風 鳥 鬼 ⑩
黒夜が言った言葉通りに、あの川の上流には滝があった。川を渡るときに黒夜が上流には滝があると教えてくれたのである。
滝の落差は3~4mはあろうか、思いのほか水量に恵まれている。しかも滝壺は岩に囲まれていて、10mほどの広さがある。
(理想的だ。)
伊吹は装備とクロスボウを川辺の茂みに隠すと、服を着たままゆっくりと水に入った。浮かれて飛び込んだりすれば、それだけで温度の変化について行けず、夏でも心臓麻痺を起こしたり、痙攣などを起こすことがある。
滝壺は思った通り深く、伊吹の身長を飲み込んで余りある。伊吹は潜ったままじっとしている。服についているであろう虫やダニを落とすためだ。伊吹は肺活量には自信がある。海女さん並とは言い難いが、それでも常人よりは息が続く。
水の中で目を凝らすと、優雅に泳ぐイワナやヤマメが見えた。
(こいつらを捕まえて、なるべく早く帰らないとな。)
息が少し切なくなってきた。
伊吹は用心深く滝の裏側に回る。激しい水の流れに流されそうになるが、うっかり入った場所に戻る事は出来ない。人が居るはずはないが、伊吹は山に入ってからずっと監視の目を感じている。それが一人の物なのか、複数なのか、あるいは気のせいなのかは分からない。だが、用心するに越した事は無い。今は無防備なのだ。
滝の裏側で息を継いで、再び潜る。そしてそれを数回繰り返す。すでに10分以上経っている筈だ。監視者が居るなら、様子を探りに近づいてくるだろう。伊吹はそれを待っていた。
(やはり気のせいかな・・・。)
伊吹は滝のすぐ近くから姿を現した。すでに洗濯は終了している。激しい水の流れで、衣服も体もほぼ洗われているのである、固めてある靴の中以外は。
伊吹は河原に立つと服をすべて脱ぐ。今日は晴天で風も無い。このまま服を乾かしても良かったが、既に10月。南国とはいえ気化熱で体温を奪われると体力も奪われる。今はまだ体力を温存しておきたかった。脱いだ靴を洗い、足の指に溜まった垢を川で濯ぐ。
点検はしたが、まだ見られているという感覚はぬぐえなかった。しかし伊吹はそんな素振りはおくびにも出さない。傍から見ればノホホンとした感じだ。鼻歌まで歌っている。伊吹は裸のままクロスボウで4~5匹のイワナを捕ると、火を熾す作業に入る。水に入る前に衣服の袖を削って作った繊維クズを集めて火種にする。メタルマッチは無いが、幸い天気が良いので双眼鏡のレンズを外して種に光を収束させる。秋とはいえ気温が高いせいか、思ったより早く種に火が点く、そこに枯れ草と削った枯れ木で火を大きくしてゆく。
そしてナイフで魚の腹を裂き、内臓を抜いて川の水で洗う。普通ならここで塩を塗る訳だが、塩が無い。どのみち黒夜も食べるので塩は不要なのだが、(俺にはたぶん物足りねえよな・・。)ちょっと残念な伊吹である。小枝を削った串で魚を刺して焚火の周りに立てる。
その時だった。
伊吹は、何の理由もなく焚火から飛び跳ねた。不規則に動いて地に伏せ、藪に突っ込む。・・・そして、そのまま動かなくなった。
冷汗がしたたり落ちる。
全神経を視覚と聴覚に集中する。
だが、何も異変は無かった。
(何なんだ・・・今の殺気は・・。)
殺気。殺気とは人が人を殺害するという明確な意思に他ならない。目の前に人が居れば、その視線や表情などから誰でも察知しうるものだが、伊吹が感じた殺気は何もない空間から生じたものである。物理的にはどうやっても証明しえない現象だった。
だが、伊吹はそれを感じた。
一瞬で鳥肌が立ち、自身の生命を守るべく無意識に逃げた。理由も理性も無かった。ただ逃げねば殺されると感じただけである。
「ピンインの仇! ピンインの仇!」
金は歩きながら、譫言のように呟いていた。
目は血走り、顔じゅうの毛穴から汗が噴き出す。息も荒く、手が微かに震えている。
あの時。
金は茂みの中で、スタームルガーを取り出した。
殺す気など毛頭なかった。第一、今ここで殺してしまったら任務が遂行できない。
ほんの遊びに過ぎなかった。
いっぱしに警戒している伊吹を見て、彼は嗤っていたのだ。
『ど~れ、俺に気づくかな』
長きにわたる禁欲生活に熟れて来ていた金にとって、これは娯楽だ。ヤツを抹殺するときはいずれ来る。これは予行演習とも違う。ほんの遊びで銃を向け、ただただ嗤ってやるのだ。
『間抜け顔!』と!
そして金はニヤニヤしながら安全装置を解除した・・・・瞬間。
ヤツはいきなり飛び跳ねて姿を隠した。
金は驚いた。驚いたと同時に、今回の任務が遊び半分でできるものではないと即座に悟ったのである。
『ヤツに気取られてはいなかった・・・。』
自分の擬態には自信があるし、尾行自体も気取られてはいない自負がある。なのにである!
『銃の安全装置を外しただけで気取られた。』のだ!
実際にヤツを狙撃するのは、もっと離れた距離からだ。だが、奴の反応を見た瞬間、金は実際に撃つ瞬間に、ヤツに察知されるかもしれない。という思いが芽生えた。
そしてそれは恐怖のような得体のしれない生き物へと変わっていく。
(ならばどうするか?)
金にはいくつもの経験則がある。人を撃つにはどうすればよいのかよく知っている。
そう、人は何かに集中している時には周りへの注意がおろそかになる。ヤツを撃つとしたら、奴が獲物を撃つ瞬間を狙うしかない。ヤツの獲物を横取りしなけれなならないこの任務においては、ヤツが成功する瞬間を待たねばならない。ヤツが失敗すれば、狙撃に成功しても、それは失敗だし、ヤツが成功しても、狙撃が失敗すれば任務は失敗に終わる。それはほんの一瞬の時間になるだろう。
『もし第1弾が失敗に終わっても、第2弾、第3弾と撃てばいいじゃないか』と、もう一人の金が金に囁く。
『嫌だ!』
たとえ任務が成功したとしても・・それは金自身が許せなかった。許すべきではないと思っている。
「ピンインの仇! ピンインの仇!」
いつしか彼の頭は混乱した。愛犬を殺したのは自分に他ならないのだが、いつしか憎むべき対象は伊吹へと移っていったのである。
「ピンイン、お前を殺したあの野郎を俺は生かしてはおかないぞ。死体になった後にズタズタにしてぼろクソにしてやる。お前の墓にあいつの切り刻んだ体を埋めてやるさ。そうすりゃ、お前は腹いっぱい食えるだろ。そうだよな。オレは優しい。お前のご主人様だ。かわいそうなピンイン。お前の仇はきっと、きっと!」
狂ったように呟き、狂ったように慟哭する。
いや・・・最初から狂っていたのか・・・。
金は泣きながらひっそりと後退する。伊吹の監視を止めて、自身のベースへと戻るのだ。ヤツは、ヤツの陣地に再び戻るという確信がある。だから待つのだ。伊吹を深く、深く、呪いながら。
伊吹も帰りを急いでいた。焼けた魚をフキの葉で包み、身支度を整えると、前にもまして尾行に警戒しつつ帰り足を急ぐ。
あの後、人の気配も殺気も感じる事はなかったものの、どうしようもない恐怖感だけが残った。そうなると黒夜の事も心配になってくる。
伊吹は眉をひそめた。
体中が痛い。
素っ裸の状態で藪に突っ込んだのである。体中のいたる所に擦り傷が出来ていた。一応もう一度水につかって体を洗い、携行している抗生物質を飲んだものの、痛みが消えるわけではない。じわじわとした痛みが全身を覆うのだ。人間と言う生き物が毛皮を脱いでから、身に纏う鎧とも言うべき布を発明した理由がはっきりとわかったのである。
「黒夜!」
ベースにつくなり、伊吹は黒夜の名を呼んだ。
狭い穴倉の中に、黒夜の姿は無かった。
『ウソだろ・・・。』
「クロ・・・」
「大声を立てるニャ。」
「黒夜。」
黒夜は伊吹のバックパックの中に居た。大きく伸びをして体を舐め始める。
伊吹はホッとしたが、黒夜の動作に違和感を感じた。
「・・・・お前、ひょっとして・・・」
黒夜の黒い毛ではっきりとは見えなかったが、顎のあたりが濡れている。血を流しているのだ。
「怪我してンのか、バカ野郎!」
「うるさいのラ。ちょっと油断しただけニャ。ちゃんと返り討ちにしてやったニャン。」
「馬鹿野郎、ちょっと見せてみろ!」
伊吹は黒夜を抱き寄せると、顎のあたりの毛をかき分ける。
「痛て! 痛てて! ご主人様にニャにをするのニャー!!」
「手当するんだろうが、ちょっと待て。」
「こんなもニョ、舐めてりゃ治るニャ!」
「アホ! テメエでテメエの顎と頭を舐められンのかよ!」
伊吹はバックパックの中から携帯の救急箱を取り出すと、消毒薬と傷薬を取り出し、黒夜に塗った。
「ぐぎゃああああ!!!」
「幸い舐められねえ場所だ。あとはこいつを舐めろ。」
さっき自分で使った抗生物質を砕いて指先に乗せる。
「く・・・クスリはイヤにゃのラー!」
「わがまま言うな、バカ猫。」
伊吹は抵抗する黒夜の口に、無理やり薬を乗せた指を突っ込んだ。
黒夜は必死に牙と爪で抵抗し、伊吹の腕の中から逃げ出した。
「ゲホッ、ゲホゲホッ! きっさまー! ご主人様にニャにをするかー!」
伊吹は離れた黒夜を見て、ため息をついた。ほっとしたようにも見える。
「にゃ・・にゃんだ?」
「とりあえずは大丈夫だろ。イワナ、食うか? 口直しによ。」
「・・・・・。」
黒夜は毒気でも抜かれたかのように、フキの葉に置かれた焼き魚の匂いを嗅いだ。そして背中の方から食べ始める。
「やたら小骨が多いにゃ。」
伊吹はもう一匹のイワナを器用に手でほぐし骨を取り除く。そして黒夜が食べているイワナと取り換える。食べかけのイワナをまた手でほぐす。
黒夜は驚いたように伊吹を見ていた。
「うまいか?」
「・・・・。ちゅ~るるの方が100倍うまいにゃ。」
「そうか。もっとある。腹いっぱい食え。」
「言われなくても食うのラ。お前にはやらん。」
黒夜はケタケタ笑った。そして伊吹も笑った。
黒夜は伊吹を見た。伊吹の眼には優し気な光が宿っていた。
「お前、耳が切れちまってるぞ。本当に大丈夫か?」
「大丈夫にゃ。」
黒夜の右耳の先端がギザギザになって固まった血がこびりついている。
「バカだな。お前は。」
「うるさいなニャー。吾輩は不死身ニャ。」
「不死身でも、体は治せねえんだろ?」
「うるさいニャ。だからにゃんだ。」
「気を付けろ。おめえはまだ子猫なんだろ。」
気分を損ねたのか、黒夜は黙って食べ始めた。
黒夜が2匹目を平らげそうになると、伊吹はもう一匹のイワナに手を伸ばし、その身をほぐし始めた。
「・・・一人で食うのはどうも味気ないのニャ。お前も食え。ご主人様の命令ニャ。」
そう言うと黒夜はイワナにむしゃぶりついた。
シンとした夜だった。
もっとも山奥だから都会のように喧騒が聞こえる訳ではない。それでも夜行性の獣が徘徊するから、闇の中での戦いが獣の叫びを誘発する。だが、今夜は何もない。ただ星だけが空いっぱいに瞬いている。
「狸にやられたのか?」
「・・ああ。そうニャ。毛がボロボロになったヤツだったニャ・・。」
黒夜は伊吹の膝の上で目を半開きにして漆黒の闇を見つめていた。
「そうか。災難だったな。でも生きててよかった。」
黒夜が驚いたように伊吹を見つめている。
「・・・吾輩は簡単には死なないのニャ。」
「そうか。そうだな。」
黒夜は伊吹の体が傷だらけになっている事には気が付いていた。
「伊吹、体は痛むにゃ?」
「大したことはねえ。お前ぇの方が傷は深いだろ。」
「少し引き受けてやろうか?」
かつて伊吹が入院していた時に、他人の傷や痛みを引き受けるという黒夜の特殊能力≪身移し≫だ。
「ばーか、お前の方が傷が深いって言ってんだろ。俺のはかすり傷だ、すぐに治る。・・・お前の傷を俺が引き受けられたらいいんだろうけどな。」
「・・・伊吹、お前気持ち悪いのラ。」
「そうか? ・・・そうだな。」
伊吹は低く笑った。
「・・・・伊吹。」
暗闇で見えぬが、黒夜の顔が真顔になっていた。
「なんだ?」
「東京に帰ったら、吾輩のキンキン取っちゃうのか?」
「・・・お前はどうしてほしいンだ?」
「断固反対ニャ!」
「そうか。なら止めとくさ。」
「・・・どうしてラ?」
「ん~、どうしてって。お前は嫌なんだろう。今までオレは猫とは話したことがなかったからな。嫌だと言われたら、無理強いしてもなあ・・・。その代わり、禁欲してくれよ。」
「ムウ~。それはちょっと難しい問題ニャ。人間と違って動物には発情期ってもんがあるニャ。」
「人間はどうかな? 発情期っていやあ、常に発情期みたいなもんだしな。」
「だから人間はダメなのニャ。」
黒夜はため息をついた。
「猫もため息をつくんだな。」
「猫だってため息くらいつくにゃ。」
「どうしてなんだろうな? 人は猫や犬を自分の子供のようにかわいがる。かわいがるがその動物を自分のおもちゃのように扱う。家族と言いながら、無理やり去勢して飼いやすくする。いらないと捨てちまう奴もいる。子供が生まれれば、その子を始末しなきゃならんし、かといって無制限に飼うことも出来ねえ。」
「吾輩にだって何がいいのか、よく分からないのラ。人間が猫や犬を去勢してノラを増やしたり多頭飼いで悲惨な目に合わせていることも知っているニャ。けど・・・」
「けど?」
「吾輩は生きているニャ。自然のままに生きていきたいと思うのは人間と同じニャ。キンキンを取られて、人に飼われる事は、もしかしたら奴隷と同じじゃニャいのか? もしお前が猫だったら、奴隷にニャりたいか?」
「・・・そうさなあ。 とりあえず奴隷は嫌かな。」
伊吹はそっと黒夜の背中を撫でた。
黒夜の耳がピンと立った。そしてせわしく耳が動く。
「伊吹! 明日、卵が孵る。」
伊吹の眼にある光が宿り始めた。
「伊吹。これから言う事をよく聞くのラ。」
暗闇の中で黒夜は伊吹の顔をじっと見つめていた。