風 鳥 鬼 ⑤
伊吹は昔、猫を飼っていたことがある、幸福な時期と不遇な時期と。
最初の仔は両親とともに、あの日津波に飲まれて死んだ。遺体は見つからなかったが、2度と伊吹の元へは帰って来なかった。2匹目は野良猫である。飼っていたというより、友達みたいな猫だった。
震災の後、伊吹は関東へと引き取られた。
二度目の養父はひなびた団地に住まい、父も母も他人の子供になど、何の興味もなかったのだ。強いて言うなら実の子供にも興味がなかった。二人ともアルコールとギャンブルの依存症で、完全なネグレクトだったのである。ならばなぜ伊吹を引き取ったかと言えば、伊吹の両親の遺産が目当てだった事は言うまでもあるまい。
伊吹がグレはじめたのはこの養父母の子供の卓也の影響が大きい。伊吹は体も大きいし、小さいときから格闘技を習っていたこともあって、卓也の用心棒のようなことをしていた。半年もたつと、地元のワルの間では知らない者が居なくなった。なんとか二人とも高校にはいかせてもらったものの、両親の依存症は日ごとに悪化し、収入も途絶え、伊吹の両親の遺産も食い尽くし、やがて二人は高校を辞めさせられた。
もっとも、それ自体は二人にとって然したる出来事ではない。
伊吹はもはや学校には通ってなく、風間という元ヤクザの自宅にずっと入り浸っていた。この元ヤクザはいわば武闘派で、ひょんなことで伊吹と知り合い、伊吹を目にかけるようになった。今は自分のボディガードのようなことをさせている。キックボクシングのジムを経営していたこともあって、伊吹もそこに入り浸って練習に励んでいた。いずれは格闘家として世に出したいという思いが、この元ヤクザにあったのかもしれない。
一方、その頃の卓也は、こちらもヤクザのパシリのようになっていて、ヤクの売人や振り込め詐欺の受け子をやって日銭を稼いでいた。しかしその卓也もやがてクスリに溺れ、ある日団地の近くの川に浮いているのが見つかった。殺されたのではないかと言う噂もたったし、警察も捜査したようだが、完全に事故死だったようだ。
卓也が死んだ翌日、養父母が家から消えた。何の前触れもなく、手荷物だけを持って消えてしまったのである。
その理由はすぐに分かった。ガラの悪い男たちが、ドアを蹴り飛ばして喚いていたからである。ドアを開けた伊吹にも男たちは借金を返せと喚いたが、伊吹には手が出せなかった。風間を知っている男がいたからである。
「今回だけはおやっさんの顔をたててやる。けど、このままで済むと思うなよ。」
闇金の取り立て屋が残した捨て台詞である。
卓也の通夜に伊吹はたった一枚の写真だけになった卓也と一緒に団地に居た。生ごみの袋が台所に放置してある。腐った生ごみの匂いが、部屋の窓を開け放っても消える事は無かった。すでに電気も水も止められ、部屋の中は真っ暗である。
「タク。お前はこんなところにずっと居るのか?」
ただ無性に空しかった。仲が特別良かった訳ではない。それでも数年の間一緒に暮らし、つるんで悪さした仲間だった。
伊吹は卓也の写真を伏せると、急に立ち上がった。そしてサンダルを履いて玄関を出る。チェーンのついた長財布には2千円くらいは入ってたか・・・コンビニでビールと魚肉ソーセージを買い、堤防を降りて橋の下に行く。2週間前までホームレスがいたが、地元の高校生の一団になぶり殺しにされた。
今は主のいないビニールシートの小屋が残っているだけである。その小屋は橋の街頭で照らされてはいるもののかなり薄暗い。小屋の前に立って、伊吹は猫の名を呼んだ。
元の飼い主はすでにこの世にいないのだ。普段は何を食って生きているのかよく分からないが、伊吹は時々やってきては、エサを与えている。ペット用のエサだったり、ソーセージだったりと、与えるものはまちまちだが、その猫は伊吹に懐いていた。メスの三毛猫だが、ひどく痩せていた。
「ニャーー・・・。」
伊吹がその小屋に近づくと、ミケのか細い鳴き声が聞こえた。
「ミケ。生きてたか?」
伊吹の顔が綻ぶ。
魚肉ソーセージを小さく割り、ミケに与えると、ミケは余程腹を空かしていたのか、貪るように食べた。
半年前。何の因果か、伊吹はホームレスのじいさんとひょんなことから知り合いになり、時々ここにやってきていたのである。
卓也の死は虚無であり、養父母の失踪は必然だったが、ホームレスのじいさんの死は後悔だった。
前から高校生の一団に嫌がらせを受けていたことは伊吹も知っていて、いずれシメてやろうと思ってもいたのだ。爺さんが殺されたあの日、伊吹は風間と一緒にとある地方都市に行っていた。試合があったのである。伊吹は3位決定戦に敗れはしたが、風間は上機嫌だった。伊吹が爺さんの事件を知ったのは帰ってきてからの事である。
もし、あの日・・自分がこの土地にいても事件は防げなかったかもしれない。自分を責めているわけではないのだが、なんとなく後ろめたいのである。そのせいもあって、生き残ったミケにエサを与えているのかもしれない。
缶ビールのプルタブを開ける音に、ミケは一瞬ビクリとした様子だったが、今は残りのソーセージに貪りつく方が大事らしい。
「お前も一緒に逝くか?」
伊吹自身も思っていなかった言葉が口から出た。ミケは顔を上げ、じっと伊吹を見つめる。ちょっと考え込むような素振りにも見えた。しかしちょっと首を振ったように見えたミケは、残りのソーセージをまた食べ始めたのである。
「馬鹿な・・。オレは何とでもなるさ。どうして・・」
涙がこぼれた。
ふと大声で叫んで、泣いてしまいたい衝動にかられた。
その時、ソーセージを貪り食っていたミケが膝の上に乗ってきた。じっと伊吹の顔を見つめている。痩せて今にも死にそうな猫が伊吹を心配そうに見つめているのだ。
「・・・わかったよ。」
伊吹はミケの背中を撫でた。ごつごつした背骨が伊吹の手のひらに当たる。それでもミケは上機嫌なのか、胡座をかいて座っていた伊吹の股間にごろんと丸くなった。
つられた訳ではなかろうが、伊吹もそのまま眠ってしまっていた。
朝の陽ざしにまぶしさを感じて目を覚ました時には、ミケはもう伊吹の元にはいなかった。
そして、早朝だというのに、伊吹の携帯が鳴った。
「はい。タケルです。」
「おう、タケ坊。悪いんだがよ、すぐにオヤジの所に来てくれ。少しまずいことになった。」
風間の舎弟の東海林からである。言わば”兄貴分”と言ったところであろう。
伊吹は重い腰を上げて、堤防を上った。そこで、彼は見たくないものを見たのである。
ミケが死んでいた。
車に跳ねられたらしい。口から流れた血が乾いていた。
「・・・俺は死神かよ・・。」
空が暗くなってきた。
朝の天気から考えると、晴れかと思われたが、天候は下り坂のようである。
伊吹は朝からほぼ歩き詰めである。鍛えているとはいえ、太ももと脹脛が張ってきている。おまけに荷物の他に、今は黒い猫のような妖怪までバックパックの上に居る。
「そーれ、下僕ぅ。頑張るのだ! もうすぐ着くぞぉ。」
黒夜はお気楽に話しかけてくる。ここに他人はいない。ハイカーや登山者と出会うかとも思ったが、不思議に誰とも会わない。獣道がほんの申し訳程度に人間の歩く道になったような登山道だけに、それほど人気のない山なのかもしれない。
伊吹は登山を趣味にしている訳ではない。けれど、山歩きは好きだった。自衛隊に入ってからの訓練では山岳地帯の縦走などもやらされたが、それは苦ではなかったし、自然の中にいることは、怖くもあったが気持ちが楽にもなった。
「お前ェなあ。少しは自分の足で歩けよな。まったくまだ若いんだからよ。」
「にゃ~~ん。吾輩はまだいたいけな子猫にゃん。もう歩くのは疲れたニャん。」
「な~にがいたいけな子猫だ。」
そのときふと、伊吹は思った。
猫又という妖怪は、普通年を経た老猫が妖怪になるものだと聞いている。黒夜はいったい幾つなのだろう。見た目は生後1年にも満たない若い猫のように見える。普段尻尾は1本だが、今は見事に二つに分かれ、代わる代わる舐めているようである。
「ところでよぅ。お前、いったい幾つなんだ?」
「生後6か月ニャのら。」
「嘘だろ、それ。猫又ってのは、年をとった猫が妖怪になるって聞いたことあんぜ。」
「妖怪じゃないのニャ。吾輩は鬼界の生き物なのら。向こうでは猫じゃなく、ネル族と呼ばれているニャ。」
「ネル族?」
黒夜は少しの間、沈黙した。
「・・・・・尊よ。死ぬって何なのラ?」
「え?」
突然、黒夜が”お前や下僕”ではなく、伊吹の名前を呼んだ。
「・・そりゃあ・・死ぬってのは息をしなくなる。心臓が止まる。脳が働かなくなる。そういうのが死ぬことだろ。死んだらもう二度と会えなくなるな。」
伊吹はふと、ミケを思い出した。
「吾輩の一番古い記憶は、300年くらい前の事ニャ。その頃の日本人は本当に貧しかったのにゃ。」
「お前、こっちで生まれたの?」
「よく分からないのラ。ネル族は肉体が無いと言われているのラ。こっちで言う猫の形をして生まれるけど、猫として普通に死ぬのニャ。そして死ぬとすぐに転生して、また猫として生まれるのニャ。吾輩はずっと黒猫にゃけどニャ。」
「じゃ、猫又の伝説はお前が作り出したって訳?」
「あほ。普段の尻尾は1本なのら。能力を使う時だけ二本になるニャ。お前は吾輩の下僕ニャから、本当の尻尾を見せてるだけにゃ。」
「じゃあ、今の前の前世はどこに居たんだ?」
黒夜は不機嫌になったのか、黙り込んでしまった。
伊吹は沈黙のまま山道を歩く。崖にロープを張った手すりのある桟道に差し掛かった時。
「幸せだったにゃあ・・。」
黒夜がポツンと呟いた。
伊吹からは見えなかったが、黒夜はきっと涙を流していた。
ポツン・・と雨粒が頬に当たった。
「やばい、振ってきやがった。少し急ぐぞ。振り落とされるなよ!」
バックパックの上に居る黒夜に伊吹が言う。
伊吹は帽子被り、顎ひもを顎にかける。風で飛ばされないように、雨が目に入らないようにするためである。遮るもののない崖の桟道では、いきなり吹かれた風で帽子が飛び、雨で視界を遮られるからだ。
伊吹はピッチを上げた。体が上下に揺れる。黒夜は爪を立ててバックパックにしがみつき、絶妙なバランス感覚で振動を緩和している。
大岩を回り込むと、桟道が途切れ目の前にバラック小屋のような物が見えた。トタンで囲われた小さな小屋のようだが、人は住んでいないらしい。
一瞬、雨が途切れ、涼しい風が吹く。
「良かったニャ。お前は歓迎されたみたいニャ。」
「歓迎? 誰に?」
「この山の神様ニャ。目の前に社があるのラ。」
伊吹の眼にはどうみても、神社には見えなかったが、よく見ると細い注連縄が張ってあり、日に焼けた紙垂が数枚ぶら下がっている。
伊吹は恐る恐る小屋の扉を開けて中に入った。
正面の岩のくぼみに、小さな祠があり何かが祭られているようである。
「挨拶するのラ。お礼を言うのを忘れるニャ。」
伊吹は黒夜に素直に従った。そこが伊吹の良いところでもある。
お参りを終えた途端に、屋根に当たる雨音がすさまじい勢いで鳴り響いた。
『ああ、これの事か・・。』
伊吹は神仏を信じている訳ではないが、得体のしれない何かがあるだろうとは思っている。自分が今、生きているのも何かの縁であるとしか考えられなかったからだ。それに最近、異世界の住人とも関りが出来た訳だし。雨に打たれなかったのが、黒夜の言うこの社の神様のお陰なのかは分からないが、少なくとも雨に当たらなかったのは幸運だった。まだ秋とはいえ、雨に打たれれば体力が消耗する。下手に野宿すれば凍死もあり得る。
「今日はちょっとはやいが、ここに泊めてもらうにゃ。」
黒夜はバックパックから降り、ひたすら体を舐めている。わずかの雨だったが、二人とも体が濡れている。
「黒夜。入るか?」
胡座をかいて座った伊吹はバックパックを降ろし、上着のボタンを外していた。黒夜は丸い眼をして伊吹の眼を見つめた。
「・・・・男くさいのは嫌ニャンらけど・・・。」
黒夜は伊吹の懐に潜り込んだ。黒夜の冷たい毛の感触が肌に触れる。それも少しの間だけで、すぐにお互いの体温で温まった。黒夜は少し震えていたようだが、体が温まってくると落ち着いたようである。妖怪かもしれないが、体はただの黒猫である。長時間の移動はこの体にも堪えただろう。やがて薄く寝息が聞こえてきた。
「よく寝る。ネコとはよく言ったもんだな・・・。」
伊吹は微かに笑いながら、高カロリー食品を頬張った。
「ゆうちゃん・・会いたいにゃあ・・。」
黒夜の寝言だった。
雨は激しさを増していた。
大岩の陰に小さなくぼみがある。そこにもまた、一人と1匹が佇んでいた。
黒いフードのレインコート・・シートにすっぽりと身を包み、しゃがんでいる男。その股の間には1匹の犬が伏せ、互いの体温で体を温めている。
男は懐から干し肉を取り出し、ちぎっては犬と半分ずつ食べる。本当なら伊吹たちにここまで近づきたくはなかったのだが、あまり離れると雨で匂いが消えてしまって追跡できなくなる恐れがあった。
伊吹たちが居る小屋からこちら側は死角になって見えないものの、いつ感づかれるかわからない。それでも雨が男と犬の気配をかき消しているから、気付かれはしないだろうが・・・。