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第一章19 芳醇なる角逐

 私達が外へと足を踏み出したのは、夕焼けの見える頃だった。

 既に沈みかけている金色の日が空を橙色に染めるその光景が、とても幻想的だ。きっと私は忘れることはないだろう、この世界で感じた最初の黄昏時を。


 優しい光に包まれているせいだろうか、私の脳は溶けるように、次第に先程の記憶の衝撃を和らげているような、そんな感じがする。


「ごめんなさい」


 すると突然、切り出すようにコハクが謝罪の言葉を発した。


「僕がどうかしていたんです。皆に心配をかけて、まだ何も知らない春来だっているのに、どうしてあんな荒い真似を」


 兄さんだったら、こんな失態犯さなかった――と。小さく呟かれたその言葉を、私は聞き逃さなかった。


「なんかコハク、兄さん兄さんってさ、コハクのお兄さんって、そんな凄い人なの?」


 もやもやするような苛々するような、そんな感情から思わず口から出た疑問だったが、それを聞くなりコハクを除く周囲は、なぜか顔面蒼白になる。

 私、そんなにやばいことを言ったかな。


「なに言ってんだよ、しゅん!主様は俺の神様だぞ!俺は主様のお陰で、弱い自分を捨て去れた」


「そうだよ、しゅんちゃん!私ね、主様にまたお会いできるなら何だってする。彼はそれぐらい偉大な方なのよ」


 詰め寄ってきて凄まじい熱量で「主様」への思いをぶつけてくる紬と龍乃助に、負けじと私も言いたいことを言わせてもらう。


「でも、今のあなた達の主様はコハクなんだよ?」


 二人は黙った。

 続いて私はコハクに向かって指を突き立て、


「コハクだってそう!」


 びくっと肩を震わせ、あまりに唐突の状況に、頭上にクエスチョンマークを浮かべてコハクはこちらを見る。


 コハクのお兄さんは――アカシア家の主様は、凄いなぁ。消息を絶ってから時が流れ続けても尚、彼を慕う者達のその忠誠心は計り知れない。龍乃助じゃないけれど、それこそ彼らにとって神様なんだ。信じることで希望が湧いて、ただの高校生達が、小さな女の子が、温厚な青年が、血を滾らせて心を燃やすことになる。

 どれ程のカリスマ性を持って、そこに存在していたんだろう。一目でいい、お会いしてみたかった。


「兄さんだったらとか言うけどね、私達は貴方の牙なんでしょ、コハク」


 私なんかの言葉に、同時に四人にはっとした顔をされると、なんだか落ち着かない気持ちになる。 

 あんまり新入りが偉そうなことを言っていると、床についた時に羞恥心に見舞われて快眠の妨げになりそうだけれど、しかし、一年もの間、時が止まっていた彼らには分からない、私にしか視れないことが、言えないことがある。だから言うのだ。 


「コハクも、皆も、主様のことが大切で、大好きで、かけがえのない彼の帰りをいつまでも待ち続けたい。そんなの分かるよ。でも、主様が帰って来た時にこのままじゃ――きっと駄目なんだよ」


 今の牙はまだどこか虚空を見つめていて、バラバラで統一性が無い。その理由は――その主が、牙の持ち主が、牙を動かす意思が無いからだ。

 私がコハクのことを否定することは、親でも殺されない限り無いと言ってもいい。しかし今のコハクには、正体の分からない違和感のようなものを感じる。


「世界を教えて。コハクの言葉で。口を開かないと、牙は向けないんだよ」


「僕の、言葉――」


「私はコハクに従うよ。お兄さんのように出来なくても」


 夕日の優しい光に包まれる中、はにかんだ私に牙の三人も頷いてくれた。コハクの宇宙のような瞳はキラキラと光っていて、紅く照らされた絹のような銀髪は夕風に少し揺れて、とても綺麗だった。


「こんなことを言ったら怒るかもしれませんが――貴女という人は本当に、兄さんに似ていますね」


❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖


 帰ってきた――と言って、いいのだろうか。今日初めて訪れた(召喚された)アカシア家に、流石に所謂「実家のような安心感」とやらを求めるのは無理があるので、とりあえず心の中でただいまを言っておく。


「はぁー疲れちゃった!部屋に戻ったら、召喚魔法の本でも読んで寝ちゃおっかな」


「キャタは寝る前にちゃんと風呂に入るぞ」


「こらっ!私だって入るもん!キャタって嫌な子!」


 茶化すキャタと、それに怒る紬のやり取りを微笑ましそうに聞きながら、コハクが両手を使って大きな扉をゆっくり押すと、その隙間から溢れだす馥郁とした香りと共に、


「おかえりなさい、アルジ!」


 なんということでしょう。小柄な少女がコハクに飛びついたのだ。

 途端、思考停止。五秒間硬直した後、思い出したかのように脳に衝撃が走り、運転再開した。

 ま、まさか恋人?いや、考えろ私!その可能性は極めて低いはず。コハクはずっと重圧に耐えながら私の存在を待っていたんだ。色恋にうつつを抜かしている暇なんて無かったはずだ。それに、妹だという可能性も捨ててはいけない……。

 突然の美少女登場に唖然とする私の気など全く知らず、コハクは驚きながらも優しく少女を受け止めると、その小さな頭を撫でながら微笑んだ。

 

「こんな時間までどこ、行ってたの?疲れていると思って、アルジの好きなアロマを炊いておいたの。褒めて?」


 心地いい香りの正体は、この娘が炊いたアロマだったらしい。

 そして今改めて考えてみると、服装からして、彼女はここのメイドとか使用人辺りだろう。しかし、妙にコハクに懐いている。

 少女はしばらく嬉しそうに頭を撫でられていたが、何か違和感に気付いたのか、ふと顔を上げた。


「血の匂いがする……?た、大変!」


 少女は敏感に臭いを感じ取ると、直ぐ様コハクの怪我を発見した。そして大きな瞳を潤ませ、心配そうにコハクを見上げる。


「僕だけじゃないですよ。僕は大丈夫なので、皆を優先して回復してあげてくださいね」


「アルジがそういうなら……。あ、皆におかえりなさい、言ってなかった」


 皆に声をかけようとしたのであろう、振り返った少女は、怪訝そうな表情で「え?」と声を漏らした。それもそのはず。そこには、呆然と立ち尽くす私しか残っていなかったのだから。

 他の皆が、帰宅するなり私を置き去りにして、バタバタと各自の部屋に行ってしまったことはこの目で見届けている。


「あんた、誰?」


 少女は私の方をきっと睨みつけた。彼女と初めて目を合わせたけれど(それは刺すような鋭い視線だったけれど)、改めて――美しい少女だった。

 透明感のある白い肌に、カールされた長い睫毛に縁どられた、漆黒の大きな瞳。クリーム色の長い髪の毛は腰ぐらいまであり、上品な黒いリボンでツーサイドアップにしている。服装はというと、艶のある黒を基調としたエプロンドレスを身に纏っていて、膝くらいまでの長さの膨らんだスカート部分が、少女の愛らしさを一層引き立てている。


「ど、どうもはじめまして。新入りの六月春来です。どうぞよろしく――」


「今、新入りって言った?」


 少女はコハクから離れると、私の言葉を最後まで聞かずにこちらに詰め寄ってきた。私の方が身長があるものの、急に迫られると、小柄な少女にすらなんだか迫力を感じてしまう。

 そんなこんなで返事もせず固まってしまった私だったが、その素因である少女はコハクによって引き剥がされた。

 

「無礼なことは辞めてください、ミシュア。彼女はやっと見つけた――」


「み、認めないっ!アルジの馬鹿!キャタもツムギもリュウノも皆馬鹿!新入りなんて、認めない!」


 怒りで顔を火照らせ、ダン!と右足で地面を叩きながら首を振るミシュア。こんな美少女に軽く存在否定されると、かなり精神的にくるものがあるね?

 私が大ダメージを喰らいぷるぷる震えているのを見兼ねてか、不意にコハクに優しく腕を引かれた。


「部屋に案内します」


「ア、アルジ、待って!」


 ミシュアが引き止めるも、コハクは構わず歩き続ける。美少年に手を引かれ、城のように豪華な廊下を歩くなどという、夢かと思うようなシチュエーションに巡り会った私が、掴まれていない方の手で、自分の頬を抓り続けていたのは秘密だ。


「待ってってば!」


 それでも尚、諦めずにミシュアはコハクに縋り付く。

 ――許せん。私の貴重な一時を邪魔する輩は、誰であっても許せん。

 とかいう私怨に気付くはずもなく、コハクはやっと振り返り、


「じゃあ、ミシュアが案内してくれますか?ちゃんと春来と仲良くなってください」


「全力でやだ……と言いたいところだけど、こいつにアルジとベタベタされるよりはまし。ミシュがこいつの案内役、する」


 まさかのこいつ呼ばわり。この短時間でどんだけ嫌われてるんだよ、私。

 ミシュアは一瞬顔を顰めたが、一人で納得すると真顔で頷き、コハクに代わって私の手を取った――というより荒々しく掴んだ。


「じゃあよろしくお願いしますね、ミシュア。良い子」


 コハクはミシュアの扱い方を分かっているという風に、彼女の頭を撫でる。望んでいたそれにミシュアはご満悦のようだ。

 しかし、私にとっては大問題な訳で。


「やだやだ!私が全力でやだもん!コハク様ぁぁ!!」

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