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この世界の光と影  作者: 混乱天使
第一章 風花湾、冬の精霊
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其の二十八 常闇

 墓場。

 白鈴花が広がる原野。風花湾に漂う魂の居場所。蒼白と闇が交錯するこの浮世。

 何度目でしょう、ここに来たのは。

 最初に墓守君と出会ったとき、彼は僕を見てくれた。彼は亡霊であり、屍鬼であり、幽霊たちの友。墓場の魂を守る存在だった。小さなランタンを手に、幼い幽霊を連れて、よどみない言葉を持たないながらも、僕に向かって話しかけてきた。「邪霊様」と彼は僕を呼び、海神の仲間とでも思った。彼は僕を海へと導き、海神への巡礼を捧げていた。

 二度目の時、墓守君は仁也に出会った。あの少年には悪意など抱いていなかったが、仁也の激しい怒りと憎しみに直面することとなった。それでも彼は怯まず、悲しまず、怒りもせず、ただそこに立ち、守るべき魂たちと共に、静かに人間に謝罪の言葉を口にした。彼は再び黙って幽かな山林の奥へと姿を消した。

 三度目の時、墓守君は無生と出会った。金色の少年と彼は同じことを思っていた。少年は死ぬことを恐れず、屍鬼になることすら厭わなかった。墓守はその亡骸にそっと祈りを込め、少年を冷たい木棺の中で眠らせた。心のどこかで無生が再び蘇り、自分の友となることを願っていたのかもしれない。もしかすると、二人は最初から友になれる運命だったのかもしれない。

 そして四度目、今日。墓守君はエミと凛に出会った。これが、唯一にして、最後の出会い。

 彼が生前の記憶をわずかに留めていたからかもしれない。凛の狂気と、その手によって命を奪われる寸前のエミに向き合った時、彼は松林の陰に隠れるのではなく、前に歩み出た。白の少女と紅の少女から何を感じたのかはわからないが、人間を恐れるはずの彼が、戦いを止めるために出てきたのだ。

 屍鬼の心は簡単だ。純粋で無垢な赤子のように、凛の怒号や少女の叫びがあまりに騒がしかったのかもしれない。あるいは人が互いに傷つけ合うのを見たくなかったのかもしれない。ただ、か弱いエミを守りたかったのかもしれない。それが彼の選んだ道だった。

 屍鬼にとって「死」とは何を意味するのでしょうか。人間としての最初の死ではなく、亡霊として迎える二度目の死。

 指でそっとその瞳に触れれば、朽ち果てた目は音もなく潰れるでしょう。刃をわずかに胸に差し込めば、遅々と鼓動していた心臓が完全に止まるでしょう。腕をつかめば、脆い骨が簡単に砕けるでしょう。

 そう、屍鬼を殺すのは簡単なことだ。凛にとっては特に。

 墓守と凛がどう戦ったのか、僕は知る由もないし、知りたくもない。さっき見届けた韋駄天の結末と同じく、今、僕が待ち受けているのは、ただ墓守の最期だけだ。

 彼は地に伏し、命を絶っていた。凛の短剣がその胸を貫き、わずかな血さえも流れなかった、屍鬼は本来で不完全な存在だから。息絶え、干からびた体は地に広がり、まるで低く佇む小さな木のようだった


 「旅人、来たのね。」

 凛はゆっくりと立ち上がり、僕を見つめた。彼女の足元には、しっかりと縄で縛られたまま、地面に倒れているエミがいる。

 その声は静かで、波風のないような平穏な調子だった。戦意が高まる炎のような気迫?僕には感じられなかった。激しい憎悪が龍の如く唸りを上げている?それすらも、感じ取れなかった。ただ一つ、目の前の少女の炎が既に燃え尽きていることに気づき、僕は驚きと悲しみに打たれた。いや、正確に言えば、彼女の本来の炎が消えてしまったのだ。

 今、彼女の体を動かしているのは、ただ死のように静かなもの。花見凛という少女を動かすのは、絶望に似た静けさ、死に似た静けさ、安らぎにも似た静けさ。それは、生きた人間には存在し得ない、何か別の静けさ。

 彼女の髪は相変わらず燃えるような赤だが、毛先には冷たい雪がこびりついて凍っていた。頬には墓守の黒い血がこぼれているが、彼女は気に留めていない。それどころか、その血が唇にまでついていても、彼女は一切構わない様子だった。

 彼女は軽装のまま、全ての武器を帯びて立っていた。マフラーも、帽子も、厚手のコートもなく、むき出しの腕は力強いものの、冷たい雪に晒されて赤くなっていた。その姿は、まるで年老いた猟師のようであり、彼女の父親のようでもあった。

 そして、彼女の瞳の中には、まだ何かが燃え続けていた。そう、彼女の炎はまだ燃えていたのだ。

 かつて凛が持っていたもの——激情、陽気さ、強さ、真剣さ、頑固さ、信頼感、凶暴さ……それらは、生きている凛の中で真っ赤に燃え上がっていた本物の火だった。しかし、今ではそれらの気配はどこにもない。良くも悪くも、強さも弱さも、すべてが跡形もなく消え去ってしまった。

 そうだ、赤い炎は死んだ。すべての赤い炎は消え、乾いた灰となった。そして、その灰の上で新たに燃え上がっているのは、蒼白い炎だった。

 蒼白い炎。煌めいてはいるが、光をもたらすことはなく、影のように暗い。激しく燃え上がりながらも、一切の温もりを持たず、氷のように冷たいのだ。

 絶望、虚無、迷い、混乱.....生きた人間の中には決して宿らないそれらが、今この瞬間、すべてが一つに重なって彼女の中で燃え上がっていた。その白い炎の跳ねる先に感じるのは、ただ冷たく、そして残酷なものばかり。

 ――凛。

 「知ってるの、旅人。ここには、父さんが眠ってる。だから、獲物を仕留めたときには、その喉を切り裂いて、父さんの墓にその血を捧げる。今日も、エミの血を父さんに捧げてあげようと思う。」

 ――お前が韋駄天を殺し、墓守も殺した。凛、まさかお前がまだエミを許さないとは思わなかったよ。どうして、まだ諦められないのか?

 「ええ、そうよ。あのカラスは私を止めようとしたから、殺した。この化け物も私を止めようとしたから、殺した。旅人、あんたも私を止めるつもりなの?」

 少女は静かに返してきた。その時、彼女は何かを思い出したかのように、少し微笑んだ。

 「韋駄天、墓守、そう言ったわね?旅人。ふふ、やっぱり私の予想は当たってた。あなた、彼らのことを知ってる。彼らはあんたの仲間なのね。墨雪咲と同じで、あんたも怪物の.....いや、亡霊の手先なんだね。」

 ――亡霊が恐ろしい怪物だとは限らないし、人間が光り輝いているとは言えないでしょ、凛。この世界には光も影もある。光だからと言って必ずしも輝かしいわけじゃないし、影だからと言って必ずしも真っ暗とは限らない。今のお前を見てごらん、お前が言うその怪物と一体何が違うというのか?

 「つまり、認めるのね?はは、やっぱり、あんたもエミも、これらの怪物と同じ仲間って。」

 ――説明する気なんかないよ。それより、お前こそ人間らしさなんてまるでないじゃないか。

 凛は喉を震わせ、苦しげな笑い声を漏らした。

 「ふっ、はは。わかってるわ。私を笑わせようとか、怒らせようとか、そういうつもりでしょ?前みたいに。」

 ――今のお前がそんな気分だとは思えないけどね。実を言うと、僕にもその気はない。もしかしてお前に「血魔」とでも呼びかけて、それで何百メートルも追いかけ回されてみるか?なんて、あり得ない夢の話だ。

 「そう、夢。ただの夢に過ぎないわ。無生は病気なんかじゃなくて、海辺で走り回り、雪球を丸めて仁也に投げつけたりしている。木も怪物も、神もいない。呪われた子供もいないし、嘘ばかりつく旅人もいない。ねぇ、旅人.....なぜ私をこの夢から覚まさせたの?」

 ――つまり僕のせいだって?僕がここに来なければ、君たち白雪村の運命は変わらず、すべてがうまくいったとでも?言っておくけど、僕がいなかったらここはとっくに終わってたよ!

 「ふっ。はは。」

 凛は肩をすくめて、無力そうに笑った。

 「かもね、旅人。今となってはもう、そんなことを考える気にもならないよ。あんたと口喧嘩したり、戦ったりするのは楽しかったわ。本当なら、こんな厄介なことさえなければ、きっといい友達になれたかもしれないのにね。」

 ――それは嬉しいね。お前と友達になれたら、毎日気をつけなきゃいけないよ。何しろ「信頼できる友人」に殺される日が来るかもしれないから。そういうゲームが好きなんだか?

 「ふふっ、やっぱりあんたらしい言い回しね。腹が立つのに、なんだかおかしくもあるわ。もっとあんたと話していたいけど......でも、もう終わりにする時が来たみたい。」

 そう言うと、凛の笑みは消え、視線が険しく変わった。彼女はナイフを構え、こちらに向けた。

 「さあ、武器を置いて、こちらに投げなさい。」

 ――何を企んでいるんだ?

 「余計なことは言わないで。あんたにはわかっているはずでしょ。」

 ――ふん。

 仕方なく、武器を手放して、凛の前へ投げた。彼女は一瞥もせず、黒い刀を鞘ごと蹴り飛ばした。

 「そう。次に、あのカラスをここから消しなさい。もう矢を無駄にする気はないわ。」

 「ガア!」

 凛の言葉に中尉が叫び声を上げた。彼の頭の羽毛は怒りで逆立っており、まるで今にも凛に向かって鋭い羽を飛ばそうとしているようだった。

 だが、今ここで彼にそんなことを許すわけにはいかない。凛は賢い狩人で、獲物の弱点を見抜く方法を知っている。彼女は僕と中尉を相手にするのが難しいと理解し、エミの命を握っていた。軽率に攻撃すれば、彼女はさらに早くエミを殺すでしょう。今は冷静でいなくてはならない。

 ――中尉、冷静になれ!聞いてる?攻撃はするな、ガア―!ガア―!

 「ガ―!」

 ――ダメだ!そんなことをしたら、エミが危険だ!

 「アハハっ、旅人、カラス語まで習得したってわけね。」

 凛は冷ややかに笑い、ゆっくりとしゃがみ込んだ。彼女は手に持ったナイフをそっとエミの腕に当てた。

 ――凛、やめろ!

 「ねぇ、旅人。時に、言葉よりも行動が物を言うことがあるのよ。よく見てなさい。あんたのうるさいペットも、すぐに静かになるから。」

 ためらいもなく、凛はナイフをエミの腕に突き刺し、すぐに引き抜いた。

 「う、うぅ!」

 エミの腕から、瞬く間に血が流れ出した。彼女は痛みに目を見開き、大粒の涙をこぼしながら身をよじらせたが、束縛された体は動けない。声を上げようとしても、厚い布で塞がれており、叫ぶこともできない。ただ、凛の目にはまるで狩人が仕留める獲物のように映っていた。

 ――中尉、お願いだ、やめてくれ!

 「ガア―!ガア―!」

 ――彼女の言うことを聞いてくれ。ここは僕に任せて、エミを必ず守るから!

 「ガアアア!」

 僕の意図を察してくれたのか、あるいは僕の無力さへの怒りからか、中尉は鋭く鳴いてから素早く空に舞い上がり、山の林へと飛び去った。

 「ふぅ、手間かけさせてくれるわね。エミ、貴様の無能な友達が、結局ただあんたを傷つけただけだったわけだ。」

 凛は足を振り上げ、エミの顔を強く蹴りつけた。エミは苦痛に叫び、鼻血が止めどなく流れ出した。

 凛が無情にエミを暴行する姿を見ても、僕は何もできない。

 またか、またこの忌々しい無力感だ。何度目でしょうか、数え切れないくらいだ。仁也が海神に殺されるのをただ見ているしかなかった。無生が仁也の目の前で倒れるのを見ているしかなかった。そして今、エミが凛に殺されるのをただ見ているしかないのか?

 くそ、くそったれ!もしも武器が手元にあれば、もしも機会があれば、凛を蹴り飛ばすどころか、彼女の首を躊躇なく刎ねてやるでしょうか。でも、凛がエミに加えた傷を見ればわかるように、彼女は本気だエミも、僕も生かすつもりなんてない。彼女の行動は、ただ無慈悲に獲物を弄ぶ狩人の遊びに過ぎないんだ!

 だが、それでも諦めるわけにはいかない。今、エミはまだ生きている。傷も致命的ではない。つまり、まだ何かの手段があるはずだ!

 ――凛、頼む、エミを放して!彼女は何も悪くない!

 「え、そうなの?それが探偵さんの結論なの?」

 凛は肩をすくめて、ため息をついた。

 「いいわよ、じゃ言ってみなさい。もし私を説得できたら、エミを見逃してもいいよ。」

 ――よく聞け。白雪村のすべては、僕のせいなんだ!僕こそが海の悪魔だ、仁也を殺した犯人なんだ!僕がカラスの主で、墨雪家や篠木兄弟を襲った亡霊の元凶だ。エミを脅して、僕の命令に従わせたんだ。どうだ、わかった?

 凛は驚愕の表情で僕を見つめ、信じられないと言わんばかりに口を開けた。しかし次の瞬間、彼女は突然大笑いを始めた。

 「はははっ!旅人、とうとうここまで狂ったか?妄言を並べ始めたの?」

 だが、その笑みはすぐに消えた。彼女の瞳に再び蒼白の炎が燃え上がった。

 「言ったはずよ、旅人。今の私はそんな戯言に付き合っている暇はないの。あんたとその茶番劇なんか、地獄に持って行きなさい。」

 ――凛!

 「ええ。まずはエミ、次にあんた、そして最後に私。地獄で再会したら、そこで君がその演技を披露してくれればいいわ、ね?さあ、始めましょう。いや、終わりにしましょう。」

 そう言って、彼女は優しい母親のようにエミの額を撫で始めた。

 「エミ、ねぇ。仲間だったあんたには、一瞬で楽にしてあげるから、安心して。」

 けれども、その言葉に込められた殺意を感じ取り、それが狩人が獲物を処刑する直前の「慈悲」に過ぎないことを悟った。

 「うっ、うっ!!!」

 エミは恐怖に泣き叫び、震えが止まらなかった。最後に僕を一目見つめると、静かに目を閉じた。

 ――凛、やめろ!

 

 エミの喉元に刃がかかる寸前、突然、空気を裂くような不気味な咆哮が響き渡った。

 「うああああ!」

 この声には聞き覚えがある。寒鴉の声でも、幽霊や海神の声でもない。しかし、この鼻をつくような生臭い呪力の息吹がすべてを物語っていた。

 ――悪魂だ!凛、やめろ!悪魂が来た!

 敵の存在を感じ取ったのか、凛は動きを止め、立ち上がって周囲を警戒し始めた。

 チャンスだ。もし僕が冷酷であれば、今すぐにでも凛に飛びかかって倒していたところでしょうか。

 だが、凛と同様に、悪魂もまた致命的な脅威だ。今、僕がすべきことは、この二つの迫りくる危険の狭間で、エミを救い出す方法を見つけることだ!

 ――凛、しばらくやめよう!僕たちが争えば、悪魂に全員殺されるだけだ!

 凛は首をかしげ、じっと僕を見つめた。そして少し考えたあと、ゆっくりと首を振った。

 「関係ないわ、旅人。どうせ私たちは全員死ぬ運命なんだから。」

 ――くそっ、凛!よく考えろ!お前は自分の手で僕とエミを裁きたいんでしょ?この怪物に僕たちが殺されたら、お前の苦労が台無しになるぞ!せっかく捕えた獲物を他人に横取りされて、狩人としての誇りに傷がつくんじゃないのか!

 「ふん。」

 凛は少しの間、沈黙したあと、軽くうなずいた。

 「確かにそうね、旅人。気付かせてくれてありがとう。」

 そして、彼女は微かに微笑んだ。

 「そう、あんたは言っていたわね、この怪物もエミを殺そうとしていたって。前回は失敗したけど、今回はどうかしら?」

 ――凛、それはどういう意味だ?

 「ふふ、旅人。私をそんなにケチだと思わないでよ。どうせ地獄行きの仲間なんだから、誰が裁くかなんて大した問題じゃないわ。今回は、この怪物にその役目を譲ることにするわ。エミを殺したいなら、好きにさせればいい!」

 ――凛、お前、正気か!

 「そう、旅人。忠告してくれたお礼に、あんたにも一つの「恩恵」をあげるわ。狩りの現場を目の当たりにする機会なんて、そうそうないでしょ?」

 彼女は匕首を僕に向けて、冷たく言い放った。

 「覚えておきなさい、ここから一歩でも動いたら、エミに一刺し入れるわよ。さあ、一緒に、エミがこの怪物に引き裂かれる美しい瞬間を見届けましょう。しっかり目を開けてね。」

 「シュッ――」

 一瞬にして移動する音が響き渡る。

 次の瞬間、悪魂が視界の上空に現れた。目の前の状況に驚いたのか、悪魂は凛とエミをじっと見つめたまま、微動だにしなかった。

 「うあ?」

 疑わしげな声をあげた悪魂。硬い指の骨が、カリカリと擦れる音を立てている。

 「見てごらん、旅人。奴もわかってるのよ。これは奴のために用意した屠殺の宴なのだって!」

 凛は片膝をつき、目を閉じて両手を広げ、まるで敬虔な巡礼者のように悪魂を迎え入れた。

 「うああ?!」

 悪魂は凛の行動を不思議そうに見つめながら、ゆっくりと降りて彼女の目の前にまで接近した。その距離ならば、勝手に爪を軽く振り下ろせば凛の胸を貫くことなど容易いはずだ。

 だが、既に絶望に支配された凛に、恐怖の色はなかった。彼女は依然として巡礼者の姿勢を保ち、悪魂の屠殺が始まるのを待ち構えているかのようだった。

 驚いたことに、凛のこの行動は功を奏した。悪魂は凛に手を出すことなく、じっと彼女を見つめたあと、視線をエミに移した。

 その瞬間、悪魂は高い鳴き声をあげ、場でぐるぐると回り始めた。まるで祝祭の舞を踊っているかのように。その巨大な骨の手が十指をカチカチと擦り合わせ、まるでこの屠殺が始まるのを待ちきれないかのように。

 「うあ、うあああ!」

 悪魂が嬉しそうに鳴き声を上げ、エミの首に爪を振り下ろそうと高くかざした。

 ──くそっ!死ねえ!

 その瞬間、足元の雪を掴んで、悪魂の頭めがけて思いっきり投げつけた。

 悪魂はこの突然の攻撃に驚いて、雪が砕け散る音と共に頭を上げ、信じられないという顔でこちらを見た。

 「何だよ、旅人!何をしてるの!?」

 凛が僕の動きに気づいて目を見開き、苛立ったように地面を踏みつけ、手にしていた匕首を構えた。

 「いいわ、旅人。そこまで邪魔をするなら、こっちも容赦しない!私──」

 鋭い爪が凛の喉元を突き破り、鮮やかな赤が一瞬で広がる。彼女の体が震え、匕首が手から落ちた。

 「な......に......」

 そう、悪魂の爪が彼女の首を貫通していたのだ。軽く腕を持ち上げると、凛の体全体が空中に持ち上がった。

 「く......そ......旅......」

 「うああああ!」

 悪魂が凛の目を睨みつけ、呪いのような鳴き声を上げると、そのまま指を強く閉じ合わせた。

 「グチャ!」

 鋼鉄のような二本の指が凛の気管を締め付け、かすかな咳と共に彼女の口から血が噴き出した。首が力なく垂れた時、彼女の動きは止まった。悪魂は凛を放り投げ、彼女の体は白い雪原に赤い線を描くように叩きつけられた。

 その間に僕はエミの元へ駆け寄り、近くの武器を手に取った。影の炎を星滅に纏わせる余裕もなく、悪魂に向かって力いっぱい振り下ろした。

 悪魂は驚いて手をかざしたが、鋭い刃がその硬い手に食い込み、痛みに叫び声を上げた瞬間、姿がかき消え、離れた場所に現れた。

 ──逃がさない!影の霊・黒炎斬!

 全身の魔力を注ぎ、武器に炎を宿すと、燃え盛る月牙を放った。

 だが距離が少し遠すぎる。月牙が届く前に悪魂は簡単に回避し、さらに上空に現れた。

 「うああああ!」

 悪魂が頭を下げ、怒りを込めて僕に鳴き声を浴びせかけると、そのまま森の奥へ逃げていった。

 ──ふん。

 追いかけたい気持ちはあったが、今はお互いここで引くのが得策だ。僕にはもう戦う気力がない。今すべきは、まずエミの傷の手当てだ。

 急いでエミの元へ戻り、彼女の口に詰められた布を外して、手際よく縄を切り、優しく支え起こした。

 腕の傷から血がまだ完全に止まっていないが、幸いにも致命傷ではなさそうだ。

 「う、風鈴......」

 その時、エミは僕を強く抱きしめ、堰を切ったように涙を流している。

 ──ごめん、エミ。話は後だ。まずは傷の手当てをさせて。

 「風鈴......」

 彼女はすすり泣きながら、僕の名前を呼んだ。

 マフラーを包帯代わりにして彼女の傷を巻くと、エミがふと目を遠くに向けた。その先には、すでに雪で覆われかけた凛の体が横たわっていた。

 「風鈴、あれ......凛なの?」

 震える声でそう聞く彼女の手をしっかり握り、小さく首を振った。

 ──気にしないで、エミ。今はここを離れる。

 「でも......」

 ──もういい、エミ。よく聞いて、余計なことは考えるな。

 「はい......」


 僕たちが去ろうとしたその時、空から再び亡霊の声が響いてきた。

 「うう......」

 すぐにわかった。今度は幽霊だ。その声を聞いたエミは、また震え始めた。

 ――怖がらなくていい、エミ。今度のは味方だ。僕のそばに立って、少しだけ待ってて。

 すると、やっぱり現れた。あの松林の奥から、幼い幽霊がふわりと飛び出してきた。

 見覚えがある。墓守君に付き添っていた小さな幽霊だ。だけど、墓守がもう亡くなったことを、どう伝えたらいいのか分からない。

 もしかしたら、何も言う必要はないのかもしれない。幽霊は僕を見つけると、静かにうなずいて、墓守の遺体へゆっくりと向かっていった。

 「うぅ、うぅ!」

 焦るように小さな鎖で墓守の体に触れ、何度も呼びかけていた。でも、もう墓守が応えることはなかった。

 ――ごめん......友を守れなかった、ごめん。

 幽霊は僕の言葉を理解したかのように、悲しげに鳴き、そしてゆっくりと空中へ舞い上がった。

 「ううーーー!!」

 その叫びと共に、幽霊の体が風船のように膨れ上がり、薄白い体が血のように赤く染まっていく。暗赤色の棘が、鎖に沿って次々と現れ、数秒で二本の鎖が全て鋭い棘に覆われてしまった。

 これは、幽霊が怒りの形態に変わった時の姿。僕はそれを知っている。

 小さな幽霊は、僕とエミを一瞥した。僕たちに怒りを向けないことがわかる。きっと墓守がどうして亡くなったか、それは理解したのでしょうか。

 そして、怒りに燃える幽霊は山林の奥へと飛び去り、その赤い姿が雪の中に消えていった。

 その後、再び大雪が降り注ぎ、静かにこの世界を覆い尽くしていった。



小説を読んでいただき、ありがとうございます。

もし良かったと思っていただけましたら、作品に評価をお願いいたします。

一つの星でも問題ありません。もちろん、より高い評価をいただけると嬉しいです。

ご協力いただきありがとうございます。

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