第一章14 紅い憤怒
恐怖を感じさせる程に狭い、薄汚れた煉瓦の壁。灯りの代わりになるものは何も無い中、その壁が次の瞬間には自分達を押し潰してしまうのではないかという不安に襲われながら、私達は地下の階段を降りていた。
「ねえ、本当にこんなところにいるの?」
「しっ、静かに。大丈夫ですよ。キャタに着いていけばすぐです」
コハクから、そっと口元に添えられた人差し指に黙らされる。
あれから、影に吸い込まれて捜査開始を始めたキャタは、五分程経過して戻ってきた。その時の彼女の表情だけで、事の重大さを理解した。それ程までに、キャタの表情は強張っていたのだ。
キャタによると、この狭い地下の道を進んでいくと先程の男達のアジトがあるらしい。私達は、紬を助けに行くためにはこの場所に乗り込んでいくしかなかったという訳だ。
「ねえ、紬は大丈夫なの?あいつらの仲間もいっぱいいたりして。私なんて本当に何も出来ないし、足手まといになるんじゃ……」
「ふんっ、あんな奴等大したことないぞ。春来は隠れていればいい」
「嘘つけお前。さっきすごい緊張した顔してたじゃんよ」
私の吐いた弱音を自信満々で打ち消したキャタに、龍乃助が素早く突っ込む。
「キャタはこの場所が怖いだけだぞ。それと、先頭も結構怖い。それだけだ」
怖いんじゃあないですか。
そう――私達はキャタを先頭に、続いて龍乃助、コハク、私の順番で進んでいる。
あまりにも少女らしい風貌のキャタを先頭にするなど気が進まないが、彼女しか逕路を知らないので仕方があるまい。それにキャタは、いざという時に正確な判断を下してくれそうな気がする。
「と、ところで春来。あんまり密着されると、その……」
「ここで照れる!?まさか、このタイミングで照れてる!?一番後ろも大分怖いんだって。誰かにくっつきでもしてないと、歯ァがたがたで足ぶるぶるだよ!」
慣れないといった感じで少し頬を赤くして、コハクは閉口してしまった。
まあ、そんな可愛げのあるコハクが見れて大歓喜なんですれど。
普段の私なら、流石に容姿端麗の青年に勝手に密着するのは躊躇うだろうが、今の私は違う。安心感第一!
「何か聞こえてくるぞ。それに、光も見えてきた。もうすぐ出口みたいだぞ」
「ちょっと様子を窺ってみるか」
三人に続いて出口の壁から顔を出してみると、彼らの目線の先には、深く巨大な窪みが掘られていた。
好奇心に従い少し前に行って覗いてみると、今いる場所が予想以上に高いことが分かった。高いところはあまり得意でないので、少しでも前に出たらここから落ちてしまいそうで思わず身震いする。
無理矢理掘って造ったような雑な造りではあるが、赤龍高校の校庭くらいはあるのではと思われる広さだ。しかし学校の校庭のように整備されている訳ではないので、ここから降りていくとなると岩肌を滑っていくことになるので、身一つでは確実に無理だろう。
「アジトっていうのはここのことですね。奴等が空気を察したら厄介です。身を屈めましょう」
先程コハクに噛み付いていた龍乃助も含め、三人はその指示に従って身を縮めた。
コハクは先頭を務めるキャタに向かって、
「紬はいますか?キャタ」
「ああ、檻の中だ。し、縛られている……」
その言葉を聞いて、私は高所への恐怖も忘れ、気付いたら身を乗り出して下を覗き込んでいた。
確かに、檻の中で金髪の少女がぐったりと倒れている。手首と足首が紐で固く縛られ、身動きがとれない状態だ。
更によく見ると、周囲には武器と思われるものが沢山転がっていた。刺々しいもの、鋭いもの、振り回されたらひとたまりもなさそうなもの――。
「気を失っているみたいだ。しかも、後頭部から血が出ている。殴られて気絶したように見えるぞ」
「何だって!?やばいじゃんよ!」
「龍乃助、大きな声を出さないで。相手は何人いるか分かりません。気付かれたらどうするんですか」
コハクが冷静な声色で龍乃助を諭した、その時だった。
空気が冷える。固まる。奥の方から、何かを感じる。龍乃助呼吸音を最小限に留めようと、両手で口を抑える仕草を取る。
奥の方から現れたのは、大柄の男だった。男はゆっくりと乾いた地面を踏みしめて歩み、檻を掴んでガシャガシャと揺さぶった。
金属音が響き、反射的に耳を塞いでしまう。そうでもしないと、恐怖で声が出てしまいそうで。
「おい嬢ちゃん、しっかりしな」
「うぅん……へ……?ここどこ?」
「ちまっとした店に、興味深い客が入っていくのが見えたもんでなぁ。あんただろ?『あの方』が――」
「あんた誰よ?」
ぴしゃりと言った。自分より遥かな巨体を見上げて、紬は怪訝そうにそう言った。
「誰って事ぁ、ないだろう。まあ、俺様の名前を知らないってのは分かるがよ、決まってるじゃねえかよ。『あの方』がお呼びだってんだから」
檻に閉じ込められた少女と枠外の大男という、異常な組み合わせが、なんだか割と普通に会話をしていて、私が呆気に取られいると、
「ふーん」
紬は男から目線を外して腕を組み、つまらなそうな声を出し、
「ねえ、出してよ。出ーしーて。ここから」
「残念だが嬢ちゃん、それは出来ねえな。何せやーっと、アカシア家が動き始めたみたいじゃねえか。こちらとしてもなぁ、早くてめえから情報聞き出さねえといけねえんだよ」
「あーっ、もう!知らない!知らない知らない知らなーいっ!早く出せって言ってんでしょ!」
「ああ?逆らうつもりか?……いやぁ嬢ちゃん、残念だ。誠に残念だよ。てめえのお命ここで頂戴することになるなんてなぁ!」
思わず紬の名と叫ぼうとして、コハクに止められた。彼は沈黙を貫きつつ、口の動きだけで「大丈夫」という言葉を伝えてきた。
「あーそう。それならこっちだって、この檻破ってあんたも敗るまでってことね」
そう言うが否や、紬の瞳の色が変わった。比喩じゃない。変色した――というよりそれは、塗り替えられたかのようなはっきりとした変貌だった。コハクの宇宙のような深い青とはまた違う、眩い青だった。
青く発光するその瞳と同色の魔法陣が、一つ、また一つと彼女を取り囲むように旋回し始める。
「出でよ……」
ああ、きっと大丈夫だ。紬がやってくれる。そして何事も無かったかのように皆で屋敷に帰るんだ。この世界を救うなんて、いざ言葉にしてみると嘘みたいで馬鹿みたいで、でもそんな崇高な目的のために私達はこれから――、
「嬢ちゃん。お前、忘れちゃいないよな?『主様』が消えた日のこと」
「え――」
紬の表情は固まり、光でできた魔法陣の旋回は、紬の心の状態に影響されるかのように弱まる。
「忘れることなんぞ、許される訳がないもんなぁ?お前がのうのうと好きなことして!そんな下らねえ魔法なんかで遊んで費やしているその時間!お前らのだーい好きな『主様』、さぞ生きたかったことだろうよ。違うか?嬢ちゃん。聞いてんだよ!」
「あ……ああ……」
「あの善良な馬鹿男の未来を奪ったのは、他でもないお前らなんだよ。なのに、何を強気な顔して魔法なんか使おうとしてやがる。そうだろ?あぁん?」
「ち、がう……違う、違うよ、主様は……!!」
否定の言葉とは裏腹に、その双眼の光は消し飛ぶ。魔法陣はすっかり勢いを失い、消滅してしまった。
紬は――最早ただの無防備な少女となった紬は、間も無く正気も保てなくなり、虚ろな目でただ「いや……あるじさま……あるじさまぁ……」と、怯えたような苦しむような表情で嘆いていた。
私には何も分からなかった。人が変わったようにぶつぶつと呟く紬を、どういう気持ちで見ていたらいいのか、分からなかった。
『主様』は、コハクじゃない――?生きたかった、未来を奪った――それはつまり、もうここには――。
「可哀想になぁ?そう、可哀想。でも可哀想なだけの腐った男。あれだから馬鹿は嫌なんだよ。不幸な人生。類稀なる才能を持ってして、なぜああも不幸になる。その才能、俺様に寄越してから死んで欲しかったもんよ。上手く使ってやるからよぉ」
――兄さんに話を聞いてもらっていたんです。自らの命を犠牲にしてまで僕を生かしてくれた、兄さんに。
微かに脳内に響き渡ったのは、少し切なげに、でも明るい口調でそう言うコハクの声だった。
ああ、そうだ。そうだった。あの時、私は突然の事態の積み重ねで、その言葉を気に留める余裕もなかったけれど、なんでもっと早く気付けなかったのだろう。
コハクには兄がいた。そしてコハクは、最初からアカシア家の主だった訳じゃないんだ。兄が何らかの原因で居なくなったから、その後を継いだんだ。
思えば『アカシア家』という呼び方も、元々コハクと兄の二人が主要となって取り仕切っていたということならば、合点がいく。
「あるじさま……違うよね……?あるじさまは……帰ってくるもんね……?そしたらぜんぶ、ぜんぶ許してもらうの……彼はきっと許してくれる……そうだよね?」
紬は相変わらず、光を失った焦点の合わない瞳で何処かを見つめて、独り言のようにぶつぶつと呟いていた。
「おい、どうすんだよ。紬がおかしくなっちまった。あれじゃあ戦うなんて無理だよ」
「まだだ。今行ったら暴走したあいつが紬を攻撃するかもしれない。そうなったら、四方八方を檻で囲まれ召喚魔法も発動出来ずの今の紬に、逃げるのは無理だ」
あれ程までに沈黙を守っていた私達だったが、とうとう痺れを切らしたのか龍乃助が口を開き、キャタが冷静な判断を下した。
「時間だ、嬢ちゃん。まあこれは命令ではないが……『あのお方』に背いたお前に制裁を下す男の名前を、最期くらい教えてやろうか。俺は、ゲオル・ベルンハルト様だ」
邪悪な笑みを湛える男――ゲオルは、その厭らしく細められた目で紬を舐め回すようにじっくり見つめてそう名乗った。
しかし紬はゲオルの言葉など耳には入らないようで、頭を抱えて涙を零している。ここまで精神崩壊している紬は、普段の様子からはとても想像できない。
事の重大さに圧倒され脳が言うことを聞かない中、ふと至近距離でざざ、と砂が音を立てた。
「――――」
「コハク?」
突然コハクが立ち上がったのだ。その表情には、まるで色が無かった。
彼はよろよろと歩いていき崖縁に立つと、目の前に広がる断崖絶壁を見下ろした。彼の足元からは砂や小石が、まるで底に吸い込まれるようにカラカラと音を立てて落ちていく。
「コハク――」
不安気な声でその名を呼び、コハクを見上げる龍乃助。
何を思ったか、コハクは今にも紬と男の元へ飛び降りようとしていたのだ。
だが、周囲の心配と龍乃助の声に気付いたらしい彼は、振り返ると優しく、そして酷く哀しく微笑んだ。
「僕に――やらせてください」




