ニート探偵セブンスター
島田ビルは築四十七年。地上五階、地下一階、エレベーターもないオンボロ雑居ビル。
その五階に『七星探偵事務所』は存在している。
岡本はぜいぜいと息をあげながら階段を上り、事務所の扉を開けた。
「おはようございます」
扉の向こうには、煙草を咥え、ジャージ姿の親父がいた。無精髭とぼさぼさの髪。目の下のクマ。
かったるそうに煙を吐き出しつつ、パソコンをじっと眺めている。
「おはよう? もう朝だったのか?」
「島田所長。もしかして、また徹夜ですか? ゲームで……?」
「あったりまえだろ。今イベント期間中で、ギルメンから助太刀頼まれるんだよ。やっぱ勇者は辛いな」
「ゲーム内勇者ですか」
岡本が小声でぼそりと「引きこもりダメニート親父」と呟いたが、島田は気にもとめずにパソコンを見ている。
「よし、終わりと。一仕事終えたし、そろそろ寝るかな」
「もうじき営業時間ですよね?」
「それは岡本と詩乃に任せた」
また「ダメ親父が」と呟きつつ、詩乃という言葉に、岡本は表情を明るくする。
その時奥の扉が開いて、スレンダーな女性が部屋に入ってきた。
艶やかな黒髪がさらりと動き、眼鏡の奥は知的に煌めく。スカートから伸びる美脚に、思わず岡本は目を奪われた。
「おはようございます。岡本さん」
「お、おはようございます。詩乃さん」
詩乃がルージュを引いた唇でにこりと微笑むと、解りやすく岡本の顔がにやけた。
そんな視線を躱し、所長に書類を差し出す。その姿は敏腕美人秘書という風情だ。
「所長。今日のスケジュールは、これでいいんですか?」
「ああ。どうせ来客予定もないだろ」
あくび混じりの返事をして、事務所のソファに寝転がる。
所長の島田、所長秘書の詩乃、新入社員の岡本。わずか社員3名の七星探偵事務所は今日も暇。
それが岡本は不満だった。
岡本は子供の頃から探偵に憧れていた。
大人になり、浮気調査だのつまらない仕事だとわかっても「探偵」という言葉の魅力に惹かれた。
詩乃への下心もあったし、給料は少ないが待遇は決して悪くない。だが、しかし。
「岡本さんの今日のスケジュールです。午前中はスーパーに買い出し。地下のバーで昼ご飯も。午後は二階の碁会所で七瀬さんと囲碁。その後三階の柔道所で菊池さんに稽古をつけてもらい、帰りに四階の林田さんから書類を受けとってきてくださいね」
「また、それですか?」
岡本の口から溜息がこぼれ落ちた。
七星探偵事務所に入社して一ヶ月。探偵の仕事は一件もなく、岡本はこのビル内をうろうろするばかり。
事務所の奥が住居で、島田がこの部屋から出る事は滅多にない。
親から譲り受けた島田ビルの不労所得がなければ、とっくに事務所は消えていただろう。
所長は愛用の煙草、セブンスターに手を伸ばし、煙草を一本取り出した。
「岡本。厭ならいつでも仕事辞めていいんだぞ」
いつものだるそうなダメオヤジではなく、真剣味を帯びた声で、冗談に聞こえなかった。
「いえ、まだ辞めません。仕事らしい仕事はしたいですけど」
入社直後に辞めたら、転職に不利だ。それに詩乃という女神もいる。まだ辞める決意に至らない。
「仕事らしい仕事ね。明日来客予定が二件あったよな?」
「はい。午前と午後に一件づつ。どちらも失踪人の調査のようですね」
「仕事ですか!」
謎の失踪人から始まる事件の香りに、岡本の期待は膨らむ。そんな気持ちに水をさすように、島田は煙と共に溜息を吐き出した。
「まあ、受けるかどうかは、半々だがな」
「こんな閑古鳥が鳴いてる状況で、仕事を選んでる場合ですか?」
「俺は気に入らない仕事は受けない。まだイベント期間中で忙しいからな」
忙しいってゲームかよという言葉を岡本は飲み込んだ。
雑居ビルの地下のバーは、昼間は営業時間外。だがこのビルの住人は特別扱いだ。
岡本がバーの扉を開けると、強面の渋メンがちらりと岡本を見た。
「昼飯か? 今作ってるから待ってろ。坊主」
バリトンボイスが岡本の耳に響いた。岡本がカウンターに座り、だらしなく突っ伏すと、無言で男はアイス珈琲が入ったグラスを差し出す。
「片山さんが優しい。顔もイケメンだし、イケボだし。モテるでしょう」
「昔はな。今は興味ない」
その大人の余裕が岡本には妬ましい。少し強面だが、どこか色気の漂う中年。
比べて岡本は彼女いない歴=年齢。詩乃に憧れつつも、仕事以外の話もできないチキンだ。
「詩乃さん。今日も綺麗だったな……」
岡本が零した言葉に、片山はぴくりと眉を跳ね上げた。
「まさか、詩乃に気があるのか?」
「いえ。綺麗な人だなと想ってるだけで」
「詩乃に手出しするな。殺されるぞ」
物騒な言葉が冗談に聞こえなくて怖い。
「誰にですか?」
「このビルの住人全員に。詩乃はココのアイドルだ」
岡本の口から盛大に溜息が零れた。引きこもりダメ親父や、碁会所の爺さんはともかく、柔道場のオッサンは洒落にならない。片山も怒らせたら怖いタイプだ。
「そういえば、やっとウチに仕事が来るんですよ」
「島田が仕事を受けるのか?」
「半々だって言ってましたけど。仕事を選んでる場合じゃないですよね」
ぶつぶつ愚痴を垂れ流す岡本は、片山の表情が曇った事に気づかなかった。
「仕事の話。他の階の住人達に話しておけ」
「この後各階を廻りますけど、一階の診察所には行きません」
「どうせ柔道の稽古で怪我してやっかいになる」
「あのヤブ医者、僕が足を痛めた時『ツバつけときゃ治る』って追い返したんですよ」
「アイツは口は悪いが腕は確かだ」
片山の言葉に納得がいかず、岡本は口を尖らせながら、アイス珈琲を啜る。
アイス珈琲の氷がたてる、からんとした音が、静かな店内に響いた。
結局岡本は片山の言う通り、このビルの住人に、仕事が来るという話はした。
皆、意味有りげな反応で、でも何も教えてくれない。
階段の上り下りで息をあげながら、岡本はまた愚痴を零す。
「子供のおつかいで一日が終わりか。詩乃さんがいなかったら、とっくにこの仕事辞めてるよ」
岡本が何気なく事務所の扉を開けた時、可愛い声が聞こえてきた。
「パパ。数学の問題、解らない所教えて」
「詩乃。仕事中は所長と呼べって言っただろう」
「いいじゃん。岡本さんいないんだし。今日の夜は海老グラタンが食べたいな」
「わかった、わかった。作るから。ちゃんと勉強終わらせておけよ」
「はーい」
いつもの詩乃から想像もつかないほど、無邪気な笑顔と可愛い声に岡本は思わず、大きな音をたててしまった。
「やばっ。岡本さん……今の聞いちゃった?」
「ええ、まあ……パパって?」
岡本はイヤな予感をひしひしと感じ、恐る恐る問いかける。
島田がその問いに面倒くさそうに応えた。
「話してなかったが、詩乃は俺の娘だ」
「はあ? だって、所長はどう見ても三十代半ばくらいで、詩乃さんは二十代半ばくらい……」
「私十四だよ」
あっけらかんと答える詩乃の言葉に、岡本は顎が外れる程に大きく口を開けた。
詩乃の美貌はとても中学生に見えず、岡本は年上だと思っていた。
「学校は?」
「行ってない。パパが勉強教えてくれるし」
「詩乃が可愛すぎて、学校で虐められると困るからな」
親バカ丸出しで、義務教育放棄させるのかと岡本は呆れた。
「というわけで、俺の娘に手をだすなよ。犯罪だぞ」
詩乃への憧れだけでこの一ヶ月頑張って来たのに、という悲鳴を岡本は飲み込んだ。
「……で、仕事辞めたいか? 岡本」
転職か、明日の依頼に賭けるか、数分迷ったその時間が岡本の運命の分岐点。
リーン。電話の音が鳴り詩乃が電話に出た。
「はい。七星探偵事務所でございます」
先程の子供っぽい喋り方が嘘のように消え、敏腕秘書の声に変貌する。
「所長。明日の依頼者の一人が急な事故で怪我をしたと。代理で娘を行かせるとの事です」
「急な事故ね。黒いな」
コゲ臭がする程、プンプン漂う事件の臭いに岡本は抗えず、会社を辞める事を辞めた。
夜明けが近づくバーにふらりと島田が入ってくる。片山はグラスを磨きながらぞんざいに言い放つ。
「もう閉店時間だ」
「酒くらい飲ませろ」
「ヤク中の次は、アル中まで拗らせたか?」
「アル中はお前だろ? 酒飲みながら仕事しやがって」
軽口を叩きつつ、島田はカウンターに座り、片山はウイスキーを置く。島田は紫煙を吐きながら、ウイスキーグラスを弄んだ。
「たまには一本どうだ?」
島田がセブンスターを差し出した。片山がそこから煙草を一本取り出すと、紙が巻き付いていた。紙を剥がして煙草だけ口に咥える。
「依頼を受けるのか? サツに任せてオマエはゲームしてろよ」
「警察が当てになるか」
島田は警察という言葉を聞いただけで、顔を思いっきり顰めた。その姿に片山は肩を竦める。
「岡本がビルの中を巡回させられて愚痴ってた」
「ガキの使いっ走りは便利だろう?」
「使いっ走りの為だけに雇っているのか?」
片山の問いに答えず、島田は煙草の箱をトントンと叩き、ぐいっとウイスキーを呷った。
片山が手元の紙をちらりと見ると『林田からの報告。振込詐欺が増えてる。お前の担当だから調べろ』と書かれていた。
「アル中。お前ももっと仕事しろよ」
「引きこもり程、暇じゃないんだがな」
「うるせー。俺は安楽椅子探偵なんだよ」
島田はかったるそうに頭を掻きつつ店を出た。
片山は溜息を零し、煙草に火をつけ、そして紙を燃やした。




