これが私の復讐譚
その日は一つの国が終わりを迎えた日であり、一つの伝説が始まった日でもあった。
王城が燃えている。
乾いた熱気が城内を包み込み、大理石の柱には深刻なひびが入り、いつ崩れてもおかしくはない。そう言う状況だ。
庭園のハーブでも燃えているのだろうか、この惨状にはおおよそ似つかわしくない甘く爽やかな香りが漂っている。
広い、赤いカーペットが敷かれた廊下の一角。
ジェドは一人、おぼつかない足取りで壁を伝いながら歩いていた。
腹部に空いた穴から血が流れている。口の中にも血が満ちて大変気持ちが悪い。
目の前が霞む、血が足りないだけではない。城を包み込んだ炎のせいもあるのだろう。
奥歯を噛んで目を凝らす。
ようやく見えてきた目的地——ジェドの私室があと十数メートル先、と言うところだ。
しかし、崩れ落ちる。俯いて両膝をついた。
すでに虫の息だった。足りない酸素を取り込もうとして呼吸が早くなる。が、火災の中でのそれは逆効果で、余計に肺が苦しめられるばかり。
腹から流れる血も止まらず、意識を手放し始めていた。
「早く、早くしなければ……!」
声を出して意識を保つ。
彼には目的がある。この過酷な状況下に飛び入ってでもなさなければならない目的が——。
「ジェド!」
後ろから声がかかった。
その聞き親しんだ声にジェドは嬉々として振り向く。
駆け寄ってきたのは純白のドレスを身に纏った少女だった。
長い裾の先が焼け焦げていて、動きやすくするためだろうか、スカートには無理やり手で裂いたであろうスリットが入っている。
「姫さま……! ご無事でしたか!」
ジェドはほとんど意地だけで立ち上がった。
姫に、否、一人の女性に心配をかけまいとする男のプライドのようなものだった。
一方で駆け寄ってくる姫。こちらはまだ元気なものだった。
衣服が汚れているのは前述の通り、目立った外傷は見当たらず、炎に照らされる鮮やかな黄金色の髪の美しさは健在だった。
その様子を見て、ジェドは胸をなでおろした。
しかし、対照的に姫は頬を膨らませる。
「なに安心したって顔してるの! あなた重症じゃない!」
やれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「私のことはいいんです。姫さまの無事が確認できたなら、それが本望」
「あなたの望みなんて知らないわ! 楽にして、すぐに治癒魔法で傷を塞ぐから」
そう言って姫はジェドを壁に寄りかかるように促す。
青年にわざわざ抵抗するほどの余力はない。姫は傷の位置を確認すると両手を重ねて魔力を込め始める。
淡い緑色の光が血に濡れた腹部を覆う。初級魔法の一種である『ヒール』だ。完治とまでは行かずともこの魔法であれば大抵の傷は塞ぐことができる。
できる、はずだ。
「どうして⁉ なんで止まらないの⁉」
血は流れ続けていた。
青年の顔色も変わらない。血が足りず、青白くなったままだ。
姫。ポツリと呟いた。
「魔族の呪いです。私はもう……」
「黙ってて!」
珍しく張り上げられた姫の声に青年は驚く。
そして、やるせなさや微笑ましさなどどうにも形容しがたい微妙な顔で笑った。
鮮やかな黄金の髪の上からポンポンと優しく頭を撫でると、こちら側へとたぐり寄せる。
一人の少女が男の胸に飛び込んでいるような構図。姫は突然のことに魔法を使うことも声を出すことも忘れてしまう。
同時に、少女は安らかな気持ちになった。
青年の鼓動が聞こえる。血の匂いに混じった青年の香りがとても安心する。
「姫さま」
「……なに?」
「私は執事として今まであなたに仕えてきました。ですが、今だけは一人の男としてあなたに伝えたいことがあります」
「なによ。改まって」
虫の息なりに深く呼吸した。
「姫さま。愛しております」
「っ……⁉」
少女は青年の胸元から離れ、顔を見上げた。
口からは血が流れ、頬は煤け、いつもはきっちりと整えられた男にしては少し長めの黒髪が今は崩れている。
そんな見慣れた執事の顔が微笑んだ。
「顔、真っ赤ですよ?」
「え、や」
両手で自分の顔に触れる。熱い、耳まで熱くなっているのが分かる。きっと、この場が炎に包まれているからだけではないのだろう。
「相変わらず分かりやすいですね。姫さまは」
「——もう、こんな時にあなたは! からかうのも大概に……!」
人差し指を姫の唇当てて止める。
「別にからかったつもりはありませんよ。本気です。あなたが姫でなかろうと、私があなたの執事でなかろうと、私はあなたを愛したことでしょう」
「ジェド……」
「——っ! ゲホッゲホッ!」
吐血。おびただしい量の血が口から咳とともに吐き出される。
限界が近い。暗にそう告げているようだった。
「行って下さい姫さま……私の部屋には隠し通路があります。本棚の三段目に一冊逆さになっている本があるので、その後ろに扉開くスイッチが……」
「もう喋らないで! 脱出できる道があると言うならあなたも一緒に!」
「いいえ、どうやらそうは行かないようです……」
「え……」
ジェドは壁に背をつけながらふらふらと立ち上がった。
まるで生まれたての子鹿のような足取りで少女の前を通り過ぎると広い廊下の向こうを見据えた。
瞬間、炎に閉ざされた空間が凍てつくように冷たくなるのがわかった。
「な、なに……?」
廊下の向こうから人影がやってくる。
だが、ただの人ではないのはすぐ分かった。深く冷たい真っ青な長髪に黒い背広を着こなした男。なによりも特徴的なのは、その背に生えた一対の黒翼だった。
「魔族です。姫さま」
血のように赤い男の眼光が二人を捉えた。
さらに空気が冷たくなる。ビリビリと肌で危険が迫っているのを感じる。
魔族。
人々が住まう世界とはまた別の世界から来訪したと言われている侵略者たち。
王国を攻め滅ぼした張本人であり、その身にはツノや牙といった特徴がある。
特に翼を持っている魔族は魔族の中でも上位の存在であるとされ、その戦闘能力はたった一騎で軍を蹂躙するとすら言われている。
ギリ、と奥歯を噛んだ。
そうだ。魔族の中で上位の存在だと言うのなら、王都を攻めてきた魔族の軍勢は目の前のこの男が率いて来たのではないか?
そう結論付けると少女の心に怒りの火が灯った。
「あんたが……あんたがみんなを……!」
飛び出しそうになる。しかし、目の前に立ちはだかった青年の背中によってそれは阻まれた。
「ここは私が食い止めます。姫さまは早く脱出を!」
「そんな、その怪我じゃ無理よ!」
「……姫さま、あなたに戦いは似合いません。あなたはこれから自由に生きるのです」
構える。
呼吸を少しでも整えて臨戦態勢に入る。大切な人を守るため、多少の武術は王族に仕える者の嗜みだ。
「無理は承知、あなたに仕える執事として最後はあなたのために戦います!」
最後の力を振り絞って青年は駆け出す。
静止の声は聞かず、自身を省みることはない。
そして、その背を見送る者はいなかった。
姫もまた、涙を飲んで逆方向へと駆け出していた。
目の前には扉がある。与えられた時間はそう長くはないだろう。
少女の狭い肩には多くの犠牲と思いとが乗りかかっていた。その重圧を彼女はひしひしと感じ取ってはいる。
だとしても、だからこそ、諦めるわけにはいかない。
投げ出すわけにはいかないのだ。
ジェドの指示通りに本棚を調べる。
「あった!」
逆さになっていた本を取り出すと奥にスイッチが見え、それを押すと本棚が勝手に動き出した。
空間が、地下へと続く通路が現れた
生唾を飲む。
今一度、入ってきた扉の方を見やる。
向こう側からは何の音も聞こえない。それが何を意味するかは分からない。
もしかしたら、ジェドは一瞬でやられてしまったのかもしれない。
——憎い。
ふと、そんな考えが過ぎる。ふるふると頭を振ってかき消した。
「私は、私の執事を信じる!」
今魔族に捕まるわけには行かない。
地下通路の入り口を見やる。
どこへ続くのか分からない暗闇の道だが、その中にある一条の光を求めて一人——飛び込んだ。
『勇者』という存在があるらしい。
誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも高潔で決して悪に屈することのない絶対的の正義。
元来、条件さえ整えば勇者とは誰しもがなりうるものらしい。
その条件の一つに『経歴』というものがある。
まるで物語に出てくる主人公のような凄惨で悲惨な過去。
それを乗り越えることが勇者になりえる最初の条件らしい。
「なりますかね? 彼女」
氷のように冷たい髪色の魔族が呟いた。
「序章は完成した。優しく、魔法の素養もあり、高潔な亡国の姫君。勇者になる条件としてこれほどの逸材、そうはいない」
その隣で静かに笑う者がいた。
腹から血を流し、口からは血を吐きながらも悠然と立つその姿は、ただの人として見るにはあまりにも異常だ。
「なにより、あの瞳の奥に灯った炎が見えた」
言い終えるまでに腹部の傷は再生した。ところどころにあった擦り傷ももう存在しない。魔族特有の高速再生能力によるものだ。
「泣いて憎め、そして戦え、復讐に囚われ、魔族も魔王すらも滅ぼせ」
黒い髪の青年は——ジェドはもう一度、ニヤリと口角を上げて笑った。
「それがあなたの復讐だ」
この日、一つの国が終わりを迎えた。
同時に、一人の少女の伝説が始まった。
——それから、三年の月日が流れた。




