第一章18 暗黒の揺りかご
はぁ……何も出来ないなぁ。
胸中に渦巻くのは、そんなことばかり。そんなの当たり前だ、仕方ない、寧ろ人生でそう味わわない程に目まぐるしく変動するこの状況に、よくぞ着いていったよと、そう自分を励ましてやりたい気持ちが全く無いではないけれど。
「あ――」
疲労からか、頭ががくんと前に倒れそうになる。それを起こすことにすら怠さを感じたので、そのまま項垂れるように下を向いた。すると、ただでさえ地味な灰色のワンピースが、泥まみれになっていることに気付く。
「本当は喫茶店でゆっくりお茶でもしてから、着たこともないような綺麗な服でも買いに行けたら最高だったのに……」
まあ、喫茶店に行くという目的は果たされた訳だけど。――否、あんなので果たされたと言ってはいけない気がする。今度絶対にリベンジしよう。
早く、あの城のような家で休みたい。どうせ私の世界での時間が進んでいないのなら、早く今日なんて終わってしまえばいいのに。そしたら明日、途中で遮られたコハクの話の続きを、思う存分聞こう。コハクなら、きっと丁寧に詳しく教えてくれる。分からないなら教えて貰えばいい。ゆっくり知っていけばいい。
私はずっと下を向いたまま、現実逃避をするかのように明日のことばかりを考えていた。
そんな呑気なまでの休息も束の間、私は何か気配を感じ、顔を上げた。しかし重い首を動かして辺りを見回してみても、その気配の正体は見当たらない。
「――――!」
影。影だ。
そこには物も壁も無いのに、円盤状の影が不自然に、ゆらゆらと形を変え続けながら揺蕩っていた。流石に気味が悪くなった私は、地面に尻を着けたまま後退った。
するとその影はうねりながら大きく広がり、闇黒の中から愛らしい顔立ちの少女が顔を覗かせた。
「キャタ?」
「探したぞ、春来。コハクがゲオルに止めを刺している間、春来は一体何処にいるのかと思えば、こんな高いところに――」
止めを刺している――この言葉の意味を察し、
「やっぱ、殺すしかなかったんだ」
私が発したその言葉に、キャタの表情は固まる。
仲間を散々苦しめて、自分のことも殴った相手だ。私だって、ゲオルを痛い目に合わせないと気が済まなかったはずだ。
なのに、胸中を渦巻くのは心を刺す様な悲哀のみで、少しの安らぎも得られない。
「殺された訳じゃない。――の元に還っただけだ。しょうがないだろう?コハクだって辛かったはずだ!でも……でも、コハクはちゃんと決めたんだ!主のことだって――」
「うん。分かってる。分かってるよ。ごめん」
私はそう言って、感情を抑え切れなくなったキャタの頭を優しく撫でた。
本当は、本当に分からないことばかりだ。しかし、彼女だって辛い思いをしただろう。敵とは言えど一人の人間に、自分の仲間の手によって下された重い裁きを、目の当たりにしたのだから。
キャタは我に返ったという風に一瞬目を見開くと、私に憤懣をぶつけたことを気にしたのか、ばつが悪そうに顔を逸らした。
「すまない、つい取り乱してしまった。あ……春来も怪我をしているぞ。今日は早く戻ろう」
「そうだね。帰ろうか、皆の元へ」
私はキャタから伸ばされた手を取り、ふらつく体に鞭を打ち、立ち上がった。
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「二人ともー!こっちだよー!」
コハクと龍乃助の手当てをしながら、しきりに大きく手を振っている紬。胃の中のものがせり上がってくるような血の臭いが漂う中、彼女の明るさだけがこの不快感を忘れさせてくれる。
私は、手当てされている彼らに目を向けた。龍乃助は足の所々が傷付いているものの、なんとか大丈夫そうだ。しかしコハクはというと、どす黒い血に塗れていた。
「コハク――!」
驚嘆から、思わず声にならない声を上げてしまう。
「春来、無事で良かったです」
「私なんかのことより、自分のことを心配してよ!」
大きな声を上げた私にコハクは少し驚いた表情をする。しかしその顔色は一変して冷たくなり、ああ――これは返り血なのですよ、と、少し私から目を逸らし赤黒い頬を拭いながら、彼は言った。
「ひっ!?」
その時私はあることに気付き、小さく悲鳴を上げて慌てて飛び退いた。
足元に一筋の、暗赤色の細長い川が流れていた。その悍ましさを直視し辿って見ていくと――、
「し、死体は……?」
もう原型を留めていない砕けた全身を血に浸し、その心臓を破壊したのであろう剣が胸に突き刺さったまま、あの男は死体となり横たわって――いなかった。
そこに存在していたのは、血溜まりだけだ。
いや、今まで良くも悪くも平凡な生活に身を任せてきた私にとっては、他人の多量な血液をこうも目にしているというだけでも、相当に精神にくるものはあったが、それでも覚悟していた光景が存在しないことへの疑問は捨てきれない。
「逝かせてやったんだ。在るべき場所にな」
ぽつりとそう応えたキャタは、ゆっくりとその血溜まりに近付いていく。そして小さな背中を丸めてしゃがみこむと、その指には札のようなものが摘まれていた。
「とは言ってもまあ、気休め程度でしかないがな。この男が逝くべきは――戻るべきは、主のところ。キャタ達にコハクという主がいるように、残酷非道なこいつにだって慕う主がいるんだ。いや……生みの親――とでも言うべきかな」
血液が染み込んで赤黒くなったその札を、紫色の怪しげな光が縁取る。
私は紬に手を握られながら、光を帯びた札がキャタの掌の上で、徐々に光の粒子になっていくのを、よく分からないような感情で呆然と見つめていた。
「ごめん春来、キャタは嘘吐きだな。こいつをその主の元に還してやることは出来ない。だからこうして暗闇に沈めるんだ。深く、深く永遠に……おやすみ」
何も言い返すことができなかった。
ただ、キャタの憎悪と哀れみに揺れる硝子のような瞳を見ていることでしか、自分を保っていられなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん」
後ろから聞こえる、喉から絞り出される深い悲しみを宿した声が、薄く薄く、脳内に染み渡っていった。




