0.プロローグ〈赤い地獄〉
◎
――それは、電車に足を踏み込んだ瞬間だった。
目下に広がったのは見慣れた車内ではなく、赤い世界。赤い世界としか表現できない、唯一を除いて虹色が失われていた不思議な空間だ。
道が続いており、煉瓦道の向こうには庭園と洋館がある。
反射的にポケットに手が伸びていた。
圏外の印が着いている。
何となくだが予想はできていたが。
「スマホ使えないと本当に何にもできないよな…………」
頬を抓るなんてベタなことは恥ずかしくてできなかった。
夢や幻覚だとする。そういうのは高いところから落ちると目覚めると言うが、身体の実感は紛れもなく本物。流石に怖いから最終手段に回す。
問題は帰り方がわからない、という一点だけだ。
まずは情報が欲しい。
この赤い世界が何なのか。
洋館へ歩を進めようとする寸前に横合いから声が聞こえた。
「え…………何これ…………どこ?」
同じく高校生だが、女子が目を丸くしていた。
隣の出入口から電車に乗ろうとしていた人だ。
彼女は激しく動揺していた。スマホを見ると耳に当て「もしもし」と何度も言った。しまいには頬を自ら抓っている。
声を掛けるか迷った。
コミュ障以前の問題だった。
顔を前に向け、石畳を進んだ。案の定声を掛けられる。
「え、あの…………ちょっと待って下さい!」
「何ですか?」
「ここどこかわかりますか? 携帯も繋がらなくて…………」
「さぁ? これから調べようとは思いますが」
振り返りもせずに答えれば、俺の後ろに彼女は着いてきた。大層不安らしい。
「あの家に…………一緒に行きませんか? 私達以外に他に誰もいないし」
この世界にいるのは俺と彼女のみ。
また、物体も洋館とその敷地しかない。尖った塀の奥には何も見えなかった。異様に赤いが太陽もある。
「あの家は何ですか? ちょっと待って下さいってば!」
「わかりませんよ。だから調べに行くんです、落ち着いてください。見苦しいですよ」
「…………!」
絶句して立ち止まる彼女を他所に俺は洋館の扉を叩いた。実際にドアノッカーを使うのは初めてだった。
と、誰かが出てくるはずもない。あくまでも精神衛生上の問題だ。不法侵入を行おうとしているのだ、せめて大義名分が欲しい。
「…………扉が開いてる。罠っぽいわ…………」
躊躇っていると一回り小さくなってしまった女子高生が横に並んだ。
「すみませんでした。落ち着きますから、一緒にいてください…………」
ふむ、年上に敬語を使わせてしまったらしい。
ここまで萎縮されると罪悪感が凄い。ここから出れない可能性も含めフォローしなければ。
「いえ、落ち着かせるためとは言え、酷い言葉を使ってしまいました。申し訳ありません」
「いえ、大丈夫ですから…………それより扉開いてるんですか?」
「はい」
現実的に考えて扉に罠があるというのはおかしい。
異常事態とは言え、論理的思考は捨ててはならない。誰の家だか知らないがこんなところに罠を張る意味はないだろう。
扉を開いて飛び込んできたのは、まるで中世にタイムスリップしたような邸宅だった。目の前にあるのは二階へと繋がる大階段だ。
「いや、異世界系か」
「凄い階段…………誰もいなそう、ですね」
左右に部屋がある。右は食堂なのかやたらと長いテーブルと幾つもの椅子が並べられていた。左はわからないがクローゼットみたいなものか。
二階には五つ程の部屋あり、サイズ的には個人の私室か。
「食料と…………」武器と言いそうになり、寸前と止める。「…………部屋を見ようか。右に行きます」
「はい…………」
先程から身体が落ち着かない。
彼女も感じているようで辺りをしきりに見回していた。
多分、この赤い視界のせいだ。血の色が人間を興奮させるというのはよく聞く。赤い車は事故に遭いやすいという眉唾があるくらいだ。
――食料はあった。
時代錯誤な地下倉庫に肉が吊るされていた。どうやって食べるかわからんからこれは使えなかったが、しばらくは食いつなげるのだけは確認できた。
それと、料理用の鋭利なナイフ。
食料と武器。目的は達せた。
戻る方法はわからないが、多少は生活できる。
「さて、一体どうなることやら」
俺は、積極的に帰ろうとは思っていなかった。
対極的に彼女は――関石楓美は不安と憤りを抱いた。手掛かりがないかと館の隅々まで探している。
非日常に巻き込まれた。
だが、俺はいつもと変わらない。何か劇的なことがあれば変われるかと思ったがそんなことはないらしい。完全に固定化されてしまったようだ。
「この赤い世界は俺に何を強いる? まぁ、どうせいつもみたいに何とかなるか――」
――この時の俺達は知る由もないが、これから赤色の地獄に苛まれることになる。
本物の地獄は社会に守られた世界では味わえない破滅と最悪を齎す。