地平線の内側で
「情報っていうのはね、エネルギーなんだ」
そのときわたしはまだ四歳で、
「エネルギーと質量は等価だ、ってアインシュタインがいってたでしょ? だから逆をたどれば質量、つまり物質っていうのはすべて情報のかたまりなんだ」
特殊相対性理論はおろか数字の足し引きすら怪しかった。
「あなたの涙も情報を持ってるんだよ」
その子が何を伝えたいのか、当時のわたしはまったく理解できなくて、ただぼんやりと壮大な演説を聞くだけだった。
「なみだが、ジョーホー? どんなジョーホーをもってるの?」
「寂しいとか、悲しいとか、そういう気持ちの情報だよ」
「でも、うれしいときとか、たのしいときにもないたりするよ」
「そ、それはね? あぁ、そう! 嬉しいとか楽しいっていう気持ちを、みんなにも分けてあげるためだよっ」
いま振り返るとその口ぶりは、とても軽い。幼い子供にありがちな、大人の言葉の複製品。苦し紛れな弁明が、ハリボテであることのこれ以上ない証明だ。
歳もそれほど離れていないに違いない。よくてひとつかふたつ上。そもそも、満月が切り取る彼女の陰は、四歳のわたしとほとんど同じ大きさだった。
それでも。
彼女の大人びた演説に子供心はすっかり奪われていた。
わたしは自分が泣いていたことをすっかり忘れていた。
満月を背負ったシルエットに神々しさすら覚えていた。
「あなたは、寂しさを吐き出すために泣いてるんだよ」
「さみしさ……。そうだ、おとうさんはどこ?」
「安心して。大丈夫だから」
急に心細くなったわたしに気づいてか、彼女はわたしの頬をそっとぬぐった。固い生ぬるさに覆われた、柔らかい温かみを感じた。
「よく見て」
差し出された彼女の指は水滴をまとって月明かりのなか輝いていた。いじけた春の夜風が涙を乾かすにはもうしばらくかかりそうだった。
「きれい。ダイヤモンドみたい」
「まだまだこれからだよ。ほら」
「わっ――」
掛け声とともに、涙の粒は七色の火花をほとばしらせた。
小さな小さな虹の万華鏡。
寄せては返す光の波。
線香花火のように儚げで、けれどもまばゆいきらめきに、呼吸すら忘れた。
「はい、おしまい」
どれほど見ていたのか定かではない。寝起きの夢から覚めたような気分だった。ほんのりと幸せで、ちょっぴり淋しくて。
「そんな顔しないで」
「でもおわっちゃったよ」
「終わったのはね、涙がなくなったからだよ。涙がなくなったってことは、あなたの寂しさとか悲しみもなくなったってこと。だから大丈夫。笑えるよね?」
「……うん」
両手を握りしめられて、わたしは強くうなずいた。さみしさは完全に消え去っていた。
「おおい、ミツキ! どこだ!」
父の声がした。
「おとうさぁん! こっち!」
振り返って叫ぶと父も返してくれて、間もなく抱き留められた。
「こら。勝手に歩き回るなっていっただろ?」
「ごめんなさい」
「大丈夫だったか?」
「うん。おねえちゃんがね、いっしょにいてくれたの」
「お姉ちゃん? 誰もいないようだが」
父はわたしの手を引きながらあたりを見回す。わたしもそれに倣う。確かに人影は見当たらない。一面の星空が、ぐるりと波立つ稜線に足元を隠されているだけ。
ここは地平線の内側。山あいのキャンプ地から少しはなれた草原。一か月遅れの誕生日プレゼントに、一年ぶりのスーパームーンを見に来て父とはぐれてしまったのだった。
いつもより大きな満月に触発されて星々までが力強い。銀の月明かりと星明かりに、真夜中の草原は影が伸びるほどまぶしい。あの子がいればすぐにわかるはず。
あの子は、どこにもいなかった。
「いるもん! 花火だって見せてもらったもん!」
わたしは意地になっていた。あの指の感触は、涙が散らした線香花火は、本物でしかありえなかった。けれども父は笑い飛ばしながらわたしから目を放したことを謝るだけだった。
「そうか、すまんすまん。迷子にさせたのはお父さんのせいだ」
言い返そうとしても、いい言葉は見つからなかった。
あの子のことは何も知らない。逆光のせいもあるけれど、花火に見とれるあまり彼女の顔は気に留めず、名前すら聞かなかった。
間違いなくわたしにとって一生の不覚だ。あれから十四年が経ったいまでも、彼女の手掛かりはまったく掴めていない。
そうして――
今夜も空は銀色だ。その変わらなさといったら、まるで物理法則の不変性を謳いたがっているみたい。少なくとも人間の一生は、月が表情を変えるには短すぎる。
人間が成長するにも短すぎる。
「何するの! ひったくり!」
足元から女性の悲鳴と、威勢のいいエンジン音。二〇三四年も暮れに近づいたというのにひったくりらしい。
わたしは量子迷彩の強度を上げて声の方向へ急いだ。ビルの屋上から住宅街の屋根へ重力スプリングで跳ねていると、見つけた。二人乗りで後ろがバッグを提げたいかにもな風貌。乗っているスクーターも違法改造だろう。市販の物ならセンサーが感知して歩行者や障害物を避けてくれる。
ならばと、スクーターに並走する。
「よっしゃ、上手くいったな」
「ブランド物だ。こいつは上玉だぞ」
迷彩のおかげで気づかれていない。道路が小川に差し掛かったあたりで、スクーターの横腹を思い切り蹴り飛ばす。
「ハンドルがっ――」
「しまった、カバ――」
そのままふたりはスクーターと仲良くどぶ川に突っ込んでいった。
「痛て……なんでこんなタイミングで故障するんだよ」
「そんなことより早く逃げるぞ」
高さはないから犯人は泥まみれのままぴんぴんしていた。多少涼しいだろうけど、こんなもんでいいでしょう。奴らが手放したバッグは道の真ん中にでも置いておこう。
「お巡りさん、あいつらです!」
「なに! 現行犯だ!」
「くそ、走れ!」
「ひいっ!」
騒がしい水音をよそに、わたしはこの場を立ち去る。
「よかった、わたしのバッグ」
「グレープに助けられたのかもしれませんな」
この町にそういう名前の都市伝説があるとは聞いていたけれど、思った以上に広まっているらしい。やっていることは地味で、ひったくりを退治したり落とし物を届けたり子猫を木から降ろしたり。科学技術がますます幅を利かせて身近な危険がどんどん縮小した結果、地味な人助けしか残っていないけれど、それでも感謝はされているようだ。
張本人としてはくすぐったい。
本来の目的はたまたま開発してしまったとある機械のテストだから。このインカムに似た装置で脳内のイメージを走査、増幅して周囲に投射してやれば、ひとりの魔法使いの出来上がり。重力を操って町なかを飛び跳ねることも、電磁波をいじって身を隠すこともお茶の子さいさい。
量子エンタングルメントの技術を使っているから、名前は量子エンタングラー。国連軍のパワードスーツやCERNの大型ハドロン衝突型加速器なんて必要ない。
もっとも、こんなトンデモマシーンを大学の教授に発表したところで笑われるか病院を紹介されるのが関の山。だから、せめてものお焚き上げとしての人助けだった。
エンタングラーの存在もグレープとしての活動も、わたし以外は誰も知らない。
どうせ信じてもらえないのだから誰かに教えるつもりもない。
そうやってカッコつけたところで、ひったくりの次は告白を躊躇っている青年の背中を叩いて、かと思えば酔っ払いが踏みそうになった犬のフンを排水溝に飛ばして。
地味すぎるとは思うけれど、これくらい平和なほうがいいのかもしれない。
十四年前のようにドラマティックな人助けはなかなか転がっていない。
あの子はいまどこで何をしているんだろう。あの子がいなければ、情報物理の道に進むことはなかったし、エンタングラーのテストと人助けを兼ねようなんて発想もなかった。だからあの子のことはどうしても気になってしまう。この月を、あの子も見ているんだろうか。
試しに見上げてみる。
本当に明るい月だ。天体物理の人が来月のスーパームーンは二〇一六年以来の近さだってはしゃいでたっけ。銀色の月が、次はもっと大きくなる。
と、幹線道路の中央分離帯に猫が立ち往生していた。重力スプリングを調節してすぐ近くにふわりと着地。
「ほら。チチチ」
怖がらせないよう舌先を鳴らしてみるけれど、途切れない車の列と緊張ですっかり固まってしまっている。長期戦になるかな、と思った瞬間。
みゃ。
ひとつ小さく声を上げて猫の体が浮き上がった。ジャンプしたんじゃない、思い切りお腹を見せつけてくる。
「ダメだよ、それじゃ。思い切りいかないと。見えてないんだから」
猫の背後、何もない空間から声がする。いや、よく目をこらすと陽炎のようなものが揺らめいている。熱い液体に氷を入れると発生するもやのような。
顔どころかシルエットすら見えないけど、なぜか確信した。
「こんばんは。若き科学者さん」
「あなた……」
間違いない。あの子だ。ずっと探していた、わたしにとっての特異点。
じゃあこの場所は? 特異点を覆うシュヴァルツシルト半径の、事象の地平線の、その内側。すぐ横を駆け抜けていく自動車の群れは、ひとつもわたしたちに気づきやしない。迷彩に彩られたわたしたちを、誰も見ることはできない。
地平線の内側にいるわたしたちだけしか知らない空間。
あの猫は、わたしたちに気づいているんだろうか、気づいていないんだろうか。




