赫キ大陸 ―不死なる皇帝と狂乱の獅子―
弟に、王位を奪われた。
最愛の妻と息子を病で亡くし、酒に溺れた弱さが招いた事態だ。
『私が尊敬した《狂乱の獅子》は、もういない』
四十の誕生祝いの宴席で呆然と酒瓶を握りしめている俺に向かい、反乱軍の先頭に立った弟は、冷ややかに笑った。
『見苦しい酔いどれめ。死ね!』
俺は逃げた。
俺が育てあげた軍団、かつては共に戦った精強の男たちの追跡から必死に逃れた。
物乞いに身をやつし、便所にもぐって糞にまみれながら息をひそめたことさえもあった。
自ら死ぬ気は、なかった。それならば、あの日、妻と息子が腕の中で息絶えたときに、共に逝っていた。
だが、無様に生きながらえてまでこの世に何を望むのかは、分からなかった。
やがて、ひとつの報せが大陸じゅうを揺るがした。
これまで闇に潜んできた《吸血鬼》どもが、続々とその数を増やし、大陸の西の一角を切り取って国を建てたというのだ。
吸血鬼どもの中に、昼の光の下を平然と歩く特異体質の者が現れ、他の化け物どもを指揮して一大軍勢をつくりあげたという噂だった。
《帝国》を僭称する化け物どもの勢いは凄まじく、近隣の人間の国々は次々と併呑されていった。
そういった地方では、これまでには考えられなかった光景が見られるようになった。
日除けのはられた通りを闊歩し、店に出入りするオーク、ゴブリンの兵士たち。
怯える人間の娘をからかう人狼の一団。
そして宵闇が降りれば、気取ったマントをひるがえして馬車から降り立つ、赤い目の吸血鬼ども――
「おい、そこの者!」
夜の大通りで鋭い声が飛んできたとき、それが自分に向けられたものだと、すぐに分かった。
見破られたか、追手に?
この化け物どもの帝国にまでは、弟の配下も踏み込んではこないだろうと思っていたのに――
「そう、貴様だ」
ゆっくりと振り向いた俺の目に映ったのは、横柄な態度で馬車から下りてくる銀髪の美男子だった。
若造だ。
そう、見える。
男の配下と思しき、赤い目を輝かせた兵たちが、いつの間にか俺を囲んでいた。
「おお」
男は俺の全身を舐めるように見回すと、長い牙が歯茎まで剥き出しになるほどの笑みを浮かべた。
「良い体だ。陛下の御心にも適うであろう。……喜べ、人間。貴様は、皇帝陛下にお目通りを許される」
有無を言わさず拉致された俺は、皇帝の居城へと連れていかれた。
大陸を呑みこまんとする一大帝国の心臓部――
その豪奢な一室に半月も監禁され、全身をケツの穴まで徹底的に洗われ、上等の服を着せられ、最高級の飲食物を与えられた。
何のためかは分かり切っている。
俺は、皇帝の餌として選ばれたのだ。
逃げ出そうにも隙はなかった。
そして、そもそも、逃げるつもりもなかった。
俺は、一目、見てみたかったのだ。
日に日に膨れ上がる、化け物の帝国。
その主の姿を――
「おもてを上げよ」
例の銀髪男の声に、俺はゆっくりと顔を上げた。
がらんとした謁見の間。
きらびやかな階段の上の玉座についた、皇帝の姿は――
「おん、な?」
思わず、声が出た。
少女だ。
人形のように細っこい体。
表情のない綺麗な顔に、赤い目が輝いている。
少女が豪奢な衣装の裾をさばいて立ちあがると、複雑に結い上げられた銀の髪の上で金の飾りがちりちりと音をたてた。
衣の裾が割れ、白い足と、おそろしく踵の高い靴があらわになる。
皇帝は、滑るように歩みを進め――
階段を降りる一段目で、ぐきりと音が聞こえるほど派手に右足首を捻り、転倒した。
「おぉおおぉう!?」
悲鳴と共にごろごろと階段を転げ落ちてきた皇帝を、俺は、呆然と見つめていた。
あまりのことに、身動きもできなかった。
「いっでええぇぇぇ!」
皇帝は捻った足首を抱え、叫びながら床を転げ回っている。
「な」
俺が思わず呻くと同時、皇帝の動きがぴたりと止まった。
ややあって、直前の悶絶ぶりが嘘のように、するりと立ち上がってくる。
「ほほうそなたが我が贄か良い体をしておるどうした恐ろしさに声も出ぬかくくく」
「……棒読みにも程があるぞ!?」
「ああああぁ! もおおおおぅ!」
俺の呟きが聞こえたか、皇帝は叫びながら地団駄を踏みはじめた。
「やっぱ無理じゃん、こんなキャラ付けえぇぇぇ! だから我は嫌だって言ったんだよぉぉぉ! もうやだ、我、帰る! 棺桶に引きこもるううう!」
「落ち着かれませ、陛下!」
控えていた銀髪男が、鋭い声を発した。
だが、先ほど動かなかったところを見ると、こいつも度肝を抜かれていたに違いない。
「為政者には、何よりも第一印象が大切! 人間どもに、御身を恐ろしく近づき難い存在として――」
だが皇帝は男の説教などまったく聞いていない様子で、えぐえぐとべそをかいている。
まるっきり、ガキだ。
俺は思わず、一歩近付こうとした。
「身の程を弁えよ、下郎」
瞬時に、顎の下に硬いものが押しつけられる。
銀髪男が、奇術のように俺の真後ろに立ち、鋭くとがった爪を俺の喉に当てていた。
「贄の分際で、自ら陛下の御身に触れようなどとは無礼千万! この場で、喉首かき切って――」
「はいはいもういいから」
呆れたような声がした。
気配もなく近づいた皇帝が、銀髪男の手首と襟首とを引っつかんでいる。
そのまま、まるで犬が玩具を振り飛ばすように、男を放り投げた。
銀髪男の体は冗談のように宙を飛び、悲鳴の緒を引きながら床を滑って、列柱のあいだの暗がりに消えた。
遠くで、肉と石が激突する鈍い音がした。
俺は、息を呑んだ。
目の前の細い体がそれをやったとは、見てもなお信じられぬほどの力――
「もーやだ、疲れた。ていうか、そもそも無理があったし」
皇帝はぶつぶつ言いながら階段に腰を下ろすと、ふと顔をあげ、呆然と立っている俺に、ぴらぴらと片手を振った。
「そこの君、帰っていいよ」
「……なに?」
「なりませぬ!」
銀髪男が、ものすごい勢いで駆け戻ってくる。
再起不能になったかと思ったが、根性のある男だ。
「この男、ここで始末しておかねば、陛下の醜態が国じゅうの噂に!」
「臣下の分際で我に醜態とか言っちゃってる君のほうが無礼だよね!? ……ていうか、いいじゃん別に。どうせ民草とも、これから百年千年の付き合いになってけば、我はこんな感じだって、いつかはバレるだろーし」
これが、皇帝なのか。
本当に、これが?
「あぁ……」
俺は、おそるおそる尋ねた。
「帰って、いいのか?」
「うん。そもそも我、あんまり好きじゃないんだよねー血とか」
「吸血鬼だろうが!?」
「あー、それ!」
思わず叫んだ俺に、皇帝は、細い指先をぴっと突きつけてくる。
「その《吸血鬼》って呼び方が、もう偏見だよねー。我ら《不死者》が、みんな血を好むと思ったら大間違いだよ! ほら、血って、味とにおいだけじゃないじゃん?」
「同意を求められてもな」
俺は呻いてから、はっと目を見開いた。
「……喉ごし!?」
「酒じゃないからねっ!?」
すかさず叫び、皇帝はおほんと咳払いをする。
「血の持ち主の、感情と記憶。我に媚びようとする打算、作り笑いの裏の嫌悪と怯え……あの後味、マジで無理! おえ。気持ちわるーい」
「だが……あんたがたの《渇き》は」
噂に聞いている。吸血鬼は、長く血を飲まずにいると、禁断症状に似た発作を起こし、狂乱することがあるのだと。
「《渇き》で理性が飛ぶなんて、ケツの青い若造の話だしー。だいたい、我くらいになると、わざわざ血を飲まなくたって――」
そのときだ。
「陛下!」
突如として、荒々しく扉が開け放たれた。
全身が、粟立つ。
こういう声を、聞いたことがあった。
声そのものにではなく、空気に覚えがある。
むき出しの肌がひりつくような、血と砂塵のにおいがするような――
「反乱です! ヴェルデラン将軍、造反! 城の北側に火の手が!」
「……ええ?」
皇帝は、笑いながら立ち上がった。
「どうしてかな。我は、優しい統治者なのに。従う者には、庇護を与えてあげるのに。……でもォ……」
その声が、異様にひずむ。
ぐいと突き出された両腕が、ぐにゅりと蠢き、白い肌が内側からはじけた。
めりめり、と骨のはぜる音をたて、銀色の毛皮に包まれた新たな腕が伸びてくる。
豪奢な衣を引き裂き、突き破り、身長も肩幅も三倍以上に膨れ上がる。
長く逞しい腕と脇腹とのあいだを、深紅のマントのようになめらかな皮膜が覆う。
『逆ラウ者ニハ、本物ノ恐怖ト、絶望ヲ教エテアゲルヨォ』
大きくせり出した口が咆哮を発し、並んだ牙ががちがちと音を立てた。
「うおっ」
巨大な蝙蝠に似た姿に変化した皇帝は、ぐわっと腕を伸ばし、俺の身体を一掴みにして持ち上げた。
「やめッ……かはっ」
栓の抜けた樽から酒が流れ出すように、力が抜けてゆく。
触れただけで精気を吸われているのだと、俺は気付いた。
皇帝は、出陣前の景気付けに、俺という杯から命を飲み干そうとしているのだ。
俺は、ここで、死ぬのだ――
『……ソウカ。君ハ、ソウイウコトダッタンダネ』
不意に、そんな声が耳に届いた。
『アァ……トテモ、美味シイ。ネエ、君、我ノ配下ニナリナヨ。
モウ一度、戦場デ魂ヲ燃ヤシテミタクナイ?
君カラ全テヲ奪ッタ弟ノ臓物ヲ、ソノ手デ、引キムシッテヤリタイト思ワナイカイ――?』
数知れぬ牙の並ぶ口が、歌うように呼んだ。
『ヨウコソ、《狂乱ノ獅子》……世界ヲ、我ラガ旗ノ下二!』