計画って、そんなにダメなの?私がちゃんと考えた未来のことが、そんなに悪いって言うの?私と仁也が一緒に薄桜城に定住する、これの何がいけないのよ!それに、新しいお肉屋さんを開けば絶対儲かるってわかってるのに!父さんが狩った獲物を薄桜城に運んで、最高品質の肉製品にすれば、みんな絶対に気に入るに決まってるじゃない!でも、あの木偶の坊は、なんでそんなに迷ってるわけ?家族を見捨てられないとか、無生を面倒見るとか、何なのよ、そんなの冗談じゃない!」
「おや、凛ちゃん。仁也君にもいろいろ考えがあるのじゃ。もし白雪村の若者たちがいなくなったら、わしのような年寄りたちはきっと寂しくなったのじゃ。」
村長は凛の怒涛の言葉にできるだけ穏やかに応えようとしている。でも、凛の鋭い目が彼をじっと睨みつけると、その表情がみるみる青ざめた。どうやら、彼の発言はむしろ火に油を注いだようだ。彼は何か弁解しようと口を開きかけたが、もう手遅れだった。哀れな村長は、悪魔のような怒りの矛先をまともに受ける羽目になった。
「はあ?村長、何言ってんの?そんな保守的な考えが多すぎるから、白雪村が今みたいになっちゃったんじゃないの!我々の若者が外の世界を見に行くのを賛成するどころか、むしろここに閉じ込めようとしてるなんて、信じられないの!村長として失格だよ、失格!それに、無生は村に残るって言ってるじゃない?それなのに、まだ不満なの?」
「わ、わし……」
村長は凛に押されて言葉を失い、困り果てた様子で私たちの方を見た。その目は、助けを求める必死なものだった。
ふふ。つまり、今は私の出番だよね。ここは、村長の大切な孫娘としての腕の見せどころ!
そっと凛の横に歩み寄り、彼女の顔に向かって人差し指を伸ばし、ちょんちょんと頬をつついた。彼女の目線を捉えると、にっこり笑って、目を細め、歯を見せる――
これぞ墨雪咲の「キュートスマイル」!
どんな人でも、この笑顔を見れば一瞬で癒される。もちろん、凛も例外ではない。
「え、エミ?」
彼女の怒りは一瞬で消え、目を大きく開いて私を見つめている。その声は少し震えていた。
ねえ、凛。そんなに怒らないでよ。仁也だって薄桜城に行ったら、きっとすぐに定住したくなるって。それに、もしかしたら私たち、隣同士の家に住むかもしれないよ。
「…そう、だよね。ありがとう、エミ。」
少女の声は驚くほど優しくなり、笑顔を浮かべながら小さく頷いた。
危機を無事に収めると、村長は深く息を吐き、私に向かって満面の笑みで親指を立てた。「さすがわしの孫娘のじゃ」とでも言いたげなその表情に、私も誇らしい気持ちになった。
「ふふ。エミはね、可愛くて、そしてすごいね。」
風鈴がお兄ちゃんをちらりと見ながら言った。
「当たり前だろ。僕の自慢の妹だから。」
お兄ちゃんは誇らしげな笑みを浮かべた。
その時、二階から拍手の音が聞こえてきた。
無生が満足げに頷きながら、階段をゆっくり降りてくる。その後ろには墓守の姿も見えた。
「ふん、やっと静かになったな。これも全部エミのおかげだ。」
「無生、さっきまでどこ行ってた?探偵団の参謀がピンチの時に逃げ出すなんて、失格ってやつじゃない?すべてを僕たちの可愛いエミに丸投げするなんて、これも立派な職務怠慢だよ。」
「冗談はやめてくれよ、風鈴。本当は前輩と仕事の話をしてたんだ。でも、下があまりに騒がしくて話にならなくてさ。こんな僕を哀れむどころか笑うなんて、相変わらずひどいなあ。君のことを信頼できる相棒だと思ってるのに。」
「なに?仕事ってことは、ついに新しい墓守になる決心をした?いいじゃない、相棒。」
「その通りだ。」
無生は自信満々に頷くと、後ろに立っていた墓守を手招きして前に進ませた。
「前輩が言ってたんだけど、墓場の幽霊たちとも相談して、僕が次の墓守に選ばれたんだって。そうだろ、前輩?」
「正解。」
墓守はすぐさま頷いた。
「えーっと、それなら確か、白雪村の墓守には専用の制服がある?じゃ無生、どれにする?もう決まってる?墓守君みたいな屍鬼の着ぐるみ?それとも悪魂の着ぐるみ?幽霊とかもある?」
その時、墓守が頭の着ぐるみを外した。その瞬間、私は彼の素顔を目撃した。
――灰色の髪を持つ、可愛いショタ!?
うわー、ずっと着ぐるみを着ていたから顔がわからなかったけど、こんなに可愛かったなんて!
「無生はまだ決めてないって言ってたよ。でも心配しないで、決まったらすぐに似合う着ぐるみを作ってやるから。」
着ぐるみを外した途端、話し方が普通になった!
でも、どうやら彼は素顔を見せるのがまだ慣れていないらしい。すぐに屍鬼の頭を被り直し、いつもの姿に戻った。
「以上。安心。」
うん、話し方もいつも通りに戻ったみたい。
「前輩の言う通りだよ。実際、早く決めないといけないんだ。正直なところ、僕も仕事が忙しいから、薄桜城には数日しかいられないと思う。休みが終わったらすぐ戻らないと。」
「ふ、無生はちゃんとしてる。あの頑固な兄貴よりもずっとマシ。そう、仁也のやつなんて……」
凛がぽつりと言った。どうやら仁也に対して、まだ少し不満があるようだ。
「まあまあ、静かにして、凛。あ、そう、薄桜城で二人が結婚式を挙げる時には、ちゃんと僕も呼んでくれよな。」
また凛が怒り始めそうになる前に、無生が軽く話を流した。それが効いたのか、凛は落ち着きを取り戻した。
「当たり前じゃん!ああ、結婚式なんて、なんだか恥ずかしいの……ふふふ。」
何か大事な単語を拾ったらしい凛の顔が一気に赤く染まり、ぼんやりと幸せそうな笑顔を浮かべている。どうやら、彼女の頭の中はすでに妄想でいっぱいになっているようだ。
うむ、やっぱり凛は仁也のことを気にしてるんだな。二人の関係がうまくいってるみたいで安心した。
さて、みんなが落ち着いたことだし、そろそろ出発の準備をしない?
私がそう提案すると、全員が頷いて同意してくれた。
「おおっ!旅行だ!ばんざーい!」
風鈴が大声で歓声を上げた。そのタイミングの良さと言ったら見事なものだった。
彼女の勢いに引っ張られるように、その場の空気が一気に盛り上がる。
みんなが一斉に彼女に続いて声を上げた。
「ばんざーい!ばんざーい!」
「カアッ!カアッ!」
なんと、窓の外にいたカラスたちまでが興奮したように鳴き声を上げて、このお祭り騒ぎに加わってきた。
午前中、全員の準備が整い、私たちは「深雪号」に乗り込んだ。
浮遊エンジンが魔力を集め始め、プロペラがゆっくりと回り出す。汽笛の音が響き渡るとともに、巨大な飛行船がゆっくりと空へ舞い上がった。
誰も船室には入らず、全員が甲板の先端に集まった。手を鉄柵に軽く置きながら、周囲の景色に目を奪われている。
目の前に広がっているのは、果てしなく続く空。
――春の美しさが詰まった、何とも言えない素晴らしい青空だ。
私はふと下を見下ろした。
海、灯台、村、雪山……全てが少しずつ小さくなっていく。
世界がどんどん沈んでいき、地上の景色は見えなくなった。私たちを包むのは、遥か遠くまで広がる空と、白く輝く流れる雲だけ。
柔らかな風が甲板を通り抜け、私たちと一緒に踊っているかのようだった。
みんなが楽しそうに話をしている中で、無生だけが少し顔色が悪い。
「うっ、ちょっとくらくらした…もうダメだ!」
「たかが飛行船でダメ、無生?本当に弱いね。今度機会があれば、私がハンター特訓してやるよ。」
「無生、もう少し頑張れぞ。そうだ咲、あとどれくらいで着くんだ?」
んー……それはちょっと分からないね。お兄ちゃん、知ってる?
「今の速度なら、たぶんあと十時間はかかると思う。」
「村長、遅すぎるって!はあ、僕が操縦すればよかったのに。」
「何だって!?十時間?!」
絶望の悲鳴を上げた無生。その場で意識を失い、バタンと甲板に倒れ込んだ。
「ドン!」
額を甲板に打ち付けた彼だったが、その痛みで目を覚ますことはなく、むしろ安心したように完全に気絶してしまった。
「友。無事?」
墓守が慌てて無生の体を揺さぶり起こそうとしたが、彼は駄々をこねる子どものようにその場から動こうとしない。
まあ、無生はしばらくこの調子でしょう。疲れたらそのうち元に戻るだろうし、今は放っておくのが一番だ。
それよりも、せっかくの景色を楽しもう。
目を閉じ、風の音に耳を傾けた。
「うう……」
ん?なんだか想像していた音と違う。
暖かく優しい春風が、こんな悲しそうな声を出すはずがない。
「ううっ……」
本当に人が泣いているような、悲しげな声だった。
異変を感じた私は目を開けた。周りのみんなは景色を楽しんでいて、誰も変わった様子はない。
この声は、近くの誰かから出ているものではない。おそらく、船内のどこかから聞こえている。
船室のドアの前まで行き、そっと扉を開けた。
……そこには、紫色の髪の少女が一人、隅でうずくまっていた。
彼女はとても悲しそうで、止めどなく涙を流しながら静かに泣いている。その涙は、頬を伝って床にポタリポタリと落ちていく。
――よし、また私の出番ね。
彼女を元気づけるには、墨雪咲式の大きな笑顔をプレゼントするのが一番!
「ねえ、風鈴…どうしたの?」
彼女の目を見つめて、ぱちりとウインクしながら、大きな笑顔を見せた。




