104話 ウサギは戸惑い飛び跳ねる
フーデは戸惑っていた。なぜ罪を犯した自分がこんなことになっているのか理解できない。
そっと指に水滴をつけて、ピンと弾く。ピチョンと音がして、水の弾ける音がして、弛緩した息を吐く。
湯気が部屋に充満しており、温かな湯により身体の疲れが溶けるように落ちていく。
「銭湯というものは良いものですね」
「抜け毛だらけになっちゃうから掃除大変だけどね」
にゃーんと隣で浸かっていた濡れ猫となっているチャシャさんが話しかけてくるので、たしかに獣人が入るには抜け毛が多すぎて、ちょっとお風呂の掃除が面倒くさいと笑ってしまう。
今のフーデは王都1の商会、ブックス商会の跡とりであった前途洋々の新進気鋭の若手商人フーデ・ブックスではない。王都にてイーマ王国の軍を手引きした犯罪者の娘でもなく、奴隷でもない。すぐに奴隷から解放されて、アリスシティの会計を任されている文官となっている。
奴隷となったのは僅かに1週間であるが、今まで贅沢に暮らしていたフーデにとっては最悪の場所であった。男女同室ではなかったので、身体を汚されることはなかったが、それでもブックス商会の跡とりだったのは他の女奴隷には広まっており、食事を抜かれるのは当たり前、殴られるのは普通であった。女奴隷たちも売国奴だと、愛国心もないくせに正義を振りかざすフリをして容赦しなかったのである。
きっとあのままあそこにいたら死んでしまっただろう。アリスシティに運ばれた際は処刑されるのだろうとも考えていた。遅かったのだ。父さんを当主からひきずり落とすのが。そしてアリス様たちの動きがあまりにも早すぎた。
自身の行動のツケを払う結果になって、一族郎党奴隷落ちとなってしまった。慚愧の念に襲われたものだ。ブックス商会の一族郎党は多い。子供も少なからずいたのだから。
銭湯というものは身体を綺麗にするためにあるらしく、広々とした湯船、高級な石鹸に、シャンプーという毛を洗う専用の石鹸さえも惜しげもなくタダで使えるように設置されている。
アリス様はなぜか普段汚い格好をしていると、おふろに入ってくださいと命令してくる。綺麗好きなのかと思えば、汚れた格好だと治安が下がるんですと意味不明なことを口にする。アリス様の信じている教義だろうか?
このアリスシティの住人になったら力が大幅に上がったし、その時に聞こえた声。赤竜が変化したオズ様は頑なにアリス様は受肉した女神であり、今は信仰心を集めて力を取り戻しているんですと声高に言い続けているが。
「これ、私は良いんですかね? たしかに財産は没収されましたが、すぐに奴隷から解放されましたし」
「いいんじゃないかい? アリスの考えていることはよくわからないことばかりだけど、今のあたしは神殿騎士で幸せだしね」
レイダさんが肩までお湯に浸かり眠そうな声音で言ってくる。
「そうだよね! 私はこの街に家族を呼ぼうと考えているの! ここの魔法の畑は苦労しないで収穫できるし」
凄いよねと、ニャンニャン踊りをしながら満面の笑みのチャシャさんが幸せそうな表情をして、あたしもそうする、私もよと大勢が同じことを口にする。元は食い詰めた傭兵団とは名ばかりの半端な狩人みたいな真似事をしていた人たちだ。大出世をしたのだから、有頂天になるのも当たり前だ。
そうですねと、笑みを浮かべて、お先にと告げて湯船を出る。火照った身体を冷やしながら着替えると外に出る。もう陽は落ちてきて、暗くなっているが、街灯が道路を照らし、酒場からはしゃぐ酔客の騒ぐ声がしてくる。
全然酒場が足りませんねと、アリス様が増やしたからだ。
ここは僅かに1か月で作られたアリスシティ。魔道具の明かりが夜を消し去り、食べ物を腐りにくくする冷蔵庫があり、井戸で水を汲まなくとも、蛇口と言う物を捻れば冷たい水がいくらでも湧き出てくるのだ。
正直言うと歪な街である。1か月で作り上げた街はまるで箱庭のように普通の街のような成長をしていない。
普通は開拓民が数年間荒れ地を耕して、ようやく農作物が収穫できるようになったら、辺境を専門としている行商人が顔を出す。開拓民は現金などほとんど持っていないし、稼ぎにはあまりならないからだ。
そうして、次は農家兼酒場ができる。宿屋なんてもちろんない。なにしろ客が来ないからだ。行商人などはだいたい村長の家に泊まる。
そうして特産品などが数年後にできれば、商人が集まってきて、ようやく宿屋が。街壁ができて、街が大きくなっていく。無論のこと、全てが上手く行けばの話であり、だいたいの開拓民の村は酒場ができた時点で発展は終わり、貧乏村として存在していくことになる。最悪は魔物のスタンピードにより破壊、盗賊の襲撃により離散。そして最悪なことはしばしば発生していた。
だが、この街は全てが常識からかけ離れている。既に人口は1万人を超えて……1か月で。立派な港はあるが船はなく、食料品店もなく、雑貨屋も武器屋も鍛冶屋も……無いものをあげるとキリがない。グリム商会の店がドテンとあるだけだ。
……そして白亜の城がある。よくわからない。たしかに神のやることらしいかもしれない。手のひらの中で玩具を扱うように、街を作っているのではなかろうか。
この街の頂点であるアリス様の態度もそうだ。奴隷から私を解放したのは情けをかけてくれた訳ではない。なにか、アリス様、そしてケーマ様だけがわかることで解放してくれたらしい。
皆は感動して涙を流していたが……。私も感謝の気持ちはあるが釈然としない。信仰心……それだけが必要なのだろうか?
懐にある小袋を握りしめると、チャラリと銀貨の音がする。既に前払いで給金を貰っているが……金額が適当だった。金貨で渡してきたのだ。まったく貨幣としての価値を見ていないように。手渡された時に、金貨ってチャラチャラと音は良いですよねと、それだけが興味があるように。
誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化せそうだった。が、私たちには見えない何かが見えているのだろう。何度か賃金の確認をしたところ、それだと幸福度が上がりませんね、それだと高すぎですねと、何度か確認をして、解放した奴隷に渡すには大金すぎる金額を決めたのだ。
なにかアリス様だけがわかる基準があるらしい。ケーマ様には汚職をすればすぐにアリスにはわかるから気をつけるんだと、ニヤリと凄みのある笑いで忠告されたが、たぶん真実なのだろうと悟った。
「あ〜、へんてこな人生を歩むことになりそうですね」
生乾きの髪を触りながら自宅に帰る。今の自宅はアパートとかいう屋敷だ。多くの人々が住めるように、いくつもの小さな部屋があり、正直見かけはみすぼらしいが、水の魔道具や冷蔵庫という魔道具、灯りの魔道具が設置されている。
「お帰りなさい、フーデ様」
アパートの前には子供たちが集まっており、なにかをして遊んでいたらしい。
「今日も良い子にしてたよ」
「何かお土産ある?」
「ケンケンパー一緒にする?」
ワイワイと集まってくるのは皆兎人の子供たち。すなわち、ブックス商会の一族郎党である。この間まではそこそこ贅沢な暮らしをしていたのだが……大丈夫そうで安堵する。
「今日も元気にしていましたか? なにかありました?」
なにもないよという答えを期待していたのだが、予想外の返答が返ってきた。
「アリス様がたくさんお菓子持ってきてくれたの!」
「甘かったよ!」
「これでこーふくどはまんたんですねとかいってた」
キャッキャッと嬉しそうに子供たちは言ってきて、お姉ちゃんに残しておいたよと手渡されたのは黒いクッキーであった。
なにこれ? と首を傾げて手渡されたクッキーを眺める。焦げているわけではない。ツルツルとした触感に、甘い香りもする。
「とっても甘いんだよ!」
「ちょっと苦いよ!」
「サクサクしてるの!」
「アリス様が一番食べてた!」
早く食べてと、ワクワクした表情で言ってくるので、食べても大丈夫なのだろうかと、端っこを一口齧り……その味に目を見開く。
「なにこれ? 甘いですよ? 苦味もありますが焦げているとか、そういった苦味でもないです。……外大陸からの輸入品ですね」
食べたことのない味だ。こんなのを気楽に子供たちに渡してくることに驚きと諦めが心を襲う。
驚きとは気軽に渡せるほど、外大陸では普通に流通しているものなのだろうか。こちらでは銀貨で買わないといけない価値があるだろうに。
諦めとは、最初から勝負にならなかったということだ。明らかに物量も財力も違う。一介の商会が敵にしてはいけなかった相手であったのだ。
自分のかつての判断の無さに、呆れさえ覚える。経験にするには痛い目にあいすぎた。
「はぁ〜。竜の巣穴に忍び込んだ愚か者になるとは思いませんでしたよ」
嘆息しつつ、クッキーをありがとうと子供たちの頭を撫でて、アパートの中に入っていく。
「まぁ、一掴みの財宝は手に入れたみたいですがね」
ふふふと薄笑いを浮かべる。
アパートの中には大勢の兎人がいる。このアパートはブックス商会の一族郎党だけが住んでいるのだ。
「お帰りなさい、フーデ嬢様。で、上手くいきましたか?」
全員が揃える場所がアパートには用意されており、まぁ、食堂だ。厨房もあり、そこで食事をとる。
そこには主要な人物が揃っていた。商会の元商人たちでもある。読み書きはもちろんのこと、商人としてバリバリに活躍していた人たちである。
「隠し金は回収できました。これでようやく仕入れができますし、商人として活動して良いとアリス様から許可を頂けました」
密かに万が一の際に用意しておいた隠し金。森の目立たない猟師小屋に扮した小屋の中に隠しておいた金を無事に回収できたらしい。
「奴隷になった時は、隠し金の回収すらできなかったですが、どうやらまだ運は尽きていないようですね」
にやりと笑う。アリス様から商人として活動して良いと許可を得たといえば、トーギ王国も文句はいえまい。人材不足の街だとはバレているのだから、アリス様たちが奴隷から解放して上手く使うつもりだろうとも思われるはず。
「商人が増えたらその分税収も増えますしと、快諾してくれました。どうやらグリムはあれもこれもと手を出すので、手が回っていないようです」
「でしょうね。アリス様の商品は多種多様。一介の辺境商人じゃ、荷が重いです。ふふふ、これから再び私たちは復活しますよ、フェニックスのように!」
「おぉ〜!」
「再び王都1に!」
「いや、王国1に!」
フーデ・ブックス。転んで奴隷になっても、へこたれずに商会の再興を目指して、手を掲げて誓う。
新たなる未来を信じて、兎たちはぴょんぴょんと飛び跳ねるのであった。




