カドリーユの主題による速歩行進曲
つい、と指揮者の手が上がる。指揮者は礼装に身を包んでいる。独特の形状をしたヘルメット、右肩の肩章から胸に下がる銀の飾緒、右胸に煌めく勲章類。今日は軍楽隊将校らしく『つばめの巣』を肩に着けている。顔が映るほど磨きあげられた本革のブーツに乗馬ズボン。いよいよ始まりだ。
木管とドラムから始まる導入行進曲の軽快な出だし。指揮者は心に何をうかべているのか、ものすごく楽しそうだ。それを聞きつつ、何でこのようになったのか思い起こす。あれは夏休みの前だから三ヶ月ほど前か。
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教室から外を見下ろして、ため息をつく。桜舞うなか手を繋いだ男女の何組かが校門に向かって歩いている。なんと羨ましいことか。
「何をたそがれて居るのかね、同志戦友よ。」
後ろから声をかけられた。振り返ってみると、灰緑色の服装。アルミの銀色に煌めくボタン。もう少し視線をあげれば左胸を飾る勲章の略綬にアルミ糸製の煌めく襟章。
「同志戦友、この教室は施錠する。直ちに退去せよ。」
そう、この国家人民軍の軍服を着た変人は学級委員の澤田だ。手早く荷物を背負う。その間彼は窓の施錠を確認している。目深に被られた制帽の顎紐も将校用の銀色に輝いている。すべての窓を確認し終えた彼はこちらを向いて言った。
「退去しないのかね?あれか、なんか悩みごとでもあるかね?よろしい、学級委員として相談にのってやる。」
「いやぁ、いつか誰かと付き合うのかなーなんて。」
「何言ってんだお前は。お前がその気になれば言い寄るやつはごまんといるさ。」
言い寄られたところで、本当に見ていてほしい人は見向きもしないのだけどね。そんなことを言ったところでここではどうにもならないのだけれど。
「他に質問はあるかね?ないならば直ちに退去せよ。施錠をしなければならぬ。」
追い出されてしまった。
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導入行進曲は転調して軽やかに歩調を取り始める。いよいよ出番だ。やたらと重たいベルリラをしかりと持ち直す。指揮者いわく、今回の曲においては『ベルリラこそ主力。胸を張れ、そしてその音を天地に煌めかせよ。』とのこと。指揮者からの熱い視線、それがただベルリラに向けられたものでしかないとしても、それだけで十分。全くなんでこんな変人を好きになってしまったのだろう。
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学祭でのイベントを決めるひとこま。国家人民軍の将校の制服に身を包んだ学級委員が教壇から睥睨している。教壇の上におかれている帽。担任の教師はなにも言わずに座っている。このような決定は生徒の自主性に任されているのだ。まぁそうでもなければあんな服装で学級委員をやる男は許されまい。
「諸君。さて、我がクラスは何を実施するか。先に注釈するが昨年度にどこぞの馬鹿共がボヤ騒ぎを起こしたため、飲食に関しては極めて厳しい統制がかけられておる。少なくとも校内での調理は厳禁である。」
教室の中の何人かが視線を落とす。全く他人の心を無視して振る舞う学級委員だこと。気遣いひとつ見せやしない。
「でだ。何を実施するか。案はあるか。」
幾つか意見が挙がる。休憩所や学習展示、あまり面白そうでないものばかりだけれども、楽なものから。それをチョークで書き出していく学級委員。何だか服装とのギャップが面白い。最後に上がったのが器楽合奏だった。
「貴様、それは私に対する当て擦りかね?」
黒板から向き直った彼が大きな声で聞き返す。そう、彼は音痴で知られているのだ。
「もう一度聞こう。これは私に対する当て擦りかね?」
なぜかみんなと同じ学校指定の上履きなのに軍靴のような足音のする上履き。あれは本当になぞだ。そして、提案したクラスメートの顔を覗き込むようにしながら。提案した方はそれに全く怖じけずに答える。
「そんなことはないね。そう思われるのは心外だ。」
「ふむ、全く気に食わぬ。それに、だ。いくら夏休みを間に挟んでおったところで三ヶ月程度しかない。器楽合奏など、本当にできると思っているのかね。」
「もちろん、可能だ。」
「言い切ったな。いい度胸だ貴様。よろしい。貴様が学級を率いるがいい。それでやって見せよ。」
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いよいよは本編が始まった。ベルリラは極めて打つ数が多く、手が震える。しかしまるで燃え盛る炎のような熱視線が時折指揮者から向けられては我に帰る。一音の間違いも許さない剃刀をあてられたとまごうばかりの眼力である。本人がよくいっていた『私は音の狂いもなにもわからない』というのは嘘か何かか。
この曲の難しさはヨハン・シュトラウス一世の躍動的な原曲を押し出すと単調でつまらない曲になり、軍隊行進らしさを表に出しすぎると押し付けがましい曲になるところだ。それを最後に飾り付けるのがベルリラの役割であり、最も重要だと何度も強調された。積み重ねた練習では、何度も罵倒されながら耐えてきた。
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パートや楽器を決めるときに、無駄に力を入れていたのは澤田だった。どうやらそもそも楽器にもほとんど触れずに済むような隠れられるところ、というか銅鑼のようなほとんど出番がなく音程もくそもないものを狙っているようだった。しかしその人気は強く、彼は負けたようだった。というかなぜか何の曲をやるのかすら決まっていないような気がするけれど。
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共産国特有の大量についた勲章。肩章の星。きらびやかなその服装にこの曲の特徴を見る。いや、そのように説明されたようなこともあった。プロイセン軍兵士のような曲であるからそれを意識せよ、と。決してお行儀のよいオーストリア兵でも、重苦しいだけのロシア兵でも、華やかなだけのフランス兵でも、派手なだけの英国兵でもなく、プロイセン軍兵士のようにあれ、と。
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最初に器楽合奏をやりたいと言ったアレはなにも曲を決めていなかったこともあって、澤田が〆た。それほど不快であったのだろう。そのあと、曲を決める投票があった。
「諸君。ようやく曲が決まったことを喜ばしく思う。」
投票用紙にはそもそも配られた時点で印が消せないように入っていたが、誰も文句は言わなかった。なぜなら他の選択肢はまともでなかった。なんだ、ブラスバンド向け行進曲アレンジの炭鉱節とは。ポップス風アレンジ東京音頭とは。
「諸君。これからとりあえず視聴してもらうのは先に原曲である。こちらは全くお上品なオーストリア皇帝のもとに捧げられたダンス向けの曲である。まるで、お上品なオーストリア兵の服装のようで、華やかではあるが何かが足らぬ。」
原曲の華やかな旋律が動画サイトを用いた手法で流されて静まった教室に染み入る。時折繰り出される解説は当時の時代背景と、オーストリア帝国の話。なぜかオーストリア帝国のことを下げながら。
「しかし、だ、諸君。諸君が奏するのはこれではない。これを原曲としたこちらだ。」
映し出される古い軍事パレードの映像。彼は胸を張って言う。
「見よ、そしてよく聞くがいい。わが栄光の国家人民軍の中央軍楽隊による演奏を。西側米帝傀儡の軍楽隊ではこれほどのものはないぞ。そしてこの曲の曲調は全くプロイセン軍兵士の軍装にふさわしい。その蒼きは軍の威厳を保ちかつ快なり。襟や縁取りの紅は躍動たる兵の本分を示した。銀糸にてある襟章や袖章は兵を飾りつけ、栄光に包んだ。この曲調もまさにこれだ。軍隊行進にふさわしき厳たるを意識せずならば単に軽いだけで面白くない。このように、だ。」
今度は最近の軍隊のイベントらしいもので演奏されている様子だ。
「この西側米帝傀儡のような演奏ではだめだ。何のためのアレンジであったか。それが軍隊行進のためである。ならばこれは間違いだ。しかし軍隊行進だけを意識すれば躍動感足らず、押しつけがましいものになる。プロイセン軍の軍装のごとく調和されていなければならぬ。さらに忘れていてはならないのは、グロッケンシュピール。これが銀糸の徽章に等しく全体を煌かす。さて諸君。色々始めようではないか。」




