もし勇者という言葉がその定義を見失ったのならば、この僕はなんと呼ばれるべきなのか
全ては遠い過去。
でも僕はあの日を、そしてあの時を、何より彼女のことをはっきりと瞼の裏に映し出すことができる。
伽藍堂とした古城の最奥はぬるい空気とかび臭いにおいに支配されていて、今にも崩れ落ちてきそうな天井は数限りない蜘蛛の巣で埋め尽くされていた。
だが見渡す限り天井に自らの城を造り上げた蜘蛛たちの姿はなく、この空間に動くものは眼前に立つ彼女だけだった。
便宜上、彼女と読んだが、僕はその存在の名前も性別を知らない。
言うなれば、その存在を定義づける言葉が存在しないのだ。
ただ奇妙なもので、その美しい横顔と、わずかに感じさせる母性のようなもの――もっとも母性とは何かを定義づけることは極めて困難で、そして議論が尽きないところではあるが――ともかく僕はその存在を女性らしきものだと認識していた。
いや、この世界の大多数の人間にとって、彼女は畏怖すべき存在であり、外見から個体認識を行った僕は極めて傲慢でエゴイスティックなのかもしれない。
でも僕にとっては、これは全てを果たしたあとの物語だった。だから多少のわがままは許されるべきだったんだろうと思う。ありきたりな自己弁護かもしれないけど。
そんな彼女はボロ雑巾と化した僕の前に立ち、手にした奇妙な卵をしげしげと眺めながら、彫刻のように整いきった唇をわずかに動かした。
「不思議だと思わない。手のひらほどの大きさしか無いこんな楕円形の球体。ここから何かが生まれるの。そしてそれは誰にもわからない」
「それじゃあ誰が親かわからないね」と僕は言った。「もっとも親という概念が君たちにあるのかは知らないけどさ」
「仕方ないの。そういうものだから。殻を破り、生み出された瞬間、それは罪を背負うの」
「悲しいね」と僕は小さくこぼした。
実際に僕は悲しかった。彼女が手にしたままの卵、それは記号以上の意味を持ちえない。
親もわからず、生まれることもなく、ただ消えていく。
「ありがとう」とその彼女は言った。
「どういたしまして」と僕は返した。
「キミがそう言ってくれて本当に嬉しいと思うの。たぶんこれはそんな感情。嘘じゃないわ」
「信じているよ」と僕は答える。すると彼女は、わずかに視線をそらしボソリと呟いた。
「嘘つき」
「嘘じゃないさ」
「だとしたら、キミは間違ってる。この世界で知性を持ち、この世界に生き、そしてこの世界で死ぬ。それがキミたち人間という存在。だから相容れはしないの。言葉だけの同情なんて意味がないのよ」
彼女の声はかすかに掠れていて、既に主を失った伽藍堂の王の間に冷たく響く。
四肢は傷つき顔さえ起こすことのできぬ今、僕はそんな彼女の声をただただ聞いていた。
「私はキミとは違う。何度でも繰り返すの。真っ暗でジメジメとした、ただただなにもない空間で膝を抱えたままで……そう、こうやってキミを殺すこの瞬間までをね」
それは感情の吐露であり、同時に最後通告であった。
だがそんな言葉を告げた彼女はそれ以上紡ぐべき言葉を失い、まるであまりに出来が良すぎるただの置物のようにその場に立ち尽くす。
「僕はキミのことを理解できて無いと思う。いや、魔王であった彼もキミのことはわからなかったと思うんだ」
「彼はその為の存在だから」と彼女は言った。
とっさに喉元まで出かかった否定の言葉。
だがそれを紡ぐ資格は僕にはない。
彼女の復活のためにこの世界に滅びを撒き散らし、そして満足の中で僕に討たれ死んでいった魔王のことをかばう資格なんて僕にはなかった。
だから僕はもはや動かすことさえままならない首をわずかに縦に振る。
「奇妙なものだね。彼を倒すために召喚されたのが僕、そしてそんな僕を殺すために復活させられたのがキミ。まるでわかり会えない為に用意されたみたいだ」
「よくあることよ。これまで何万回とあったよくある話」と彼女は言った。「少なくとも私にはね」
「わからない。この世界のことを調べる暇もなかったし、求められるがままに剣を振るうことしかできなかった。でもこれが最後で唯一の機会だということはわかる。僕は決して賢くはないけど、それでもキミのことを理解したいと思っている」
「私を傷つけることさえできなかったキミが?」と僅かに目を細め彼女はそう問いかける。
それに対し僕は、一切迷うこと無く声を紡ぎ出した。
「うん。キミを傷つけることさえできなかった僕が」
「そっか……やはり何も知らなかったのね。でも無理なのよ、そんなことは無理。前の勇者も、その前の勇者も、その前も、その前の前も、その前の前の前も……誰も彼も駄目だったの。何も理解できず何も成し遂げることはできない。果てしなく広い砂漠の中で、一欠片のダイアモンドを探すことに意味はないの」
「でも、彼らは地球から来たわけではなかったんだよね?」
「地球が何かは知らない。でもこのシャボン玉のような世界以外、何も存在しないのと同じなの。ここが私の全てで、高次存在などという都合の良い言葉はただの虚飾に過ぎない。魔王が死んだことで初めてアンロックされ、同時に勇者を殺すことだけが役割として提示される。その為だけの存在がこの私」そこまで言い切った彼女はただ寂しそうに笑う。
「そしてキミを殺せば強制的にリセットされ、封印へと戻されるの。まるではじめから何もなかったかのようにね」そう告げるとともに、彼女は虚空に向かいため息を吐き出した。
「最初は勇者たちが憎かった。いえ、今も憎いと思ってるわ。こんな役回りを担わされるのは、あなた達がこの世界で生まれるから。でも同時に私には勇者しかいないの。笑いたければ笑いなさい」
そう言い切った彼女は、地面に横たわったままの僕の顔のそばにかがみ込むと、そっと口づけをする。
彼女のやや小ぶりで豊満な唇は些か奇妙な感触だった。
冷たく、柔らかく、どこか情熱的で、そして苦い。
奇妙なものだと僕は思った。
たった一人でたどり着いた魔王の居城で、僕は相打ち同然の形で彼を打ち倒した。そして全てが終わったと思った直後、この世界を滅ぼすために生み出された彼女と邂逅した。
本来なら相容れない存在。
そして絶対に滅ぼすべき存在。
先程からわざと整いすぎた彼女の顔から視線を外し、天井の蜘蛛の巣を眺めながら僕は自分の心を見定めようとした。
自分に求められているもの。
あるべき己の姿。
そんなものを全て排除して、僕はこの胸に問う。
もはや動かすことさえろくに出来ぬ自らの手、それを自由に操り中空を掴むかのように、霞む視界の中存在するかもわからない糸をそっと手繰り寄せ、僕は自らの心の内へと触れる。
そこで覚えた感情はあまりに破廉恥で、醜悪で、そして自己欺瞞に満ち溢れたものだった。
でも、この体が動かせないのと同じように、僕の心は、そして胸の中に宿った感情は、もはや動かしえないものだと僕は気付かされた。
「笑えないよ。もう、僕には笑う資格もないんだ。恥ずかしいことに、キミを欲しいなんて思っている。キミの前では路傍の小石に過ぎないこの僕がね」
「奇妙なことね。初めてよ、勇者たちとこんなに話したのは。いえ、違うわね。生み出されてから、会話を交わしたのはキミが初めて。不毛な戦いは数え切れないほど繰り返してきたのにね」と寂しそうに彼女は告げる。
「でも、キミの感情に答えてあげることは無理なの。この世界はシャボン玉のようなもの。キミと出会ったこの瞬間が最も大きく素敵で、そして割れる寸前なの。この世界は私という存在を許容できない。シャボン玉の中に私が存在する限り、割れることは定められた必然なの」
「じゃあ、別のシャボン玉に移ったらどうかな?」と僕は言った。
「別のシャボン玉?」と初めて彼女がその表情を崩す。わずかに、だが確実に彼女の凍ったような整った顔に戸惑いが浮かんだ。
僕はこの体に残されたありったけの体力を振り絞り、手首から先だけをどうにか動かして、ポケットから小さな青い結晶を取り出す。
「こんなものがあるんだ」
「それは……まさか……」
彼女が思わず息を呑む。僕は戸惑った彼女の顔も素敵だなと感じながら、小さく一つ首を縦に振った。
「うん、精霊王から預かったものさ。魔王を倒した後に、僕の……僕の世界に戻るために使いなって。だから……」
僕はわずかに言いよどむ。だけど、もはや心の中のダムは決壊し、溢れ出す感情と言葉を押し止めることは不可能だった。
「だから僕と一緒に来てみない。キミともっと話してみたいんだ。そして心がキミを欲しいと言っているんだ」
「……初対面の相手に求愛するなんて、どうかしてるわ」
「そうかもね。吊り橋効果ってものかもしれない。でも、自分の感情には嘘をついてないし、キミへの思いも嘘じゃない」
「勇者たちは本当に私を困らせるのが得意ね」と彼女は寂しそうに漏らす。
うつむき加減となった彼女は、言葉を探すかのように虚空を見つめていた。
「こんな提案はこれまでになかった。いえ、この世界を、このシャボン玉を壊すこと以外何も求められたことはなかった。だから私は……私は……」
彼女の目からひとしずくの涙がこぼれ、頬を伝い大理石の床へと落ちた。
同時に僕の思いが決壊したのと同じように、彼女の涙腺は決壊すると、彼女は僕の唇へと自らの唇を押し付けてきた。
二度目のキスは透き通った涙の味がした。
その夜、わずかに体が動くようになった僕は彼女と寝て……そして僕と邪神皇は地球へと転移した。




