ぐうたら猫の不思議な依頼
「何よこの日差し! ああ、やっぱりタクシーにしておくんだった……!」
サンサンと輝く太陽と地中海の潮の香りが混じる風は、日本のそれとは明らかに違う。
カラリとした気候が心地よく、日陰に入ればスッと汗が引いていく。もっとも、休めるような日陰があればの話だが。
「あっちーなぁ、なぁ、葉月、あっちーよ」
私の背中で声がした。
「うっさいわね、私はあんたを背負って重いのよ、少しは黙ってなさいよ」
「でも、あっちーんだよ。こんな時はシュワッと炭酸の効いたレモネードとか飲みたいよ、なあ、シチリアと言えばレモンだろ?」
ったく、こいつの鼻先でレモンの皮を絞ってやろうか。
まったく……気ままな一人旅をするはずだったのに。どうしてこんなことになったんだか……
☆彡 数日前
南イタリアプーリア州にある港湾都市バーリは、アドリア海に面した趣のある街だ。歴史のある町の一角を歩けば、いかにも異国に来たという気分が味わえる。
聖人二コラの遺骨が納められているという11世紀に作られた聖二コラ教会を見学して、私はガイドブックで次の目的地の場所を確認する。
次は、ドットゥラ通りにある司教区博物館だ。
「ああ、死んじゃう~、死んじゃうよぉ~」
そんな声が聞こえてきて私は足を止めた。
えっ? 死んじゃう? 日本語?
イタリアは日本人観光客も多い。日本語は別に驚くことじゃない。ただ、死んじゃうとは穏やかじゃない。
だけど、どう見回してみても、これと言った人物が見当たらない。姿は見えないにも関わらず声は変わらず聞こえてくる。
「ああ、助けてくれないとピンチだよ~、大変なことになっちゃうよ~」
路地裏をのぞき込む。
いない。
近くにいそうなのに。
もしかして車の下とか?
私はしゃがみこんで車の下をのぞき込む。
「誰か見つけてくれないかな~、優しい人が助けてくれないかな~」
「……?」
三台目の車の下をのぞき込んだ時のことだ。
いた。
「……猫?」
黒猫だ。しかも、あおむけに寝ている。
……うん、まあ、それしか形容しようがない。いや、しかし、猫が日本語をしゃべるなんてあるだろうか?
私が困惑していると「うん?」と猫が顔を上げる。全身黒猫かと思ったが、額のところだけトランプのダイヤのマークみたいに白かった。
「あ、もしかして優しい人?」
猫は元気よく跳び起きた。
たぶんこいつだ。っていうか、死にそうな気配はまるでないけど。
「いやぁ助かった。まったく、もっと早く見つけてくれないと困るよ。危うく大変なことになるところだった」
「……?」
やっぱりしゃべっている。
なんてこったイタリアでは猫がしゃべるのか? それも日本語で?
「なぁなぁ! 優しい人、君の名前はなんていうんだ?」
「え、ええ……倉本葉月だけど」
「葉月! いい名前じゃん! 俺の名前はフィム。イカしてるだろ? よろしくな」
昔、塾の先生がヒッチハイクのコツというのを教えてくれた。車が止まったら、一先ずドアを開けて乗ってしまえって。
この猫もそんな話をどこかで聞いたのかもしれない。自分の名前を名乗りながら、私の身体をひょいひょいと登り、ディバックの上に身を預けていた。
「ちょ、ちょっと……!」
「葉月、これからどこに行く予定?」
「えっ? 司教区博物館……そのあとはまだ決めていないけど……」
「わおっ! だったらちょうどいい! 俺の頼みを聞いてくれないか? なぁに、簡単なことだからさ!」
旅は人を大胆にさせる。
普通だったら、こんな提案を受け入れるはずがない。というか、しゃべる猫を肩に乗せたり、絶対にしない。
それを受け入れてしまうような気の迷いが起きたのは、そう、たぶんきっと旅のせいだ。
☆・今
「ああ、腹が減ったな、ブレザオラ食いたいよ。ブレザオラ」
「何よそれ?」
「牛のモモ肉で作った生ハムだよ、うまいんだ、脂身が少なくて。赤身に旨味が詰まった感じがしてさ。パルメジャーノチーズと合わせて食うと格別なんだ」
ディバックに潜り込んだ猫は終始この調子だ。七割が食べ物の話。あとの三割は「暑い」とか「移動が遅い」とか「海の見える道がいい」とか……文句を言っている。少し静かにしているかと思うと今度はのんきに寝ていたりする。
つまり、この猫はまったく歩こうとしない。
「車は酔うから嫌だ」「海の見える景色を肌で感じようぜ」とか言っていたくせに!
だいたい重いっての! 猫、意外に重い!
なぜ、こんなことに付き合ってしまうのか、お人よしな自分の性格を呪う。
フィムの頼みというのは、シチリア島のパラッツォーロ・アクレイデという町に連れていってほしいというものだった。
理由はよくわからないが、フィムはあと三日以内にそこにいかなくてはいけなかったのに、動くのが面倒になり、バーリで助けを求めていたのだという。
「大事な用事なのに、動くのが面倒って何? 本当に大事な用事なのかしら?」
「オゥ、心の声が漏れ出ちゃっているよ葉月! ひどいよ! 困っている時には助け合う、これって生きている者同士のルールだろ? それを疑うなんて!」
フィムが大仰に天を仰ぐ。
「はいはい、わかったわよ、まったく」
乗りかかった船だ、サッサッとこの猫の用事を片付けてしまおうと心に決める。
「なぁなぁ、葉月」
「何よ?」
フィムが「なぁなぁ」というと普通の猫が鳴いているように感じるから不思議だ。
「なんで葉月は旅をしてるんだ?」
レストランどころか、カフェ一つ見えないこの状況に、フィムも諦めたか? そんなことを言った。
私は「特に理由ないけど」と答えたあと、それでは答えになっていないかと思い「自分探しの旅かな」と付け加える。
「自分探し……? なにそれ?」
「本当の自分を探す、とか? 本当にやりたい事とかを見つけに行くみたいな感じ?」
「ぷっ!」
ディバックの中でフィムが噴き出した。
「なんだそれ!? はっはっはっ! 自分で自分を探すのか? もう自分はいるのに? はっはっはっ! 人間は面白いなぁ!」
フィムは腹を抱えて笑う。
「な、なによ! そこまで笑うこと!?」
「メガネをかけたまま、そのメガネを探しているようなもんだ! 意味ないね! 全然、少しも意味ないね!」
「あ、あんたね、世の中には自分探しの旅をして本当にやりたいことを見つけて成功した人もいるんだよ?」
「そんなどこの誰かもわからない人のサクセスストーリーに感化されたの? 当てずっぽうに旅をして、出逢いやチャンス、ひらめきや奇跡が自分にも起こるって考えたの?」
フィムは爆笑したあとにまた噴き出して爆笑した。
本当に、ここに置き去りにしてやろうかしら。
本気で「自分探し」しているわけじゃないけど、そこまで笑われたら腹も立つ。私はムスッと黙ったまま歩いた。
もちろん、どこの誰かもわからない人の、サクセスストーリーみたいなことが起きてほしい、そんなドラマチックなことが起きてほしい……それを全く期待していなかったかと言えば嘘になる。
そんなこと……少しの期待もしちゃいけないってのか?
私の疑問をよそに猫は笑い続けた。
☆彡 三年前
「葉月、仕事は決まった?」
母さんが心配そうな顔で言った。私は顔も見ないまま「ダメだった」と言った。
周囲が次々に内定をもらうなか、私は不採用の知らせを積み重ねていた。
「どうしてなの?」
そんなこと、こっちが聞きたい。
「もうみんな決まってきているんじゃないの?」
たぶんそう。
そんなことはわかってる。
そんな事実を聞くよりも、母さんの哀れみ含んだ湿った声に耳を塞ぎたくなる。
でも、黙って聞かなきゃ。
じゃないと永遠に続く。
心の中で耳を塞ぎ、わずかにうつむく。腿の上で握られた拳が見えた。
「朝桐さんのところの加奈子ちゃんはもう決まったって……」
「そうなんだ……」
私は微笑んだ。顔だけでも祝福しよう。
顔も覚えていない、朝桐さんの話など興味はない。そんなどこの誰かもわからない人と比べるのはやめて。
「将来のことをね、しっかりと考えて……」
そんなことわかっている。
全部わかっているし、全部考えてるんだ、そんなこと言われなくたって。
だから早く許して……。
私は心から懇願した。
☆・今
6月後半のシチリア島はすでに陽気がいい。日本のようにジメジメしないのが不思議でならない。
「ああ、疲れた!」
私はようやく入れた安ホテルのベッドに倒れこんだ。
部屋は古めかしく狭い。
最低限のベッドとシャワーがあり、部屋の雰囲気に合わないモダンすぎるクローゼットは、その戸を完全に開けようとするとベッドのフレームにぶつかってしまう素敵な配置だ。
「おい、もう出ていいか?」
ごそごそとディバックが動いている。
そんなに動いていたら、もしダメだった場合どうやって言い訳しろというのか?
「やっとホテルに入れのか、ずいぶん手間取ったなぁ」
「当たり前でしょ!? 受付でいきなり顔だしたりするから!」
受付で顔は出すは、二人になれば「カビ臭い所は嫌だ」「海の見える場所がいい」「受付のお姉さんがキレイなところじゃないと気が乗らない」など色々と注文を付けだす始末。
「あ、海、見えるじゃん! あの、前の建物がもうちょっと右だったらいいのになぁ、残念設計だな」
「はいはい、そうね」
っていうか、ここに来るまでずっと海は見えていたはずなんですけどね。
「ねぇ、フィム……」
「なんだ?」
今まで窓辺で海を見ていたかと思ったら、もうベッドのど真ん中であおむけで寝ようとしている。
おいおい、ベッドは私に譲れ。譲らないにしても、もう少し端に寄れ。
「明日はパラッツォーロ・アクレイデだけど、あんたはどうしてそこに行きたいの?」
「ああ? うーん、そうだな、説明するのが面倒なんだけど……」
面倒なんかい!
フィムはあおむけになっている。すでに眠そうだ。
猫はよく寝る子「寝子」が語源だって何かで読んだけど、本当にフィムは動きもしないのによく寝る。
フィムはうつらうつらしながら「まあ、あれだ、やんなきゃいけないことってあるじゃん? 人間で言う仕事みたいな感じ?」。
「猫の仕事……? それってどんな?」
フィムはもう半分夢の中だ。邪魔しちゃわるいかと思いながらも私は食い下がる。
「うん? ……ああ、クソみたいな……うん……仕事だよ」
クソみたいな仕事……?
「そう、猫の仕事にもそんな仕事があるのね」
私は夢を壊されたような気持ちと少しの安堵感を味わった。
どこでも一緒なんだね……。
☆彡 一年前
その場所は苦痛に満ちていた。
有無を言わせない張り詰めた空気と人間関係。高圧的な上司の言葉におびえながら、私と同僚たちは、常に急かされるように動いている。
私は何度も、何度も、何度も採用面接を落ちて、行く場所もなくて、ここに来た。
ここに入ると決まった時、母さんは不満な表情を浮かべながら、おざなりの安堵の言葉をもらした。自分の娘が、こんな名もない会社に勤めたことがよほど恥ずかしいのだろう。
でも「何もしていない」という最悪の状態に陥らなかったことで、うるさい口を塞ぐことができた。
私はこの場を失うわけにはいかない。ここを去ることは私自身の首を絞めることになる。
辛いとか、苦しいとか、休みたいとか……忘れるんだ。ここに居ればいい。
我慢だ。周囲がなんと言っても、我慢するんだ。他に方法はないんだから。
私は目をつむり、耳を塞ぎ、心を閉じた。
何も考えるな、目の前にあるものをこなせ。
目の前のものを片付けるんだ。
いくら仲間がいなくなっても、新しい人が入って不平を漏らしても、家に帰れなくて、ベッドで眠れないことが続いても……
顔も思い出せない、誰かが私に聞いた。
「倉本さんの生きがいって何ですか?」
「仕事、かな?」
私はなんで生きているんだろう?
☆・今
パラッツォーロ・アクレイデは、後期バロック様式の町の一つで世界遺産にも選ばれている。今も残る歴史の痕跡は、訪れた者の胸に独特の懐かしさに似た感情を抱かせた。
私たちが訪れたその日は町の守護聖人、聖パオロのお祭りが行われる日であり、多くの観光客が町を賑わせていた。
「夕方からお祭りだって」
私はフィムをだっこしたまま、祭りの最終準備をする地元の人と観光客の間を歩く。
フィムもさすがに理解しているのか、この人混みの中では普通の猫のフリをしている。
「うん?」
不意にフィムが顔を上げる。
「えっ……?」
私は呆気にとられた。
いや、夢かと思った。
「ライオン……?」
ちらりとしか見えなかったから間違いかもしれない。いくらなんでも、イタリアのシチリア島、それも町のど真ん中にライオンがいるはずがない。
たぶんだけど、目の錯覚……。
「祭りを見ながらプロシュートを楽しみたかったのに、そうはいかなくなったな」
「えっ?」
「葉月、今のライオン見たろ?」
「え、ええ、今のライオン、フィムも見たの? 夢じゃなくて?」
「ああ、残念だけど夢じゃない。これが葉月の見ている悪夢だったらどれほどマシか」
フィムが天を仰いで手で目を覆う。
「葉月、頼み事の追加だ。あのライオンを追ってくれ!」
「そんな、目の前の車を追ってくれ的な勢いで言われても……」
「いいから! このままあれを放っておいていいと思うのか? 葉月は人でなしか? 悪魔か? 鬼か?」
フィムはしっぽで私の身体をペシペシ叩いて催促する。
「ああ、もうわかったわよ。色々気に入らないけど追えばいいのね!」
確かにこんなに人の集まった場所でライオンが見つかりでもしたら大変だ。間違いなくパニックになる。お祭りどころではない。
「私が追ったところでどうにかなるとは思えないけど……」
私は言われるまま、ライオンを追った。幸いにして、地元の人たち観光客たちは祭りの方に目を奪われている。ライオンの存在に気が付いたものはいないようだ。
☆彡・一か月前
気がついたら病院にいた。
私は会社で倒れたのだ。
看護師の人が、意識の戻った私に明るい調子で声をかけた。
白い天井、消毒の匂いの染みついた壁、固いシーツに包まれたベッド……。
無理をしすぎた。そう言われた。
私はまるで抜け殻だった。何かを言われても言葉がまるで入って来ない。
目も耳も、心も、他人と関わることを拒絶している。
私は何をしているんだろう?
「ああ、何もしたくない……」
退院の日が迫る。
嫌だ。あの場所に戻りたくない。
でも、他に行く場所などあるだろうか?
母さんになんて言えばいい?
退院して数日後。
私は旅に出た。
出来れば、景色の綺麗な場所で死にたい。そんな綺麗な場所を探して。
☆・今
「おい、見つかったか!?」
「いや、こっちにはいない!」
私は路地に身を隠しながら、走っていく警察官の声を聞いた。
私は胸をドキドキさせながらその影から逃れるように身を潜める。いや、ドキドキはそれだけじゃない。
「見つかってんじゃんか、最悪じゃんか!」
「あらぁ、すみません~」
のんびりとした口調で「すみません」しているのは先ほどのライオンだ。名前をラグと言うらしい。
フィムを抱えた私のすぐ横でタテガミがやや黒っぽいライオンが縮こまる。
なんだこれ? 私、あぶなくない? この状況、危険じゃない?
死に場所を探して出た旅だ。死んでも構わないけど、痛いのは嫌だ。
「まったく、どうどうと街中歩く奴があるか!」
フィムがライオンに向かって猫パンチを食らわせる。ラグは申し訳なさそうに目を細めながら低い声でうなっている。
やめてくれ、本当にやめてくれ。
「見つからないと思ったんですけどぉ」
「身体の大きさ考えろ!」
「フィム、それくらいにしてよ」
私はフィムの手を握って強制的に猫パンチを封じてやった。
「ああ、もう、悠々自適に約束の丘まで行く予定だったのに」
「約束の丘?」
「はい、このパラッツォーロ・アクレイデの近くの丘に行きたいんですぅ」
ラグはそう言って、祭りの賑わいのある方角とは別の方向に鼻を向ける。
「人の目は祭りに向いている。葉月、頼むよ。俺たちをその場所まで連れていってくれ」
俺たちを……って……。
「ええっ!? この子も!?」
ライオンも連れていけっていうのか!? そんなバカな?
「あ、私、あんまり走るの得意じゃないんで、ゆっくりお願いしますねぇ~」
おい、走るのが得意じゃないライオンってなんだよ。
「もう、何なのよこの状況?」
いくらボヤいてもここまで来て引き返すことなんてできない。
こんな状況で見つかれば、私だって何を言われるかわかったもんじゃない。
「その丘まで行けば何とかなるんでしょうね?」
「なるなる!」
猫の調子は軽い。
でも他に選択肢はなさそうだ。
私はガイドブックを取り出し、フィムとラグに目的地の確認をさせる。二匹は地図をのぞき込むと「ここだ」と同時に指さした。
「ここからなら、それほど離れていないわね」
街から南西の方向。地図には考古学地区と書かれている。
その場所は、紀元前8世紀後半にギリシャ人によって作られた街だ。集会場や石切り場、劇場などの遺跡があるらしい。
「距離で言えば、2、3キロってところ?」
行き場所は決まった。向かうべき方向もゴールもわかった。
「やるしかないか!」
私はフィムを抱えたまま、路地から顔を出して、周囲をうかがうとラグに手で合図する。
私たちは動き出した。
注意深いルート選び。フィムとラグの猫科の耳は思った以上に役に立った。
私では気づくことのできない足音や声、人の気配に気がついてくれる。
これなら、私は姿を隠せる場所だけ探していればいい……ってなるはずだった。
「あっちに行ったぞ!」
「逃がすな!」
「わわっ!? やっぱり見つかった!?」
無理もない。ライオンが大きすぎる。
「なんで見つかったのでしょうかぁ?」
「なんでだろうね」
私は不思議そうな顔をするラグのタテガミを引っ張った。
「ラグ、走って!」
「走るの苦手ですぅ」
「うっさい! 黙って走れ!」
半泣きでドタドタ走るライオンに猫が声を上げた。
街中を逃げるのに、地元警察に叶うはずがない。普通に逃げたらダメだ。
どうする? ラグと二手にわかれる?
いや、今二手にわかれたら、警察はラグを追うに違いない。こっちは捕まっても言い訳できるけど、ラグはそうはいかない。
「そっちだ!」
「追い詰めろ!」
いい案が思いつかないまま、私たちは徐々に追い詰められていった。
「行き止まり……?」
どうやら私たちは知らない間にここに追い込まれていたらしい。
「うあぁん、もうダメだぁ! 人間に捕まってサーカスに売られるかも!」
「ジーザス! 可愛らしい俺だけでも助けてくれ!」
ラグは頭を抱え、フィムは祈った。
「ああもうっ! 何諦めてんのよっ! まだ捕まったわけじゃないでしょう! 諦めんなっ、顔を上げて、前を向きなさい!」
その時だった街の方で地響きのような歓声と花火が上がった。
祭りが始まったのだ。
一瞬だった。私たちを追い詰めた警察官たちの足が止まり、振り返った。
この包囲網からもはや逃げられるはずがない。退路はすべて塞がれている。袋のネズミだ。これで何事もなく祭りに参加できる。そんな安堵感があったのかもしれない。
彼らはほんの一瞬私たちから目を離した。
その一瞬、ラグが振るい立った。
フィムと私を背に乗せて、背にしていた塀を飛び越えたのだった。
とても越えられそうもなかった石造りの塀を越えながら、私は混乱した頭で呟いた。
なんだ、やればできるんじゃん。
☆彡・約束の丘
私はラグとフィムを連れてその場所にやってきた。
考古学地区。
おそらくここは遺跡の中でも集会場と言われる場所だ。
街の祭りの雰囲気とは対照的に、ここには人の気配はまるでない。
辺りはすっかり暗くなり、見事な月と星が顔を出している。
「ねえ、ここでいいの?」
フィムはディバックから飛び出した。
「ああ、ここだ。ここが約束の丘だ。みんな来ているか!?」
フィムが遺跡に向かって呼びかけた。すると、ざわりざわりと遺跡の各所で影が動く。
「えっ……?」
次々と動物たちが姿を見せ始めた。
身体の大きなクマ、角の立派なシカ、力強いトラ、賢そうなイヌ、穏やかなオオカミ、気難しそうな牛、クールな羊……。色々な動物が、立ち上がり、フィムのもとへと集まった。
「えっ? ええっ?」
何これ? どういうこと?
こんなに色々な動物たちが一か所に集まるなんて? どう考えたってシチリア島にいないような動物だっているし……。
「フィムさま、それにラグの到着で全員揃いました」
気難しそうな牛がフィムに頭を下げる。
「そうか、セラ、ご苦労」
どうやらあの牛はセラという名前らしい。
「さすが、フィムさま! 真っ黒ですね!」
今度は身体の大きなクマがフィムを称賛して手を叩く。
そう言われてみれば、ここに集まる動物たちはどこか変だ。身体のどこかに黒い模様のようなものがある。
クマも、シカも、トラも、オオカミも、みんな体の一部分が黒い。
「まあな、集めすぎて動けなくなっちまってさ、ここにいる葉月に協力してもらったんだ」
「そうだったのですか、葉月さま。お礼を申し上げます」
セラが頭を下げるとそこにいた動物たちが一斉に頭を下げる。
「え、ええ……フィム、これはどういうこと?」
圧倒されている私にフィムはニヤリと笑って「俺たちは世界中を周って、人間の後ろ向きな感情を集めているんだ。人間の後ろ向きで暗くて、良くない方向に進ませるクソみたいな感情を集めるのが仕事ってわけだ」と言って、集まった仲間たちに視線をめぐらせる。
「その感情を身体に集めると、その度合いによって身体が黒くなるんだ。多く集めるとその分黒くなる。あんまり多く集めると、どうしてもその影響を受けて、俺たち自身も気持ちが後ろ向きになるんだけどな……」
ということは、フィムは元々黒いのではなく、たくさん後ろ向きの感情を集めていたから黒くなったということ?
確かにこうしてみると、ラグの黒い部分は少ない。黒い部分が最も多いのはフィムだ。クマが称賛したのはきっとそういうことだろう。
「今回は調子に乗っちまったから、気持ちが保てなくてさ。辿り着かけないとか思った。だから助かった。ありがとうな、葉月」
フィムはまた私を見上げ「さて、時間だ」と言った。
「時間?」
「俺たちはもう行く。葉月、ここでお別れだ」
「行くってどこへ?」
私がそう聞いた時だった。
フィムの背に天使みたいな真っ白に輝く翼が現れた。フィムだけじゃなく、そこにいた動物たち全員の背に翼が生える。
それを見て、私は彼らがどこに行こうとしているのか、何となくわかった気がした。
「フィム、あんたたちって……」
「あ、そうそう、残念なんだけど、俺たちのこと、それにここでのことは忘れてもらわなくちゃいけないんだ」
フワリと宙に浮かんだフィムは、私の額に柔らかな肉球でポンと触れる。
ふわっ! と足先から頭の先までひんやりした風が吹き抜けた気がした。
「えっ?」
するとどうだろう、フィムの額にあったわずかばかりの白毛の部分がみるみるうちに黒くなり、フィムは完全に真っ黒な猫になった。
「君の本当の心を隠すものは、持って行ってあげよう。ここまで協力してくれたお礼だ」
まだらに黒い鳥が時を告げる。
「フィムさま、そろそろ……」
「ああ、そうだな。じゃあな葉月」
「ちょっと、フィム!?」
翼の生えた動物たちは順番に空へと舞い上がる。ラグがふらふらと飛び上がったのをセラとフィムが確認し、最後に二匹が飛ぶ。
みんな空へと消えていく。
羽ばたくたびに動物たちの翼からこぼれたキラキラとした羽が古の街に舞った。
私はそれを見ていることしかできなかった。
★・これから先
私はたった独りでその丘に立っていた。
なんで私はここにいるのだろう?
全く思い出せなかった。
思い出そうとすればするほど、その記憶から離れていってしまう感じがする。
すでに消えてしまった夢の内容を思い出そうとしている時みたいに。
私の心に浮かぶのは真っ白な光景。
私は大切なものを忘れてしまったような気がして、必死に思い出そうとする。
するとどうしたことだろう。
真っ白だった記憶のキャンバスに、突然色鮮やかな絵が浮かびあがり始める。
それは不思議なほど力強く、私の心を突き動かした。そんなつもりもなかったのに、私は思わずそれを言葉にする。
「そうだ、私、作家になりたかったんだ!」
心のどこかに埋もれていた、私の夢。
どうしてこんな場所にいるんだろう? やらなきゃいけないことがたくさんあるのに!?
居ても立ってもいられなかった。
私は急いでその丘をあとにした。
もう、その場所を振り返ることはなかった。
ぐうたら猫の不思議な依頼・了