其の二十二 海神
――壮大な裁きは、この壮麗な黎明と共に始まった。少年の世界は赤い。
約束されたかのように、太陽は完全に昇った。すでに赤く燃え上がっていた海と空の境界線は、太陽により一瞬で炎に包まれた。地平線は赤い。
輝く天幕の中、白い羊たちは群れを成し、狼たちに屠られていく。真紅の血が噴き出し、瞬く間に燃え広がり、夜の残り香を完全に殺し尽くした。雲は赤い。
真っ白な氷原は、火のように赤い陽光を反射し、まるで燃え盛っているかのようだった。しかし、氷は溶けず、雪も消え去らなかった。陽光はそれらを傷つけることができず、それはただ人間の血を求めていた。温かい血が彼らと交わるとき、初めてそれは完全に死ぬ。氷原は赤い。
太陽は赤い、灯台は赤い、海の歌は赤い、カラスの瞳は赤い。
心臓は赤い、血は赤い、魂の叫びは赤い、少年の涙は赤い。
――脆弱な運命は、この刺すような寒風の中で巡り続ける。旅人の世界は白い。
彼女はどれほどこれがただの夢であればいいと思っただろうか。次の瞬間、エミに起こされることを願っていた。地平線はただの真っ白な綿菓子であり、彼女と同じように美しい夢に浸っているだけだ。何も燃えておらず、夜明けも訪れていない。まだ炎に包まれていない地平線は白い。
彼女はどれほど空を見上げたかったことか。空は依然として青く、雲は純白のままだった。澄んだ空の下、白い羊たちが移動していた。狼もおらず、羊たちも死んでいなかった。まだ燃え上がっていない雲は白い。
彼女はどれほど氷が溶け、大海が目覚めることを願っただろうか。約束された夏が訪れ、みんなで船に乗り、大海の奥深くへ旅立つ日を夢見ていた。凍りついた海もなければ、凍りついた時間もない。まだ朝日に照らされていない氷原は白い。
太陽の縁は白い、灯りは白い、大海の温もりは白い、血を浴びていないカラスの歯は白い。
止まっ心臓は白い、凍りついた血は白い、虚無の泡影は白い。旅人の夢は白い。
――虚ろな神々は、この果てしない闇の中で終焉を迎える。海神の世界は黒い。
地平線はすでに過去のものとなり、新たな地平線は広がる無尽の森となった。森は動くことなく、しかし海へと向かい、その先には地平線も海も太陽も殺される運命が待っている。死んだ森は黒い。
無数の黒い羽根が空中で集まり、渦を巻いてはまるで地獄の筆で描かれた曖昧な輪郭を形作る。やがて、黒い羽根は黒い蝶へ、黒い蝶は黒い灰へ、そして黒い灰は黒い雪へと姿を変えた。黒い雪は渦を巻き、空高く昇っていく。それらは天空に戻り、雲の柔らかな体を貫こうとしていた。死んだ雲は黒い。
黒いマントが空中で舞い、まるで漆黒の影のように、風花湾の運命を包み込んでいた。黒いフードの下には、純白で神聖な仮面が隠されており、その中央には白い鳥のくちばしがあった。いや、鳥のくちばしではない。鋭利な三日月型の刃だ。それが死神かどうかはわからないが、彼はただの敬虔な信徒かもしれない。しかし、その手に握られた黒い匕首が、彼の正体を隠すことはなかった。匕首の刃先には、青色の呪力が凝縮され、瞬く間に黒い酸となり、一滴ずつ地面に落ちていった。人間の血を求めていた氷や雪は、この不気味な黒に包まれ、ついに溶け去った。死んだ氷原は黒い。
落ちた太陽は黒い、灯台の残骸は黒い、静まり返った海は黒い。嘲笑うカラスは黒い。
腐り果てた心臓は黒い、侵された血液は黒い、繰り返される惨劇は黒い。海神の息吹は黒い。
――仁也、早く逃げろ!
もしかしたら、僕の叫び声は黒い蝶に飲み込まれたのかもしれない。仁也には届いたのかもしれないけど、もう振り返ることなんてできないって彼もわかってるのかもしれない。今、彼は自分が何に直面しているか、ちゃんとわかってるはずだ。もしかしたら、次の瞬間には恐怖で叫んで、すぐに逃げ出して、僕たちはまた一緒に家に帰れるんじゃないか。初めて海に飛び込んだときみたいに。
でも、今のこの瞬間、残念ながらもうそんなことはありえないんだって気づいてしまった。すべてが遅すぎた。すべてが、もう壊れてしまった。
彼は篠木仁也、探偵団の代理団長で、僕たちの頼れる仲間であり、無生の兄だ。海が彼を選んだんじゃない。彼が海を選んだんだ。彼は、数え切れないほどの死者たちと同じように、海の深いところへ進んでいって、もう二度と戻ってこない。
首が斬られるまで、頭が転がり落ちるまで、血が氷原を真っ赤に染めるまで、息が止まるまで、そして夜明けの柔らかな光に包まれるそのときまで。海は彼をもう振り返らせない。神も、亡霊たちも、彼をもう戻らせない。でも、たぶん仁也は、弟を救おうと決めたその瞬間から、もう一度も振り返るつもりはなかった。
彼は帽子をふっと取り、剣を抜いて、鞘をポイッと地面に投げ捨てた。
そして、渾身の力を込めて海神に斬りかかる。
けど、海神はひらりと二歩後ろに下がって、あっさりかわしてしまった。
重たい剣は地面にガツンと叩きつけられ、足元の雪が飛び散った。剣の先が硬い氷に当たると、バチンと跳ね返り、その衝撃で剣は彼の手から吹っ飛んだ。まるで暴走した矢みたいに、くるくる回りながら地面に落ちていった。
バランスを崩した少年は、そのまま前のめりに倒れ込んだ。顔から硬い氷にズシンとぶつかり、鼻からすぐに血が噴き出した。彼は怒り狂いながら、必死にもがいて起き上がろうとした。
それを見ていた不気味な木の上の寒鴉たちは、まるでお笑いを見ているかのよう。おかしさに耐えきれなくなったのか、バサバサ羽ばたきながら、ガーガーと笑い声をあげた。
海神は、ただ黙って少年を見つめていた。その仮面の裏には、どんな感情が隠れているのでしょうか?それは僕にはわからない。ただ彼は待っていた。黙って、じっと待っていた。彼は、少年が地面から這い上がるのを見ていた。彼は、少年が再び剣を持ち上げるのを見ていた。少年が怒鳴りながら突進してくるのを見ていた。そして、銀白色の剣が頭上から振り下ろされるのを見ていた。
でも、海神はただ軽く手を動かしただけで、ぼんやりとした輪郭に変わり、そのまま姿を消した。
黒い羽根が剣によって真っ二つに切られ、黒い蝶が死に、黒い灰が再び空中に舞い上がると、黒い輪郭が少年の背後から現れた。
少年はすぐに振り向き、長剣を後ろに向かって横に一閃させた。鋭い剣先が空中に銀白色の三日月を描くが、その月の一角は、どこからともなく現れた影に瞬く間に飲み込まれた。
それは海神の手に握られた黒い匕首だった。鋭い鋼が、海神の濃縮された呪力から生まれた黒い墨のような酸に触れたその瞬間、刃は一瞬で溶けた。いや、溶けたというよりも、むしろ腐り落ちたという方が正しい。そう、鋼はまるで人間の肉のように腐り、死んでいった。空気中に漂うのは、金属の焼けた臭いではなく、まるで血肉が腐り落ちるような嫌な臭いだった。
次の瞬間、その黒い匕首がまるで肉を切り裂くように、硬い剣を真っ二つにした。
「くそっ!くらえ!」
仁也は数歩後ろに下がり、剣の柄を恐ろしい仮面に向かって力いっぱい投げた。海神はその隙を見逃さず、短剣で飛んできた剣の柄を弾き返した。剣の柄は空中でくるくる回り、次第に腐敗し始めた。そして地面に落ちたときには、ただの黒い煙を上げる残骸だけが残っていた。
少年と海神の戦いを目の前にして、僕の心はどんどん焦ってきた。今、僕はただ呆然とその場に立ち尽くしている。まるで足が木の根みたいに、冷たい氷にしっかりとくっついちゃってる。そんなこと、すべきじゃないってわかってるのに、気づけば動けなくなってた。前にも進めないし、後ろにも下がれない。ただ……立ち尽くしてるだけなんだ。
これはマズい。このままだと、仁也が本当に殺されちゃう。風鈴、何をためらってるの?風鈴!
深呼吸をして、心の中の最後のわずかな希望を踏みにじった。もう妄想は捨てよう、夢の泡なんか抱きしめるのはやめだ。ここまで来た以上、儀式に自分から巻き込まれてしまった以上、もう引き返すことはできない。
だから、余計なことは考えない。今、最も大事なのは、仁也と一緒にどうやって勝つかだ。いや、勝つなんて無理だ。この未経験な人たちは、亡霊の恐ろしさなんて全然知らない。僕はここにいる誰よりもそれを理解してる。人間の弱い体で、強大な邪霊に立ち向かうなんてできない。僕と仁也だけじゃなく、白雪村の人たち全員が一緒に戦ったとしても、できることは、この氷原を血で真っ赤に染めることだけだ。
今、目標ははっきりしている。攻撃を仕掛けて、敵を牽制し、なんとか仁也を先に逃がす方法を考えないと。海神は恐ろしい近接戦闘の能力を見せつけているから、できるだけ接近戦は避けたい。
とにかく、絶対に引き下がるわけにはいかない。目の前に強大な邪霊がいても、仁也と一緒にこの海で死ぬ可能性が高くても、僕だけは、絶対に退かない!
左手を軽く下げると、指先に冷たい感触が伝わってきた。いい感じだ、今回はうまくいきそうだ。
左手で刀の鞘をしっかり握り、右手で刀の柄を握る。深呼吸して、力を入れて「星滅」を抜く。目を閉じて、魔力の存在を感じ始める。
血液の中を奔流する魔力、心臓と共に脈打つ魔力、骨の中で轟音を立てる魔力、体中の皮膚から弾け出そうとする魔力——
奔流し、跳ね上がり、轟き、爆裂して、全てが集まり、全てが舞い上がり、全てが燃え上がる!
紫黒色の刀刃が空気に触れた瞬間、鮮やかな赤い魔力が刀身の模様の中で奔流する。まるで急速に伸びて散らばる血管のように、刀身全体が熱い魔力で満たされていく。
その瞬間、暗紅色の炎が刀刃の上で燃え上がった。
詠唱も準備もいらない、ただ長い間忘れてた筋肉の記憶を呼び戻すだけ。昔のように、何年も前のあの感じ!
星滅を高く掲げて、一気に地面に叩きつける。赤い炎が巨大な三日月になって、近くにいる邪霊に真っ直ぐ飛んでいった。
――影の霊・黒炎斬!
正直、「霊」のレベルの魔法じゃ亡霊には全然効かないってわかってる。それに、影の元素の魔法だから、亡霊に対してはもっと意味がない。
亡霊たちが使い慣れているのは影の元素の呪力だから、ほとんどの亡霊は影の元素に対して生まれながらに適応しちゃってるんだ。
まさに僕は影元素に選ばれた人間で、幸運なのか不運なのかよくわかんない。影の魔法って、なんだか世界のパラドックスみたいで、本来存在すべきじゃないもののような気がする。そう、人間は光で魔力を使い、亡霊は影で呪力を使う。光の魔法や影の呪術は、純粋に存在するものだけど、影の魔法? これはどこかで間違ってる、逆転してる気がする。まるで創世神が世界を創る時に残したちょっとした冗談のようだ。
もしかしたら、人間にとって僕はかなり珍しい存在かもしれない。でも、今僕が直面しているのは人間じゃなくて、強力な亡霊だ。ここで色んな元素や魔力と呪力の関係を探るより、目の前のことに集中するべきだ。
とにかく、敵の注意を逸らして仁也に少しでも時間を稼がなきゃ!
明らかに、僕の妨害は効果があった。海神は振り返って僕を見て、突然の攻撃に気づいて、すぐに数歩後退した。燃える三日月が彼の前をかすめて、マントの一部に当たって、明らかに焼けた跡を残した。
その小さな動きが仁也にチャンスを与えた。彼は両手で寒霜杖をしっかり握り、全力で海神の頭を狙って振り下ろした。
僕は嬉しい。今回は仁也がためらわずに、ようやく僕が考えていた通りのタイミングで敵を攻撃してくれた。
本来なら褒めるべきことなのに、すぐに変なことに気づいてしまった。
寒霜杖?寒霜杖って……
頭の中に、この鉄パイプのシーンが次々と思い出される。
僕の頭に振り下ろされた。もう一回、また頭にぶつかった。エミがそれを握ってた。仁也がそれを高く掲げた。青色の光を放った。それが寒鴉を呼び寄せた。元々の名前は「寒霜」じゃなかった。村長が拾って、エミに渡した……
エミはただ名前を付けただけで、彼女が持ち主じゃない! そして本当の持ち主は!
――仁也、だめ!
大声で叫んだ時には、もう手遅れだった。
海神は人差し指を空に向けて指し、握りこぶしを作った。その瞬間、まぶしい青色の光が魔杖全体を包み込んだ。
呪力が満ちてくると、寒霜杖がまるで突然生き返ったみたいに、仁也の手からするりと抜けた。銀白の鋼の蛇が空中を一回くるっと回って、仁也の鼻にドンとぶつかった。
「うあ!」
認めたくないけど、「カチッ——」って音が聞こえちゃった。それ、骨が折れた音だ。
一瞬で、血が鼻から噴き出した。仁也は痛みで叫び声を上げ、目を閉じて鼻を押さえた。多分、その激しい痛みが彼の本能を呼び覚ましたんだ、彼は振り向いて、無我夢中で逃げようとした。
でも、海神は左手をパッと広げて、寒霜杖が空中で方向を変えて、すぐに手に戻った。そして、仁也の後頭部を狙って、寒霜杖を力いっぱい投げた。
硬い鉄パイプが仁也の後頭部にピタッと当たった。少年は震えて、そのまま地面に倒れ込んだ。寒霜杖から出た光点が四方に散って、海神の制御を離れたみたいに、「ドスン」と地面に落ちた。
たぶん、さっきの一撃は致命的じゃなかった。少年が倒れたのを見たが、彼はすぐに見上げた。
彼は必死に息を吸い込んで、右手を伸ばしてその魔杖を掴もうとした。それが彼に残された最後の力だった。今、仁也はまるで狂った獣のように、理性を完全に失って、ただ本能で行動してるんだ。
でも、海神はもう仁也にチャンスを与えなかった。
その瞬間、二度と姿を消して黒い羽の中に入り込んだ。そして、仁也の横に突然現れた。匕首を高く掲げて、そっと突き刺そうとした。
右手が寒霜杖に触れようとしたその時、漆黒の匕首が巨大な釘のように手のひらを貫通した。刃先から滴る黒い酸液、肉体から溢れる鮮やかな赤い血、氷の上で溶けた雪水、その瞬間、すべてが一緒になった。
少年はかすれた声で叫び、すぐに意識を失った。
――くそ!死ね!
その無限の怒りが暗紅の三日月に変わり、咆哮しながら海神に向かって飛んでいった。
今回は、海神は避けなかった。三日月が彼の胸に当たって、砕けて大小の火花が彼の体に付着した。
僕の攻撃を直撃したけど、彼は全く気にしないみたい。多分、彼が気にしてるのは、この美しい処刑儀式だけなんだ。すべてのステップを優雅に終えるまでは、僕みたいな礼儀知らずには構わないんだ、少なくとも今は。
火炎が彼の体に付き始めて、激しく燃え上がってる。でも、彼は全然気にしてない。ただ、匕首を仁也の手からそっと引き抜いて、ゆっくり立ち上がった。
それから彼は振り向いて、静かに僕を見つめた。まるで彫像のように、ただじっと僕を見てるだけ。動きも音もなく、そのままの姿勢で、火焰が彼を包み込んでる。
炎がマントを噛みついて、「シュー」という音を立てながら、だんだんその仮面にも広がっていく。一部を焦げた状態にしてしまった。
だが、彼はただ静かに、燃えてるのに僕を見つめ続けてる。
数秒後、匕首を掲げて、自分の胸に向けた。黒い酸液と仁也の血が、刃先からゆっくりと滴り落ちる。最初の一滴が炎に触れた瞬間、その燃えている魔力の炎は一瞬で消えちゃった。
――なに?!
手を伸ばして、仮面の焦げた部分を拭い去った。炎がマントを引き裂こうとしても、今この瞬間、そのマントも仮面と同じように、全くの復元の状態で、傷一つないまま残ってる。
まるで嘲笑ってるみたいだった。まるでマジックの一発芸みたいで、観客がピエロのトリックを冷酷に引き裂いてしまうような感じ。
その瞬間、ずっとこの儀式を見ていた寒鴉たちが、一斉に大声で叫び始めた。それらはもう大喜びで、数えきれないほどのカラスの悪戯っぽい笑い声が、この冷たい氷原に響き渡っていた。
執行儀式が終わった後、海神もようやく勝利の祝賀に加わった。空中で指をくるくる回してから、倒れている仁也を指さした。それから首を傾げると、その仮面が激しく震え出した。
音は聞こえないけど、僕にはわかる。彼は今笑っている。仁也を嘲笑い、僕を嘲笑い、彼に殺された無力で狂った人たちを笑っているんだ。
まるで主人の気持ちを感じ取ったかのように、寒鴉たちはさらに大声で笑い始めた。彼らは狂ったように羽ばたき、木の枝の上で飛び跳ねていた。
そのぞっとするような大木は、騒がしいカラスにうんざりしているかのように、触手を振るタコみたいに、上にいる寒鴉を容赦なく振り落とした。大木の残酷な行動に対して、カラスは全く怒らず、むしろその枝の勢いを利用して、空に舞い上がり、処刑場の上で楽しそうに旋回していた。
その後、海神は匕首を高く掲げて、真っ赤な空に向かって突き刺した。
空の心臓、太陽の心臓、そして、僕の心臓。
寒鴉たちは楽しそうに鳴いて、次の執行儀式が近づいていることを知らせているみたいだった。そう、最初に大海に飛び込んだやつは海神に裁かれた。次は僕の番だ。
大海を侵入した罪。海神の裁きを見てしまった罪。儀式を台無しにした罪。海神に立ち向かおうとした罪。神の意志に逆らった罪。
そして、僕という罪人は、ただ静かに刀の柄を握りしめて、しっかりと防御の構えを取った。
一つの儀式が終わったら、次の儀式が始まるだけ。さっきの祝賀は単なる休憩に過ぎなかった。夜明けはまだ終わっていなくて、空は今でも真っ赤に輝いている。約束された朝はまだ来ていない。今も血と死が覆っている世界が続いている。
そうだ、やっぱり目の前の輪郭がまたぼやけてきた。
今まで出会ったどの亡霊とも違って、邪霊の力って、思ってた以上に強力なんだ。人間の目や頭じゃ、邪霊の動きをまったく追えないってわけだ。
そう、気づいたときには、目の前にはもう黒い羽だけが残ってた。最後の瞬間、僕ができることは、この悲しい現実をはっきりさせることだけ。もう手遅れだ、状況をひっくり返すことはできない。
頭の中は空っぽで、混乱してる。まだ残ってるのは、一つの光景だけ。
彼が次の瞬間、背中に現れて、首を刺す。頭がボールみたいに地面に落ちて、痛みを感じる暇もなく、目を閉じちゃう。
そう、きっと。
だから、目を閉じて、死が来るのを待つことにした。
......
刀が空気を切る音も、黒い酸が肌を切ったときの酸っぱい臭いも、首の激しい痛みも感じない。
目を開けると、目の前にはただ舞い踊る羽根しかない。
黒い羽は黒い蝶に変わり、黒い蝶は黒い灰になり、黒い灰は黒い雪に変わる。寒鴉たちはもう鳴かずに、静かに灰色の大木に降り立つ。森からは黒い煙が立ち上り、無限の暗闇が再び大海を覆い尽くす。
僕にとっての審判は、結局やってこなかった。まるで神のちょっとした冗談みたいだ。本来は存在するはずがないことが、奇跡のように現実になってしまった。果たして、嬉しいことなのか、悲しいことなのか。二度も大海に足を踏み入れたけど、前回は寒鴉に守られ、今回は海神に見逃された。どう考えても、信じられないことだ。
でも、その理由を考えている暇はない。急いで仁也のところに駆け寄り、指を彼の鼻孔に当ててみた。幸運なことに、微かな呼吸を感じることができた。
――仁也!仁也!
もしかして、声が届いたのか、彼のまぶたがかすかに動いた。
――仁也!早く目を覚ませ!
唇が少し開き、何か言おうとしているみたいだった。
「風……鈴……」
目を開けて、僕を見つめた。
――仁也!急いで起きろ!黒い煙が迫ってきてるから、逃げないと!もう少しだけ頑張って、お願いだから!
「い......いや......もう......」
彼は頭を傾けて、また眠りに落ちそうになった。
――仁也!ちくしょう、何考えてるの!無生のことを思い出せよ!彼が家で待ってるんだよ!ここで死んじゃったら、無生はどうなるの!お願い、早く起きろ!
「無生......無生?」
その瞬間、彼はびっくりしたように目を見開き、真剣に僕を見つめ返した。
「言った......通りだ。今は、まだ!」
痛みを堪えて、必死に座り上がった。無意識に右手を氷の上に置くと、傷からまた血が溢れ出た。
「うわああああ!」
その痛みで完全に目が覚めた彼は、叫び声を上げてついに立ち上がった。
黒い森から押し寄せる煙が、波のように迫ってきた。
――仁也、まだ力は残ってる?
「うん。」
――よし、それじゃ、逃げよう!
岸辺の橋が再び目に入ってきた。高い灯台も、海岸を照らしてる。
奇跡的に、僕たちはまた海から逃げることができた。
生き延びたことに喜んでる暇なんてないし、その理由を考える余裕もない。今、一番大事なのは仁也の傷を手当てすることだ。
――あぁ、また無邪気な医者役をやらないといけないの。仁也、今回は本当に僕のせいじゃないよね?確かに僕が君を海から助けたんだから。
前回のふと思いついた嘘が、今や現実になっちゃった。これが嬉しいことなのか?全然違う!さっきの出来事をちょっと考えただけで、心臓がドキドキしてきちゃう。
「ありがとう......風鈴。」
――そんなこと言うな、バカヤロー!で、まだ代理団長のつもり?ふん、絶対無理あり。明日、凛に教えてやるから、思いっきり叩いてもらって、柱に縛り付けてもらうからな。どこにも行けなくしてやるから!
少年はうつむいて、もう何も言わなくなった。
ふん、仁也がこんな態度だから、ますます彼を怒鳴りつけたくなる。ほんと、どう罵っても足りないくらいだ!交渉の余地なんてまったくない。前回とは違って、今回は絶対に冗談じゃ済まないんだから。運よく二人とも命を拾えたのも、神様の大恩のおかげか、僕たちを守ってくれたんだ。もし二人とも死んでたら、この物語も早々に終わってたかもしれない?って、風鈴が海で死んで、これでおしまいってことだよね?
――墨雪家の鍵を渡したのは、エミを守ってもらうためだったのに、お前な、何をしてんだ?ん?エミの家に勝手に入って、彼女の杖を盗んで、元の持ち主に返したの?その持ち主に叩かれて嬉しいの?感謝されてるって思ってるの?今、やっと満足してるの?
少年は無言。
――無生のためだとしても、そんなことはできないでしょ?どうするつもり?無生の前で死ぬつもりか?無生に葬式を開かせたいの?それだけじゃなくて、僕も付き合わされるってわけ?
少年は相変わらず黙ってる。
――ふん、まういい。言いたいことは全部言った、すっきり。じゃあ、行こう。傷を包帯しに行くから。ちょっと言っとくけど、もし感染したら、僕にもどうしようもないからな。さて、行こう!
......
少年はまだ話さない。
――えっと、仁也?どうした?
その時、僕は何かがおかしいことに気づいた。目の前の仁也はまだ立っているけれど、全く動かず、何も言わなくなっていた。
――ほら、仁也?
彼のあごを支え、頭を持ち上げた。いつの間にか、彼の目は閉じていて、呼吸はとても安定していて、唇がわずかに動いていた。
まるで立ったまま寝ているみたい。ううん、ちがう。どう考えても、これが変すぎる。まずい、何とかしなきゃ......
「わあああああああ!」
瞬間、仁也が叫び出した。右腕を力いっぱい振り回し、手のひらの亀裂がさらに引き裂かれ、血がザーザーと滴り落ちてきた。
――仁也!右手を動かさないでくれ!しばらく我慢しろ、すぐに傷を手当てするから!
待って、もしかして......仁也は!
「わあああああああ!」
恐ろしいことが起こった。目の前の少年は別人のように、体を激しく動かし始め、まるで制御不能の人形のように、さまざまな理不尽で恐ろしい動作をし始めた。四肢は乱暴に動いていて、それぞれが命を持っているかのようだった。特にその振り回されている右腕は、空中で狂ったように動き回り、血が激しく噴き出した。彼の服を赤く染め、僕のマフラーにも飛び散ってきた。
この動き、この姿......こんなに歪んでて怖いのに、なんでこんなに見覚えがあるんだ。どっかで見たことがある。そう、確かに見たことがある。つい最近、だったかな?
――木......
恐る恐るその名前を叫ぶと、ドッカン!って音が聞こえた。そしたら、仁也の手から細長くて、しなやかなものが生えてきたんだ。
その色、その形......明らかに木なのに肉があって、木なのに触手みたいに動って、木なのに寒鴉を育て、木なのに暗闇を海に覆いかぶせる!
――死の樹だ!
その新しく生えた木は、僕の声を聞いたみたいだ。仁也の体を操りながら、ゆっくり僕の方を向く。そして、細長い幹がまるで剣のように、サッと僕の胸を突いてきた。
急いで身をかわし、刀を抜いた。
仁也の制御を失った右腕が完全に攻撃範囲に入った瞬間、刃を仁也の手首に向けて、迷わずに切り下ろした。




