風 鳥 鬼 ⑧
山を登り、少し開けた道のようになっている平地の一角に、黒夜と伊吹は陣地を構えることにした。伊吹は穴を掘り、薄い防水シートを被せ、その中に居る。ここから風鳥のいる場所はすぐ近くだと黒夜は云うが、平凡な山の風景が広がっているだけである。
「本当に目の前に居るのかよ?」
「双眼鏡で覗いて見るニャ。」
伊吹は双眼鏡を取り出し、黒夜の示した方向に目を凝らすが、岩肌が見えるだけで何も見えない。
ガリー浸食によって崖の中腹くらいがちょっとした広場となっているものの、そこには割れたような岩が上向きに寝ころんでいるだけである。ここからは200mくらいはありそうだった。
「いねえぞ。本当に居るのか?」
「お前の眼は節穴なのら。今はそこに居るニャ。」
黒夜は眼も開けずに丸くなっている。
「どうでもいいけどよォ、ここからじゃクロスボウで的に当てることはできねえぜ。脱皮が始まったらすぐに向かわなけりゃ麻酔を撃ち込むことなんかできやしねえぞ。」
伊吹の持つクロスボウの有効射程は40mくらいである。殺害が目的ではないので、少しくらいは離れていてもなんとかなるが、さすがにこの距離では当てる事は不可能だろう。強力な弩なら1kmくらい飛んだという記録もあるそうだが、それは飛んだという事実であって的に当てた訳ではないだろう。矢というのは空気抵抗が大きく、目標に対してまっすぐに飛ばない。弾丸と違いジャイロ運動をしないからで、無風状態であっても遠距離の標的を狙うのは不可能である。
「大丈夫なのラ。下僕は黙ってご主人様の命を待つのニャ。」
「へいへい。・・・・で、俺は風鳥が脱皮を始めるまで寝ててもいいのか?」
その時、ザアアアアアっと強風が吹き始めた。
「! まずいのラ!! 」
黒夜の耳がピンと立った。しばらく耳を澄ましているようだったが、突然伊吹の胸元に飛び込んできた。
「伊吹! 伏せてじっとしてるのニャ!!」
伊吹は何のことか分からないまま塹壕の中で伏せる。
「絶対に動くニャ!」
草木が風で揺れていたが、やがて風はすぐに治まった・・・しかし・・伊吹の額から意味不明の汗がしたたり落ち始めた。動くなと言われなくても、今動くとヤバイ! という気がした。
『何か居る!!』
言いようのない恐怖の膜が伊吹を包む。
ぱきっ。
少し離れた地面の上で小枝が爆ぜる音が聞こえた。
伊吹は伏せたままじっと前方を見据えていると、ずしり・・・と遠くで地面がへこむ。へこんだ地面はなにかの動物の足跡のような形をしていた。
ずしり。
ずしり。
足跡は次第に大きくなり、その足跡は伊吹の手前で止まった。
冷汗が流れ落ちる。
目の前の空間に二つの細長いエメラルド色をした目がふたつ現れた。瞳孔は黒く透き通っていて、ソフトボールほどの大きさがあった。生臭い吐息が伊吹の顔にかかる。伊吹はベルトに挟み込んだグロッグ17を握りしめていた。汗で手のひらがやけに滑る。
その見えない何かは、伊吹の匂いを嗅いでいるようだ。空間が横に裂けて、赤い舌と白く尖った歯がずらりと並んでいた。
『ここまでか・・・!』
グロッグを握る手に力を籠める。
『待つニャ!!』
先が割れた舌が伊吹の顔を舐める。2度・・・3度。
空間の口はゆっくりと閉まり、そして何事もなかったように離れ始めた。バックで・・ずしり・・・ずしりと用心深くゆっくりとだ。
再び大風が吹き荒れ、地面に土埃と木の葉が舞い上がった。
「危なかった・・・のニャ。」
「・・・あれが風鳥なのか・・・?」
「そうニャ。産卵で警戒心が強くなってるニャ。下手に動いてたら、八つ裂きにされてたニャン。」
黒夜の言う通り、光が少し歪んでいるのを感じる程度で、本体は透明だった。まるでプレデーターという映画に出てくる宇宙人のようだ。
「いったい、奴の体は何で出来てるんだ?」
あの目の大きさからいって、翼を含めれば全長は10mくらいはありそうだった。
伊吹は穴の中で座り込んだ。グロッグを掴んだ手がマヒしたかのようにまだ離せない。微かに震えているようだった。
「だが、もう来ないのニャン。テリトリーの外側だという事は確認したし、敵じゃないという事は認識したハズにゃ。もっとも雛が孵ったら、エサにされるかもしれニャいがニャ。」
「冗談キツイぜ・・・・。」
「心配するニャ。死ぬのはそんなにつらくニャい。」
黒夜はケタケタと笑った。
「待てよ。・・・お前、俺を楯にしたな!」
「当たり前にゃのら。ご主人様の危急を救うのが下僕の使命ニャ! 伊吹はデカいから風鳥も丸のみには出来ないのニャ。」」
またしてもケタケタと笑う。
確かに黒夜ならあの化け物に襲われたら一飲みだろう。
「・・ったく。なんてわがままなヤツ!」
やっと拳銃から手を離せた伊吹は、体制を立て直し、胡座をかいた。すかさず伊吹の股間に黒夜はすっぽりと入り込む。足がしびれても動いてくれるようなヤツではない。
「・・にゃろ。」
黒夜はそのまま少し眠るようだ。
伊吹は黒夜を眺めた。
確かに子猫だ。
毛並みがビロードのようにつややかに輝いている。そういえば黒夜は山に入ってから、単独行動をしていない。常に伊吹と一緒である。
「そうか・・・。」
街中と違って、野生動物がいる山中では、子猫など大型獣や猛禽類にしてみればただのエサでしかない。
『こいつも考えてンだな・・。』
黒夜の体に手を当てる。体温が伝わってくる。妖怪などという物の怪なんかではない。黒夜は生きている。生物として確かに生きているのだ。
『確か、300年くらい前の記憶があるっていってたなあ・・。』
死は猫として何度も迎えているはずだ。生き物が一番恐れる死を、この小さな子猫は今まで何回も経験してきたのである。そう考えると不憫な気がした。どういう神の悪戯かは分からないが、黒夜たち一族には非常に過酷な運命を与えた訳である。
伊吹は軽く黒夜の頭を掻いてやった。
黒夜は眠りながら手足をグイと伸ばす。気持ち良さげな寝顔である。
直線距離で350m。
やや標的を見下ろすような形。
藪の中で木立に囲まれている。
そんな場所に穴を掘り、金永哲は流星と蹲っていた。
こちらも体育座りをしている金の足の間にピンインがいる。金は双眼鏡で伊吹を見ていた。
目標は一人。しかも素人のような日本人の若造である。このまま夜間に近づいて殺してしまうことも簡単に出来そうだった。生け捕りも可能だろうが、奴が狙っている獲物が、いつどういう風に現れるのかがまるで分からない。あくまで依頼はこの男の暗殺ではなく、男が手に入れるであろう<龍の抜け殻>である。
「それにしても間抜けなヤツ。あれじゃカモフラージュにもならないね、ピンイン。」
普段は寡黙だが、犬と一緒にいる時はなぜか饒舌になる。
金は自分の陣地をカモフラージュしている。自身の顔にも迷彩を施し、ちょっとやそっとでは見つからない自信が金にはある。スナイパーとして戦ってきたときのノウハウである。例え30センチ隣を人が歩いていても見つけることは難しいだろう。彼から見れば伊吹たちの陣地のカモフラージュなど児戯にも等しい。
「距離にして350m。スコープなしで余裕で行けるね。」
金は伏せているピンインの背中を撫でている。
「シモヘイヘも、このくらいの距離ならスコープなしだったしね。」
シモヘイヘというのは第2次世界大戦で勇名を馳せたフィンランド軍の狙撃手である。わずか32名の狙撃手たちが4000人のソビエト兵と戦い、コッラー河付近の領地を守り抜いたのである。中でもシモヘイヘはソビエト赤軍から”白い死神”と恐れられた。300m以内なら敵の頭部に必中させたというから驚きである。しかもスコープの反射光で自分の居場所が割れるのを防ぐため、アイアンサイトによる裸眼での狙撃だった。彼が狙撃して倒したソ連兵の数は505人。現在記録が残っている狙撃手の記録としては世界一である。
金はもうすでに狙撃の準備も整えている。弾丸を装填したマクミランTAC-50にスタンドを付け、すべて調整が済んでいる。裸眼でOKと言ってはいたが、スコープも取り付けられている。後は伊吹が動き出すのを待つだけである。
「こいつを使わずに済めばいいね。ピンイン。」
金は4インチのスタームルガーにサプレッサーを付けたものを、丁寧に磨いていた。
スタームルガーは22口径の銃だ。威力のある銃ではない。ただその命中精度は群を抜く。いかにも金のようなスナイパーが好む銃らしいが、そうではない。この銃はサプレッサーをつけるとほぼ無音であると言われている。護身用なのか、近づいて暗殺するために持ち歩いているのかは分からないが、物騒であることに違いは無かった。
風鳥を観察する日々が結構楽しくなってきた伊吹。
観察と言っても可視できないのだが、それでもたまに目や口を開ける事があってそのレアなケースにぶつかると何か嬉しくなってくる。動物を専門に撮っているカメラマンなんかはきっとそういう気分を味わうのだろうと伊吹は一人考える。それでも1日の大半は暇である。決定的チャンスを狙っているわけでもないので双眼鏡で覗くのは1日のうち1~2時間くらいなものであろう。もちろん交代要員もいないので、観察に時間をかける必要はない。
黒夜の経験によれば、風鳥の孵化と脱皮は黎明時に行われるのだという。だから夜は暗くなれば眠り、深夜に目を覚ます。だから日中はほとんど暇である。風鳥もほとんど動かない。ほぼじっとしているようだ。時々岩を動かして転卵でもしているかのようだが、黒夜がいう事には、風鳥の卵は孵化するまで窪みを作った岩の中に入れられ、風鳥の作った培養液の中で育てられるのだという。卵の殻は鳥の卵のような硬さはなく、言わば蛙の卵のような感じなのだそうだ。だが動かないという事は、獲物を捕らえることも出来ないという事なので、風鳥が餓死してしまわないかと心配になるが、じっと気配を消して動かない風鳥の周りには、時々小動物がやってくるようで、それを素早く食しているらしい。産卵期だけの特性なのかどうかまでは黒夜も知らなかったようだが、アリジゴクや蜘蛛なども待つタイプの狩人なのだからそういう動物がいてもおかしくはない。
「そろそろ食料がヤバイな。」
伊吹は黒夜に話しかけた。持ち込んだ食料が底を尽きかけているのである。水は晴天ばかりではないので、節約すれば何とかなるが、さすがに風鳥のような真似は出来ない。
「伊吹が狩りをしてくればいいのラ。」
黒夜はこともなげに言う。黒夜の好物のちゅ~るるも残りは数本である。
「狩り? お前をここに置いてか?」
「そうなのニャ。なにか問題でもあるのかニャ?」
「そりゃあ・・・・」
「吾輩は大丈夫なのラ。今すぐ街に行ってカリカリとちゅ~るるを買ってくるニャ。」
「アホか? 町に行ってくる余裕なんかある訳ねえだろうが?」
「ちゅ~るるが喰いたい! ちゅ~るるが喰いたい! 腹いっぱい喰いたいのニャアアア!!」
「バカかおめえは! ちゅ~るるなんざ、仕事が終わってから腹いっぱい食えばいいだろーが!!」
「喰いたい、喰いたい、喰いたい、にょらああ! 伊吹、お前は今すぐ買いに行ってくるにょら!」
「バカ猫が、ダメだっぅってんだろが!」
「伊吹の馬鹿タレ下僕ぅぅ!!」
「・・・つったくぅ・・。」
伊吹は残り2本のちゅ~るるを開封すると、黒夜に食べさせた。黒夜はぺろりとちゅ~るるを平らげる。
「もっとぉ、もっと欲しいのにゃ。」
「もうねえ。なんて我儘なヤツ。」
「伊吹はケチンボにゃ! 伊吹のケチンボ!!」
「・・・・分かったよ。じゃあよう、おれが魚を取ってきてやるそれでどうだ?」
「・・・魚。」
黒夜はゴクリと唾を飲み込んだ。
「分かったニャ。それで許してやるニャ。今すぐ下の川まで行って魚を捕ってくるのラ。生は危ないから必ず火を通すのラ。それにニャ、もうお前が臭くて限界なのニャ。水浴びと洗濯もしてくるのニャァ!」
伊吹は黒夜の瞳をじっと見て、ため息をついた。
確かに髭を剃る訳でもないし、迷彩服もずっと着たままで靴もほとんど脱がない。暇なときはエコノミー症候群を避けるために運動もしているし、クロスボウの試射も繰り返して訓練している。
「分かったよ。けどよ、タヌキには気を付けろよ。風鳥は襲ってこないとしても、タヌキはチラホラ見かけるぜ。」
「ご主人様を心配するとは良い心掛けニャ。けど、心配はいらないのニャ。吾輩は単なる猫じゃニャいのニャ。」
「猫又だもんな・・。」
伊吹はじっと黒夜を見据えた。黒夜は何も言わない。ただじっと伊吹の眼を見てほほ笑んでいる。
「・・・・・じゃ、本当に気を付けろよ。」
伊吹はクロスボウを持って立ち上がった。
「どうしたんだろうね、ピンイン? あいつが陣地を離れたよ。食料が無くなったかな? こっちはまだ持つけどね。」
金の足元にピンインはいない。金は地面に向かって語り掛けている。
そこにはピンインの死骸が埋まっている。食料は金たちの方がずっと先に尽きた。伊吹たちと違って、彼らを追って潜んでいる彼らは、片時も目を話すことはできない。伊吹たちの行動パターンは2~3日で把握できたので夜は眠る事は出来たが、彼らが何を見張っているのか見当もつかなかった。彼らが見張っている物が見えれば、ある程度の予測は出来ただろうが、彼らは岩を見ているだけのように見えた。それだけに動くことは叶わなかった。伊吹が陣地から出ている時は見つかる恐れがあったし、陣地に籠っている時はいつ動き出すか分からないからだ。交代もなしにずっと見張りを続けるのは過酷以外の何物でもない。金も相当消耗していた。それでも金は周りの葉を食べ、昆虫を食べ、泥水をすすっては生き延びている。やがてそれも限界かもしれないと感じた時、金は決断したのである。
「ピンイン。これが最後の干し肉だよ、お食べ。」
一昨日、ピンインに最後の干し肉を与えた金は、スタームルガーでピンインの後頭部を撃った。ピンインは鳴き声一つ上げることなく金の足元に横たわった。金はピンインの死骸を抱いて泣いた。声は無いが、目から落ちる水はたゆまず流れている。言わば声なき慟哭。冷酷なこの男も涙を流す事があるのだ。やがてピンインの体温が少しづつ失われ、口から流れていた血が止まるころ・・・・金はようやく泣き止んだ。顔がいつもの金に戻っている。涙の痕でメイクが少し剥がれてはいるが、感情と言うものが欠落した表情をしている。
金はピンインの首輪を外してポケットに入れると、自分の足元をさらに深く掘った。ピンインの死骸を埋めて腐敗を遅らせ、食料とする為である。
カァー カァー
「ち・・。」
ピンインの腐臭にでも気が付いたのか、数羽のカラスが近くの木の上で鳴いていた。この場所を離れれば、カラスに食料を荒らされる心配があったが、今は食料よりも伊吹の動向である。
藪を降りてゆく伊吹を見て、金はわずかに迷ったが、伊吹の後を追う事にした。このまま陣地を張り続けても別の場所に移動されれば伊吹を見失ってしまうからだ。もしこれがヤツのハントだとしたなら、近距離からスタームルガーで仕留めればいい。どうせ相手はズブの素人なのだ。金の口元が怪しく歪んでいた・・。