風 鳥 鬼 ②
バスルームの鏡の前で、伊吹は自分の裸体を見つめていた。
右手でそっと左胸の辺りをそっと撫でてみる。
赤鬼・・・大仁田が言っていたように、ここには眼核という百目鬼の器官の一部が移植されている。ベッドから起き上がれるころにはあった傷も今は跡形もなく消えているが、なんとなく違和感を覚える。とはいえ、今は痛みも無いし、触れても異物があるような触感も無い。百目鬼の眼核は皮膚の下に隠れていて、見える事は無いと大仁田は言ったが、実際はどうなのか?
伊吹は百目鬼と最初に会った時のことを思い出してみる。あの時見た百目鬼の額にあったのは、確かに眼だった。額が割れ、そこから青く光る眼が覗いていた。それと同じ物が、ここに埋まっているのだろうか? そしてそれはいつ目を覚ますのか?
微かな不安がまとわりつくから、暇さえあれば鏡の前に立つ。
(バカバカしい。こうなっちまったんだから、仕方ねえじゃねえか。)
伊吹は鏡の前でこうしている自分が滑稽にも思えた。伊吹は首を少し振ると、Tシャツを着てバスルームからを出た。ベッドの横に寝そべっていたクラマがゆっくりと首を持ち上げた。
「やあねえ。何回自分の裸を見たら気が済むのよ。あんた、ホントはナルシストだったのネ?」
クラマの口調は、やや軽蔑の響きがあった。
「うっせー。いいじゃねえか、気になるんだからよー。」
「やだやだ。」
クラマはフンと鼻を鳴らして、再び寝そべった。
(ちぇっ。犬のクセに・・。)
「・・犬じゃないんだからね、私は。」
眩は確かに犬ではない。人語を解し、話す。見た目はコリーのような長毛種の犬のようだが、身体は大きく、子牛なみの大きさがある。それだけでも普通の犬ではない。おそらく二本足で立たせれば1m50cmくらいはあるかもしれない。ただ、決定的に違うのは額の角である。大きくはないが、3センチくらいの円錐形の突起は、彼女が普通の犬ではない証だ。しかも、黒夜同様テレパシーも使えるし、他人の心を読むことも出来る。
もっとも、黒夜も那由他もテレパシーで連絡を取り合う。しかも彼らはほかにも特殊な能力を持っているらしい。クラマは体の色を自在に変えることが出来る。今は白い犬だが、最初に見た時は真っ黒の犬だった。カメレオンのように体の色を変えられる動物は他にもいるが、クラマはどうもそれだけではないらしい。黒夜は尻尾が二つに割れる・・・言わば猫又と言う妖怪である。妖怪と言うと、黒夜に怒られる。大仁田が言うように、鬼界の住人(?)たちは特殊な能力を持った生き物が多いのだ。黒夜は伊吹の傷を肩代わりするという”身移し”という能力があるのだという。他者の怪我を治癒する能力とでもいうのだろうか? 他人の怪我をある程度肩代わりするという変わった能力である。その能力のお陰のせいか、伊吹は術後の回復も早かった。
那由他は3本足のカラスだが、ここにはいない。気ままに外で暮らしていて、居所がつかめない。那由他に関しては、どんな特殊能力があるのかすら分からない。
伊吹は今、都内の2LDKのマンションの2階に住んでいる。タワーマンションや億ションとまでいう訳ではなかったが、独り身の男としては広々とした贅沢なマンションである。警視庁に入ったころは6畳一間のボロアパートに住んでいた訳だから、たいした出世である。
もっとも、厳密に言えば黒夜と眩と一緒な訳だが・・・。
伊吹はかつて自衛隊にいた。陸自に居たのだが、教官と諍いを起こしてクビになり、中途採用で警視庁に就職した。最初は交通課に配属されたのだが、すぐに公安部に配置換えされ、今の部署にいる。
公安第4課第2公安資料室:第2係2部別室というやたら長い名称だけでは何をやる部署なのかよく分からない部署である。実際、伊吹はここがどんな仕事をするのかもまだよく分かっていない。
上司の土岐室長にすら2度会ったきりである。1度目は百目鬼との最初の仕事。2度目は病室に見舞に来てくれた時だけで、その時も土岐は時間を気にしていて、多くを聞くことはできなかった。
退院してから半月ほど経つが、登庁しなくてよいと言われている。指示があるまで自宅待機と言われて今に至っているのだ。
ただし、体を鍛える事だけは怠るなとは・・釘を刺された。もちろん、やる事は無いし、体を鍛える事は自衛隊にいたことを置くとしても、すでに伊吹には日課となっている。
そういえば、百目鬼とはあれ以来一度も会っていない。同じ病院に居たハズなのだが、自分よりも早く退院したのだそうだ。大仁田は百目鬼の眼核をSTAP細胞のような物だと言っていたから、彼の体の治癒能力も人とはまるで違うのかもしれない。
伊吹はリビングのテレビを点けると、そのままそこで逆立ちをする。テレビを逆さまに見る。いや、特に意味はない。テレビを点けるのは何となくである。見たい番組があるわけでもない。どうせ今の時間帯はどの局もワイドショーばかりである。毒にも薬にもならない番組ばかりが常に流れている。まるで見る人間を無思考化しようとでもするかのようだ。
テレビは芸能人の覚せい剤事件が終わると、徳島の幼児失踪事件の報道に切り替わった。いつものように自称専門家のコメンテーターが好き勝手に持論を展開する流れだ。もっとも、それが持論なのかどうかも分からないのだけれども・・。
その間にも、伊吹は逆立ちを続けている。ただ、床についている両手は次第に10本の指となり、その指も1本ずつ床から離れていく。
テレビでは親が目を離した40秒の間に失踪した子供がどうなったのか? その子供の行方を捜すためにSK国が捜索犬を連れて救援に駆け付けるようだというニュースでもちきりである。
『下僕ぅ!!!』
残り2本という時に、黒夜からの叫びが頭の中に鳴り響いた。
テレパシーがどういうものかは、伊吹にはうまく説明できないが、携帯電話に近いと思っている。しかも黒夜は勝手にアクセスして来る。最初伊吹は自分もテレパシーが使えると思ったが、それは黒夜にからかわれていただけのようで、こちらから発信することはできない。
要するに黒夜たちは、テレパシーによって伊吹に話しかけ、伊吹の思考を読む事によって会話が成立するということなのだ。言語は日本語である。異世界の住人達も日本語を使っているのかは不明だが、少なくとも伊吹には日本語で理解できている。ぼんやりした態度とか、感覚とか、相手の思考が頭になだれ込んでくるとか、そういった類のものではない。実に便利で不便なツールである。
『下僕!! 今すぐ吾輩を助けに来るのニャ。!!』
『面倒くさい・・・。』
『何という態度ニャ! 吾輩を助けさせてやろうというご主人様の温情が理解できぬ粗忽モノめぇえ!』
『時代劇かよ、オメエは?』
『うるさいのニャ! 後でお仕置きニャ!』
伊吹は逆立ちを辞め、テレビを止めようとした。
『ダメよ、あたしが観てるんだから。あんたは黒夜を助けに行きなさい。』
・・・・このテレパシーの形態は多人数同時に会話できるらしい。
いつの間に移動してきていたのか、クラマがソファーに横たわってテレビを観ていた。
『そうなのニャ! 急ぐのニャ! キンキンが無くなってしまうのにゃー!!』
(まったく、気心とかじゃなくて、盗聴じゃねえかよ、これは。)
「失礼ね。私たちだって、しょっちゅう他人の心を覗いているわけじゃないのよ。だいたい、そんなことしたら、精神病になっちゃうわよ。」
「ごもっとも。」
『さて、どこにいるんだよ黒夜?』
『ご主人様と呼ぶのニャー!』
********
「すいません。その猫、俺の猫なんです。」
「この仔があなたの飼い猫だっていう証拠は? 首輪も付けてないし、ICチップでも付けてるの? 証拠を見せてちょうだい。」
「にゃ~~~ン♥ にゃぁあおぉぉぉ~~~♥」
「いや、その・・・。」
黒夜は野良猫狩り・・・もとい地域猫を増やさないようにするためのボランティアの人々に摑まっていた。きっと、ちゅーるる(ゲル状のエサの名前)にでも目がくらんで捕まってしまったのだろう。妖怪猫又なら、自力で逃げ出せそうなものだが、黒夜は伊吹の顔を見ると、今までに出したことも無いような甘えた声で鳴き始めた。
「証拠って言われても、まだ小さいし、去勢もこれからする予定なんですけど、家から逃げちゃって・・・探してたんですよ。お願いです。返してください。」
「あなた、まさか去勢もしないで多頭飼いなんかしてないでしょうね?」
「そんなことしてませんよ。うちにいるのはこの化け猫・・・」
「化け猫?」
「ニャニャ!」
「いえ! いえ! 違います。違います。黒猫です。この黒猫と・・・」
「と?!」
「・・いいえ、黒猫だけです。神に誓ってコイツ1匹だけです!」
黒夜の入ったケージと伊吹の顔を代わる代わるボランティアのオバちゃんは見比べる。
「にゃ~~~ん♥ にゃおぉ~~ん♥」
「・・・・・あんた。あたしに約束しなさい。この仔は1週間以内に獣医に行って去勢する事。」
「はい、わかりました!」
「放し飼いにしない事。」
「イエッサー!」
「ふざけんじゃないわよ。」
「すいません・・。」
「にゃ~~~ん♥ にゃおぉおおおん!」
「いいかい。猫にも命って物があるんだ。その命と一緒に暮らすんだよ。分かってるかい? 飼う方にも覚悟ってものが必要なんだ。」
「はい。よく分かりました。以後気を付けます。」
「にゃおぉおおおん♥ にゃ~~~ん♥」
オバちゃんは、ようやく黒夜の演技に納得したのか、黒夜をケージから出してくれた。
黒夜は思いっきり伊吹の足元にすり寄り、体をこすりつける。ボランティアのオバちゃんは、黒夜を抱き上げると、伊吹に手渡してくれた。その目には慈しみがあふれているのが伊吹にも分かった。
「いいかい。この仔を幸せにしてあげるんだよ。わかったね。」
「はい。・・・わかりました。ご迷惑をおかけして、すいませんでした。」
「いいのよ。今後は気を付けてね、逃げられないように。」
伊吹はバスケットに黒夜を入れると、丁寧にお礼を言ってその場を離れた。
「なんで人間に摑まったりするんだよ。妖怪のクセに。」
『うるさいのら。それに妖怪ではないのニャ。』
「猫又だろ、お前はヨ。」
『お前のご主人様なのニャ!』
堤防の上をブラブラと歩く伊吹の姿は実に平和である。まだ午前中だし、天気もいい。伊吹は一応Tシャツの上にジャージを羽織っては来たが、これが結構暑い。上のジャージを脱いで腰に巻く。むき出しの腕に当たる風がやけに心地よい。
今年は残暑も大した事は無く、気温も丁度よい。秋空は抜けるように青く、ぼんやりとした雲がいくつか浮かんでいる。河川敷では犬を連れて散歩する人や、ぼんやりと雲を眺めている暇人をちらほら見かけた。
『下僕~。吾輩は外に出るのラ。』
誰にも聞かれる気遣いはなさそうだったが、黒夜はテレパシーで会話する。伊吹は黙ってるのも何なので、口に出して言う。もっとも聞かれたところで、猫好きの青年が独り言を言ってると思われるのがオチだ。人とは、ペットによく話しかけるものなのだ。
黒夜はまだ若い。子猫と呼んだ方が良いかもしれない。
話しぶりは老人のようで、人間の年齢にすれば60代と言ってもおかしくない。知識に関しても子供とは思えぬ知識量である。見た目は子供、知識は老人。・・・・どこかのアニメの主人公のようである。
『そろそろバスケットから出すのニャ。外に出たいのラ。』
「バ~カ、また摑まるぞ。今度は助けねえからな。キンキン抜かれちまうぞ。」
『それがご主人様に云う言葉か、下僕のクセに!』
黒夜の言葉にでも連動したかのように携帯が鳴った。
「もしもし。田中です。」
伊吹は今、田中健太と名乗っていた。その名前がオガクロリアに体を乗っ取られ、死んだ青年だとは知らされていない。
「オレだ。クロと代わってくれ。」
声の主は明らかに土岐だった。だが、そう云った途端に電話が切られた。
「どういう事だ?」
『にゃんだ? 誰からの電話ニャ?』
「室長だ。クロに代われと言った途端に電話を切った。・・・公衆電話?」
『分かったのら。』
黒夜はそう言うとしばらく黙っていた。
『仕事ニャ、伊吹。』
のんびりするのも終わりのようだ。伊吹の左の口角が少しだけ上がっていた。