愛するお義兄様のために、『悪役令嬢』にはなりません!
――私、イアン・アルハイムは、生涯この身をかけて、シェーラ・アルハイムを守ることを誓います。
それは古の時代に騎士が姫に捧げたという宣誓の言葉を模したものだった。
「シェーラ、シェーラ!」
興奮した義父の声に、シェーラは刺繍をしていた手を止め、部屋の外に飛び出した。はやる気持ちを抑え、長い梳られた黒髪を大きく揺らしながら、はしたないと思われない速さで進む。これほどまでに嬉しそうな声だということは、もしかして……。そう思うと、思わず笑みが零れる。だって、やっとあの願いが叶うかもしれないんだもの。仕方ないじゃない。
ふんふん、と鼻を鳴らしながら階段を降りていく。エントランスにいたのは、赤茶色の髪を持つ義父と、執事や多くのメイドたち、そして――義父と話している、金色の髪を持つ義兄。
とくん、とシェーラの胸が高鳴る。ああ、今日も美しいお義兄様。あなた様の幸せが、私の幸せです。
そう思いながら、シェーラがうっとりとイアンを見つめていたら、イアンが視線に気がついたらしい。シェーラの姿をその深い青の瞳に留めると、優しく微笑んだ。
「シェーラ、どうした?」
「……いいえ、何でもありませんわ、お義兄様」
シェーラの鈴のような声が響き渡る。それは感情を押し殺した、作り物の声で。その言葉を聞いて、イアンは不愉快そうに少しだけ顔を歪めた。けれど、すぐに元の笑顔に戻して、自らの父に向き直る。
「ということで、私にも話の内容を教えてください、父上。次期当主たるもの、知っておくべきでしょう?」
「うーむ……まぁいずれは知ることだろうし、良いか」
イアンの希望に少々渋ったが、義父は鷹揚に頷くとシェーラを近くに呼び寄せる。そして息子と義娘に顔をずい、と近づけると、声を潜めて言った。
「実はだな……」
ピン、と張り詰めたような緊張感が走る。いつの間にか使用人たちは三人の雰囲気を読んで動きを止めていて。ゴクリ、と誰かが唾を飲む音でさえ聞こえそうなほどの重たい静寂が辺りを支配した。
「実は……」
早く聞きたい、知りたい。だけど、知りたくない、落胆したくない。期待と、落胆に対する不安でシェーラの鼓動が早まる。
きゅ、とドレスの裾を握った。さら、とシェーラの瞳と同じ緑色の布が不安げに揺れる。
そのとき。バッと勢いよく義父が腕を広げて、大声で言った。
「シェーラと王太子殿下の婚約が決まったぞ!」
その言葉に、シェーラは歓声をあげた。嬉しくて、パン、と手を合わせる。
「きゃあ! やりましたわね、お義父様!」
「おう、やったぞシェーラ! これで我が家は安泰だ!」
手を取り合って喜ぶ二人。使用人たちも皆一様に顔を綻ばせ、静かに喜んでいる。執事は密かに、祝いの料理を出すよう料理長に告げに行って欲しい、と近くにいたメイドに頼んだ。
だけど、一人だけその空気に馴染めない人がいて。
イアンは渋面を浮かべて、父に尋ねた。
「父上、ですが、我が家は伯爵家ですよ? 伯爵家が王太子殿下の婚約者など……」
「何かおかしいか? 伯爵家なら何とか王太子妃、果ては王妃になってもおかしくない身分だぞ! きっと、我らがアルハイム家の今までの働きぶりが王に認められたのだ!」
わはははは、と笑う義父。その声につられて、シェーラも笑みを浮かべた。
「そうですよ、お義兄様。何も心配することはありませんわ!」
シェーラが義兄を安心させるように言うと、イアンは更に皺を深くした。
「だけど、シェーラ、僕はもう殿下と親しいから、婚約を結ぶ必要は……」
「ですが、より盤石にしておいても損はないでしょう?」
その言葉に、イアンは押し黙った。そしてしばらく考えると、落ち込んだようにため息をつく。
「……分かりました。ちょっと部屋に戻ります」
そう言って、イアンはくるりと踵を返した。
その、諦めの色を多く含んだ言葉に、シェーラは胸を押さえる。……痛い。喜んで、いただけると思ったのに。
いつもいつも、そうだ。義兄のためにやったことは、すべて裏目に出る。喜ばせようとしたのに、結局手を煩わせてしまうだけ。今回こそは、と思っていたのだが、どうやら今回も駄目だったらしい。
「お義兄様……」
ぽつり、と漏れた言葉は、義父の笑い声に消されて届くことはなかった。
ずっとずっと、愛していた。一目見たときから、ずっと。
だけど、それはあまり喜ばれることではなかった。貴族の結婚はそのほとんどが政略結婚。家の力を強めるために、家同士の結びつきを強くするために、婚姻を結ぶ。
シェーラもそのためにこの家に引き取られた。母を亡くし天涯孤独の身となったシェーラを、遠縁だからという理由とも言えない理由で育ててくれたのは義父だ。その恩返しとして、政略結婚をしなければならない。
――だけど。
「それでも、好きなんです……お義兄様」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。本当はこんなこと、人通りの多い昼間の公園で言ってはならないんだけど……我慢できなかった。もう、耐えきれなかった。
じんわりと涙が滲む。シェーラは慌てて目元をハンカチで拭って、しばらく押さえる。もう、これっきり。今後はこの想いを、厳重に、何重にも鍵をかけて、心の奥底にしまわなければ。
やがてシェーラはハンカチを離すと、パチ、と頬を叩いた。――お義兄様のためよ。お義兄様が、いずれ権力を手にして、幸せな生活を送るため。そのためなら、シェーラ、あなたはいくらでも頑張れるでしょう?
「……よし」
もう、大丈夫。きっと大丈夫。頑張れる。そう思って、シェーラはベンチから立ち上がった。サラ、と橙色のドレスが揺れる。もう、戻らないと。
明後日、王太子との初めての顔合わせがある。本当は今頃その準備に追われているはずだったが、ちょっと感傷的な気分になってしまって屋敷を出てきた。使用人も、義父も、皆シェーラの婚約を祝っている。だから、こんな姿を見せるわけには行けなかったのだ。
そしてシェーラが一歩を踏み出そうとした、そのとき。
「あの……シェーラ・アルハイム様、でしょうか?」
呼び止められて、シェーラはそちらを向く。そこにはとても可愛らしい顔立ちをした少女がいた。二つに結ったピンクゴールドの髪に、青い瞳。イアンと同じ色。
どきり、とシェーラの胸が跳ねる。まるでイアンに見つめられているかのような錯覚に陥るほど、その瞳は彼のものに酷似していた。
少女はじっとシェーラを見つめる。シェーラのものよりも幾分かランクが低い、赤のドレスが風に揺れた。
そんなどこか頼りなさげな赤色を見て、シェーラは首をひねった。
「はい、そうですけど……どちらさまでしょうか?」
シェーラが見慣れない少女に尋ねると、少女はほっと安堵の息を漏らす。きっと、シェーラだと確証がなかったのだろう。
そして彼女は数瞬視線を彷徨わせたあと、シェーラの瞳を見つめ、迷いながらも口にした。
「ええっと、その……単刀直入に聞きますが、『悪役令嬢』、ですよね?」
「…………はい?」
間抜けな声が、公園に落ちた。
ダンッ、と大きな音を響かせて、一人の男が室内に入ってきた。侍従が彼を止めようとしているが、如何せん彼はまだ十三。二十歳の男の力には敵わない。
普段は温厚な彼の瞳に珍しく怒りの色が見て取れて、王太子はくつり、と笑った。
「どうした、イアン?」
「どうしたもこうしたもありません。一体どういうことですか」
苛烈な瞳に、王太子は面白おかしく笑う。こいつのこんな表情を見れただけで、この提案を受けたかいがあるものだ。思わず口端が上がる。
「婚約のことか」
「ええ、そうです。すぐに破棄してください。あなたは私の想いを知っているでしょう?」
「ああもちろん。あんなとろけるような表情で熱烈に妹への愛を語られたら忘れようもないな」
「でしたら!」
「無理だ」
きっぱりと王太子は告げる。その顔には確かな決意が浮かんでいて。キリ、とイアンは唇を噛みしめた。
自らの想いを知っていて、彼は義妹と婚約した。きっと何かしらの思惑があるのだろう。彼はそういうやつだ。だけど、だからと言って受け入れられるわけがない。
「……せめて、婚約破棄なさるつもりがあるのかだけでも、教えてください」
その言葉に、王太子はニヤリと笑った。イアンは真っ直ぐな人間だ。他人の婚約者を――しかも義妹を寝とるようなことは、彼の矜持が許さない。だから、せめて二度と婚約破棄がなされない場合は、諦めようと考えているのだろう。……こんな人間が消化不良のまま諦めれるとは思えないが。
ああ、それにしても残念だ。王太子は心の中で呟く。この男を裏切らなければならないとはな。
「おまえの妹や、おまえの働きぶり次第だな」
イアンは俯き、拳を握りしめる。よほど強く握りしめているためか、ぽた、と血が一滴、絨毯に落ちた。
「さてイアン。おまえはおまえの姫を守りきれるか? 既に、姫は敵の手中だぞ」
そして楽しげに、愉しげに、王太子は嗤ったのだった。




