退魔のできない退魔士と、ランドセルの似合わない吸血姫
雪の降る道を、僕は歩いている。
その先にある釣具屋を眺めて懐かしい思いをした。今は亡き祖父と、春には鮎の友釣りをしていたものだ。
友釣りというのは餌の替わりに鮎をつけ、他者の縄張りを荒らさせる。そして体当たりをした相手を針に掛けるという漁法だ。
過去の思い出に浸っていた時、信号は青に変わる。そこを小学生たちが元気に渡ってきた。冷たくても雪が嬉しいらしく、みな笑顔だ。
微笑ましい光景だが、僕の視線は後ろの女の子に吸い寄せられる。
その子だけ浮いている気がしたのだ。ランドセルを背負っているが、まるで似合っていない。
「あの子……」
そう呟くと綺麗な瞳がこちらを向いた。
白雪姫でこんな表現があったか。雪のように白い肌、黒檀のような黒髪、そして――血を垂らしたような赤い唇、と。
明るく響き渡る声のなか、僕らは交差をする。
「珍しいな、吸血鬼か」
そうポツリと呟いた。
相手はわずかに足を止め、僕はただ歩き続ける。
日中を歩くような者だ。もし襲われたら為すすべはない。退散しよう。
買い物を終え、帰路についていたとき何者かの気配を感じる。
寂しい道を歩いていた時に、背後から声をかけられた。
「こんな人気のない場所に誘い出すなんて。ふふ、私に勝てるとでも思っているの?」
「え、ここは僕の家だけど?」
ガチャリと鍵を開けながら返事をした。
今の何が駄目だったのか分からないけど、その子は妙なポーズのまま動かなくなった。
「えーと、天気も悪いし、良かったらあがって。お茶とお菓子くらいなら出せるから」
「この私を招待するですって? あなた面白いことを言うわね」
「あ、じゃあいいです。僕の方が通報されそうだし」
面倒なのでピシャーと閉じると、玄関の外にパタパタと足音が響く。あの子が走ってきたらしい。
「バカ、私を誰だと思っているの!」
ピシャーと開けられてしまったよ。
最近の吸血鬼は元気だなぁ。
古びた居間は僕のお気に入りだ。こたつがあり、ストーブが空気を暖め、そして気まぐれな猫がたまに遊びに来る。
彼女は周囲を眺め、お茶を置いた僕に気づく。
「あなた、変わった家に住んでいるわね」
「祖父が残してくれた所だからね。まあ君の方がずっと変わっていると思うけど。羊羹とどら焼き、どちらが好み?」
「……羊羹にしておくわ」
片方を手渡すと「ありがとう」と礼を言われた。
近くで見ると瞳が大きい。幼いころに読んだ童話のような雰囲気の子だ。
「本当に戦うつもりは無さそうね。意味ありげに『珍しいな、吸血鬼か』と言ったのは何だったのよ」
「え、吸血鬼は珍しいから、つい声に出しただけだよ」
はあっ?と呆れられたけど、羊羹を口にしているので文句を言えない様子だ。意外に美味しいわね、という顔をした彼女に説明をする。
「血筋のおかげで見る力はあるけど、退魔術を教えてもらう前に祖父は他界してしまった。だから戦うなんて無理かな」
賄賂じゃないけど、僕のおやつも彼女にあげる。当然のように吸血鬼はどら焼きを手にした。
「……その退魔士の名は?」
「流鏑馬 石嗣。たぶん有名な人だったと思う」
「ふうん。かなりエグい術を使う事では有名だったわよ」
「知っていたのか。どんな退魔術?」
「あら、この私が教えるとでも思って?」
どら焼きの分は答えてやったと言うように、ぱくんと小さな口で頬張られる。
そりゃそうだ。相手は吸血鬼であり、わざわざ退魔の術を教えてくれるはずは無い。
「ごめんね、遅い時間まで引き止めて」
「だからといって私を送る必要は無いと分かりなさい。訳あって小学校に通っているけれど、夜道に怯えたりしないわ」
そう呆れた口調で返された。
はて、彼女はなぜ小学生として過ごしているのだろう。しかし答える気は無さそうなので、諦めて違う質問をする。
「いつから血を吸っていないの?」
「見た目と違って鋭いわね。春の始業式からずっとよ」
つんとそっぽを向きながら、そう答えてくれた。
血を吸わないで済む吸血鬼などあり得ない。それを耐え、さらに日中も歩けるのなら――。
「ええ、私は始祖にかなり近いわ。……何よ、もう少し怖がる顔を期待したのに」
「どちらも僕にとっては勝てない相手だからねぇ」
そう答えたけれど返事は無く、代わりに生暖かい息が首筋に絡みついてくる。
慌てて振り返ると……黒髪の頭がそこにあった。
――血を吸われてしまう。
ゾッとした。
しかしそれと同じくらい、ちゃぷりと唇から吸いつかれたのを恥ずかしく思う。
八重歯が柔肌に触れ、ふううと息を吹きかけられる。背中に押し当てられた感触も――背徳感がすごいです。
「さあ、そろそろ怖がる顔を……って、どうして赤い顔をしているの? あっ、こら、誤解しては駄目よ。しがみつかないと届かなかっただけで、く、唇だって別に……」
「そう恥ずかしがられると、僕のほうが恥ずかしいかな」
「は、早く降ろしなさい、バカ!」
頭を叩かれ、仕方なく身をかがめる事にした。
長生きしているぶん精神的には大人だろう。しかし袖を引かれて振り返ると、怖がらせるのを失敗したバツの悪そうな顔があった。
「さ、先ほどのことは忘れなさい。分かったわね?」
などと頬を染めた様子は可愛らしく、つい頬が緩んでしまう。
「だから誤解しないでと……あっ」
「ん、まさか……」
おっと、これは大変だ。
少女が言葉を止めたのと同時に僕も緊張をする。近くから魔物の存在を感じたのだ。
「退魔も出来ない退魔士は、もう家に帰りなさい。ここは私の縄張り。あなたには関係の無い話よ」
そう大人びた表情で告げ、彼女は去ってゆく。
すぐに暗闇にまぎれ、姿は見えなくなった。
「……ここでお別れは寂しいな。あの子が滅びてしまうのも可哀想だ」
彼女は間違いなく強者だ。
しかし「目」だけを鍛えている僕は、相性の悪い相手だと知っている。
あの子は魔物と呼ぶには可愛らし過ぎる。だから逃げるという選択は選べなかった。
はーはーと荒い息で少女は夜道を歩く。
肩をぶつけると、ズズと壁に血は広がった。
「吸血鬼という古い種族は、いずれ滅びる運命ね。あ、ランドセルが……まあ良いわ。どうせ学校にはもう通えないし」
「きっと通えるし、荷物もここにあるよ」
ピタリとその子の足は止まった。
そして道の先で待っていた僕へと瞳を向けてくる。
「追われている最中なのに何故ここへ来たの?」
勿論その存在にも気づいている。
正直、立っているだけでおっかないよ。
「君を助けようと思って」
しかし返事はランドセルをむしり取る動きだった。
「家に帰って、今夜の事を忘れなさい」
「君を助けようと思う。あまり乗り気じゃないけど放って置けないから」
助言を無視し、先ほどと同じ言葉を伝えると彼女は振り向く。
「術も使えないあなたがどう助けるつもり? 言ってみなさい。もしふざけた事を言うなら、その役立たずの耳をもぎ取るわ」
放たれた殺気を、僕は飄々と受け流す。
人間社会には小学生の子より怖い人が沢山いるんだよ。
「君が弱いのは血を吸っていないからだ。なら僕の血を飲み、力を取り戻せば良い」
「退魔士が血を与える? 馬鹿言いなさい。それと残念ね、あなたの命も終わりみたい。追いつかれてしまったわ」
そうならないよう協力してくれないかな。
身をかがめ、膝をつきながら囁きかける。
僕はね、君を気に入ったんだ。人を襲わない吸血鬼というのは、退魔士になれなかった僕にとって救いだよ。魔物が人を襲わないのなら、退魔士になる理由もありはしないからね。
そう伝えると、彼女はゆっくりと瞳を見開く。
「あなた、術のことを何も知らずに誘ったのね。とぼけているのかと思ったわ」
「ん、誘う? それはどういう……」
言いかけた所で小さな身体を預けられた。
戸惑う間もなく、鋭い牙からサクリと首を噛まれる。
正面から抱き支えながら、己が吸われてゆくのを感じる。命が細くなってゆく不思議な感覚だ。
気づけば、ボヤけた視界一杯に美しい顔があった。
「いいわ。一度だけあなたに協力してあげる。ただし金輪際、話しかけないで頂戴」
どういう意味かと尋ねることは出来なかった。
ドクリと心臓が跳ね、立っていられないほど体温が上がってゆく。
「吸血鬼化!? こんなに早く成るはずが……」
「ええ、感染させていないから別物よ。耐えなさい。堪えなさい。そしてあなたの名を私に告げなさい」
何を言われているのか分からない。
視界はぐらぐらと揺れている。己の首に触れてみると、ぬるっとした感触があった。
指についた血は、赤い糸となって絡み付いてくる。
その先を目で追うと、少女の華奢な首筋と繋がっていた。すぐに首輪のような刺繍に変わり、また異なる変化が訪れる。
ぐぐ、と身体は女性的に盛り上がる。はちきれそうな胸を両腕で抱え、その身体は白と黒を基本としたドレスで包まれてゆく。
黒髪の上に王冠らしきものが乗り、ぱっと周囲は輝いた。
「私は藤咲 ルビイ。あなたの名は?」
「や、流鏑馬 葵」
ピン、と糸で繋がる感覚があった。
今にして思うと、祖父はあえて退魔術を教えなかったのでは無いだろうか。
彼は魚釣りを趣味とし、えげつない術を使っていたらしい。
いま縄張りを主張する者たちがやって来た。操り糸をつけた吸血鬼――この姿では吸血姫と呼ぶべきか――をめがけて襲いかかる。
これは、この退魔術は……。
「鮎の友釣り、か……」
少女と共に魔物と向き合いながら、そう呟く。
ゴオッ、と強い風に吹かれた気がした。