ーちはるー ⑰
声が漏れないように口元に手を当てていたが、
鍋から吹きこぼれるように、手は蓋の意味を成していない。
その姿に腹が立ったが、
「渉、何がおかしいの。ちはるが真面目な話しをしている時に」
と母の『渉』の一言で、笑いが込み上げてきて、
苛立ちがどこかに飛びそうになったが、
ぐっとこらえて父を睨みつけた。
「ごめん、ごめん。ちはる、ありがとう。
この国を見て感じてくれていたんだね。
あー、来て良かった。本当に……」
父の言葉は途中から独り言になっていたが嬉しそうに見えた。
どうやら、冷やかしか何かで笑ったのではなく、
何かを思い出したのかもしれない。
母の方を見ると、
先程怒声を上げたのが嘘のように穏やかな表情を浮かべていた。
「ちはる、それでいいんだよ。
見て感じた事を日記に記録しておけば。
大切な記憶が思い出になって忘れる事はないのだから」
父は長い独り言を言った後に、
こちらに微笑み掛けてきた後に、
私と母を交互に見つめた。
「ともみにお参りしてから帰らないか?
おじさんとおばさんもちはるに会いたがっていたし」
「別にいいけど、突然どうしたの?
別々に行こうって決めたのはお父さんでしょ」
「もういいんだ、たぶん大丈夫だから……」
父はそう言うとまた笑い出した。
母も首を傾けていたので笑い出した理由は分からないのだろう。
ただ、ここまで笑う父を見るのは久しぶり、
いや初めてかもしれないので何となく嬉しく思う。
「ねぇー、ともみさんの家って東京だよね」
父が笑いから解放されたタイミングで母に尋ねた。
「残念、家から車で十分位かな」
「何で? 実家は東京でしょ」
「『お父さん、お母さん、仲良く暮らしてね。
できればこっちに住んでほしいな』
っていうともみのお願い事を叶えているの」
「みんなともみさんのお願い事を叶えているんだね」
「そうなのよ」
昨日の話しを聞いていなかったら、
「何でそこまでするの」と返していただろう。
だが、ともみさんのお願い事を叶えている理由が今ならはっきりと分かる。
「ねぇー、ともみさんの三つ目のお願い事って何?」
私は父を覗き込んだ。
「ちはるが高校三年の十二月三十一日までにともみとの記憶を
ベリーズで話す事。もう一つは新たな一歩を踏み出す事」
「もしかして、昨日じゃなくても良かったの?
何で昨日だったの?」
「それは、誰かさんが反抗期だったから。
『反抗期が終わったら行こう』って決めていたけど、
終わらなかったから」
母がボソッと言った。
そう言われると何も言い返せない。
確かに一昨日父は、「期限は明日」と言っていた。
だが、この時期ではないと改めて思う。
「もっと早く来たかったなぁー。
例えば中学校三年の時とかに」
「じゃあ、ちはるはそうしなさい」
母が覗き込んでくる。
「えっ、でも、やっぱり自信ないかな」
「もっと自信を持って。ちはるにならできるよ。
だって、ちはるのおかげでいろいろ知る事ができたから」
嫉妬の件かと思ったが、「いろいろ」と母は言った。
いろいろとは何だろうと思っていると、
「お父さんも、ちはるのおかげでいろいろ知る事ができた」
父も覗き込んでくる。
もう訳がわからない。
「「ありがとう」」
父と母は同時に微笑んだ。
違う。
お礼を言わなければならないのは私の方だ。
中学のいつからか反抗期に入った。
右と言われれば左を向いてきた。大学だってそうだ。
父と母が一浪したと知った時から絶対現役で行くと決めていた。
もちろんそれ以外の目的は何もない。
そんな私にこの世界を見せてくれた。
同じ高校三年の時、何を見て何を感じていたのかを教えてくれた。
だから、この旅行中に変わる事ができた。
今ならはっきりと伝えられる。
「ありがとう」
私は父と母に微笑み掛けると、父は照れ笑いを浮かべた。
私も自然に照れ笑いをしてしまう。
やはり恥ずかしい。
「ありがとう」と素直に言えるまで時間が掛かるのかもしれない。
「ありがとう」
私は改めてもう一度言った。
気が付くと空港手前まで来ていた。
ゲートの手前で降り、見上げると、
『THANKS FOR CHOOSING BELIZE』と書かれている。
「ベリーズを選んでくれてありがとう」と、
ともみさんに言われた気がした。
百八十度向きを変え、目を閉じ、この三泊四日を思い出す。
いろいろな事があった。
そしていろいろな事を教わった。
全て大切な記憶だ。
私の辞書に『ベリーズにまた来ます』と、
太字で足しておこう……。
いやダメだ。
それでは思い出になってしまうかもしれない。
その瞬間突風が吹き、ヤシの木の葉が擦れる音が、
ノートが捲れる音に聞こえ、ともみさんに、
「日記を書いて、ちはるにならできるよ」と言われた気がした。
そうだね。書かなきゃダメだよね。
大切な記憶を思い出にしないために。
今はいない大切な君のために。
目を開け、いつかまた見るだろうこの景色を胸に刻み込みながら
、大きく手を振った。
「ありがとう」
そして、心の中に語り掛けた。
「ともみさん、私、日記書くね。
そして、ありがとう。
大切な贈り物を残してくれて」
一つ息を吐き出し、父と母の元に向かった。
「お父さん、お母さん。私、日記書くね」
「「ありがとう」」
父と母は微笑んだ。




