大晦日が終わらない!
大晦日の夜二十三時。
こたつに潜ってみかんを剥きながらコント番組をぼへーっと見てたら、携帯が震えた。
メッセージ。差出人はアホ。内容はこう。
『今から頼みごとするけど、絶対いいよって言ってね』
めちゃくちゃ断りてえー。
立て続けに次のメッセージ。
『二年参りと称して肝試ししよう』
『やだ』
簡潔な返信をした私は、食べかけのみかんをひょいひょい口に入れて、その横に置いてある温かいココアで流し込んだ。すごい味がした。何を思って私はこの組み合わせで間食してたんだ。そして名残惜しくこたつから足を引き抜く。同じくこたつに入っていたお母さんが私を見る。お父さんは初日の出を見るとか言って今のうちに寝ている。年越しの瞬間はどうでもいいのだろうか。
「あら、どこ行くの?」
「初詣行こうって言うからちょっと出てくる」
「あら、それあの優しそうなイケメンくん?」
うげえ、と私はあからさまに嫌そうな表情をつくった。そこには踏み込まんでくれ。
「あらあらあらあらあら」
テンション上げるのもやめてくれ。にやにやするな。お母さんの手が伸びて、太ももを叩かれた。
「あんた、昼くらいまで帰って来なくても全然いいわよ」
「いや、そういうんじゃないから……」
やり過ごして自室に向かう。今の私の恰好。上下学校ジャージにだぼだぼ半纏。さすがにこれで外に出るのは寒かろう。
ハンガーにかけっぱなしの学校カーディガンをジャージの下に着こむ。半纏も学校用のコートに取り替える。ついでに手袋、マフラー装着。やや下が寒いような気もするが、制服のときはこれにスカートなわけだし、それよりかはジャージを履いた今の方が暖かかろう。財布を持って、そのまま玄関へ。
体育で使っている運動靴を履きながら、リビングに呼びかける。
「んじゃー行ってくるから」
すると、どたどた足音を立ててお母さんがやってくる。寝てるお父さんへの配慮はないのか。
「外寒いからカイロ持ってきな。って、あんた、なんてまあ色気のない……」
「そういうんじゃないからって」
ありがたくカイロを受け取る。あったかい。
見送るお母さんにじゃ、と告げて、外へ。死ぬほど寒い。馬鹿にしてるのか。特に顔と下半身が重点的に寒い。カイロを額に貼るかパンツに貼るか選ぶしかない。何が二年参りだ。肝試しだ。吐く息が凄まじく白い。エクトプラズムだ。これにて今年の肝試し収めにはならないだろうか。
はあ、と夜空に溜め息をついて、急な冷気に潤った鼻をすん、と啜って、私は庭に置いてある自転車に乗って走り出した。
年末の駅周辺は閑散としている。構内から漏れ出して夜を照らす白光はかえって寂しくて、ひょっとすると私以外誰もこの街に住んでないんじゃないか、なんて錯覚を起こしそうになる。
階段下の駐輪場。何年放置されてるんだかわからないようなボロい自転車の中に、私の自転車も並べて置く。ロックは二重。二重でもパクられるときはパクられるというのは友達の実体験。
階段を上って駅ビルの中へ。誰もいない通路。右側にはフードコート。もう閉まっている。暗い。左側は自称ショッピングモール。二十四時までやっている。登場した途端、瞬く間に商店街をシャッター通りに変えた駅ビルだけど、営業時間の無駄な長さとかそういうところでコストを消費しているのか激しくテナントが入れ替わり、最近はなかなか借り手がつかないとかなんとか。どうでもいいか。
ショッピングモールの方に入ってエレベーターへ。指定は五階。すぐに着く。全国チェーンの本屋と百円ショップが入っている階。
そしてその本屋の新刊コーナーで悪趣味な本を立ち読みしている、コートを着た髪の長い男。悲しいことに見慣れてしまったその後ろ姿。その背中を持つ男の名前は島谷という。
「おい、来たぞ」
待ち合わせの相手である。私は島谷の太ももの裏に軽く膝をぶつけた。
「あれ。早かったね、百瀬」
振り返る島谷。そう言って私を見て、にやっと笑う。
「もしかして急いで来てくれた? うれしー」
「違わい」
腹立たしい勘違いに、私は見ろ、と自分の格好を指差す。着替えが適当だから来るのが早かったんだ、と伝えるために。
しかし、私の姿をつむじから爪先まで眺めた島谷の口から出てきた言葉は。
「今日も可愛いね!」
「喧嘩売っとんのか!」
ふふふ、と笑う島谷。こいつがこういう笑い方をするときは人をからかってるときだ。まともに取り合うと馬鹿を見る。経験に裏打ちされた正確な判断だ。
「……、まあいいや。とにかく初詣でしょ。とっとと行くぞ」
「本命はそっちじゃないんだけどね」
不穏な言葉は聞かなかったふりをして、目的の場所に向かうことにした。
何も買わずに本屋を後にする私たちを、ありがとうございましたー、とやる気のなさそうな店員の声が送りだした。
島谷という男について、私はそこまで詳しいわけではないと思っているけれど、しかしそれでも同級生のうちでは一番こいつのことを知っていると認めざるを得ないだろう。
クラスは二年八組。好きな食べ物は寿司。髪を伸ばしている理由はなんとなく。髪の茶色っぽい色合いは天然。人を呼び出したときは来るまで駅ビルの本屋で立ち読み。薬指と人差し指だと人差し指の方が長い。蛍光灯の色は黄色より白派。スマホは偶然にも私と同機種同色(最悪)。色々と島谷を分解する要素はあるが、そのなかでも際立っているのはこれだろう。
ノンフィクションオカルトホラーライター。
胡散臭いの山盛りポテトみたいなこの肩書き。しかし島谷はこの称号を引っ提げて、ニッチな場所でそれなりの地位を獲得しているとかなんとか。
最初の頃は実体験をオカルト雑誌に投稿するだけだったとかなんとか。それがウケて出版社からライター契約を持ちかけられたとかなんとか。それ以来色々怪しいところに首を突っ込んではちょっとした異常な体験をして、それを記事にしてるとかなんとか。
まあ私にとっては島谷がどこで何をしてその日のご飯を食べていようがどうでもよくて、重要なのは、島谷は変なやつで、かつ、その変なのが、現在私の横で自転車を漕いでいるということである(島谷がホームセンターでいくらのママチャリを漕ぐ姿は全然似合ってなくて、結構面白い)。
なぜそんな島谷の誘いにほいほい乗っているかと言えば。
……仇敵であるよりも恩人である方が厄介な人種というものが、この世には存在する。そういうことだ。深くは語るまい。
島谷が自転車を止めたのは、街の中心から離れるようにして十分ほど走った場所。小山のふもとだった。私はとても嫌な予感がして、島谷に尋ねた。
「……まさか、登んの? これ」
「そんなに高くないよ。十五分くらい歩くだけ」
そう言って島谷が指差したのは、街灯の点いたなだらかな登り道。夜の闇の中に照らされた山道はなかなか幻想的に見えなくもない。確かに、街灯が設置されてることを考えれば、山というよりは登り坂くらいの感覚で、島谷の言うとおりそこまできついものではないのかもしれない。しかし、どう考えても十分かけて山まで来て、十分かけて坂を登りたくはない。貴重な年末に何をやらされてるんだ私は。
「自転車はこの辺に停めといて。この間交番で聞いたらここ登るときは置いといてもいいって言ってたから。あ、でも鍵はかけといてね」
「やだ」
「お願い」
「…………」
なんでこんな押しに弱いんだ私は。
山道をえっちらおっちら歩き始めた、大晦日二十三時三十五分。
「この小山、山の中間と頂上の、そのまた中間くらいのところかな。結構上の方。御鏡様って呼ばれてる神社があるんだ」
「聞いたことない」
「地元の人もあんまり知らないみたいだね。せっかくだから初詣に面白いところがないかと思って聞き込み調査してたんだけど、一部の民話に詳しいお爺さんお婆さんが知ってたくらいだったよ」
できればそんな調査はしないで欲しかったし、仮にやったとしても私を巻き込まないで欲しかった。
街灯に照らされて、思ったよりもしっかりと整備された登り坂を危なげなく歩きながら、島谷はぽつぽつと語る。
「そもそも山自体に怪談話が多いし、特に大晦日に山に入ったりすると禁忌に触れて酷い目に遭うって話も結構聞くからね。肝試しにはちょうどいいかなって」
「おいやめろ。夜道で不安を煽るな」
「ふふふ」
ぶん殴りたい。
私がぐっと拳を握りしめると、しかし島谷は言葉を変える。
「まあでも、ここの山って新年は初日の出を見に結構な人が登るらしいからね。危ないこともないだろうし、気持ちだけだよ。気持ちだけ」
「なんだ」
まあ、そういうことなら。拳を解いた。
「で、そのミカガミサマ?ってどんな御利益あるの?」
「わからない」
「は?」
「話が残ってないんだよね。この街の民話集もチェックしたけど名前がちょっと書かれてたくらいだし、話を聞いた人たちも名前と場所くらいしか知らなかったし。御鏡様がどういう存在なのかほとんど情報がないんだ」
何の理由で私はそんなわけのわからない場所に連れて行かれているんだろう。何か悪いことをしただろうか。夜風が地道に顔の耐久力を削ってきて鼻水が出てきたし、瞳は冷えてるんだか落涙してるんだかよくわからない感覚がするし、本当に私は大晦日に何をしているんだろう。ポケットに入れたカイロを取り出して顔に押し当てたけれども、顔の皮膚が冷たくなりすぎているのか、あったかいんだか冷たいんだかよくわからない温感がした。
ふと後ろを振り返った。結構遠くに街の明かりが見えた。不意に心細くなった。
「……帰る」
「ひとりで?」
「…………」
「ふふふ」
こいつは鬼か。明らかに私の怖がる様を見て喜んでいる顔をしている。
「まあ、でもたぶん縁結びの神様あたりなんじゃないかなーと思うんだよね。鏡って嫁入り道具に使われたりするでしょ。名前との関連はそのあたりなんじゃないかなーって」
「えんむすび……」
別に縁を結びたい特定の誰かがいるわけではないけれど、そう言われるとなんとなくその気になってくる。
まあ、ちょっと行ってさっと帰るだけだ。早く済ませてしまおう。
「あ、見えた。あれだよ」
そう言って島谷が指差したのは、それまでの舗装された登り坂の横に、支流のように分かれていく獣道の続く先。それまでの登り坂とは違う、正真正銘、山の中と言ってもいいような場所。
暗闇の中、街灯の遠い明かりに照らされて、薄らぼんやりと浮かび上がる、二本の木に縛りつけられた古びた縄。
「ムリムリムリムリムリ! あれは無理!」
「ふふふ、可愛い」
「ほっこりしてんじゃねーよ!」
思わず島谷の脇腹に拳を叩きつけた。びくともしなかった。非力な自分が憎い。
「無理だろ! 鳥居すらないじゃん! 神社じゃないじゃん!」
「いや、そんなことはないよ」
私の抗議をさらっと受け流す島谷。
「鳥居っていうのは言ってみれば中と外を分ける門だからね。だからそういう点から見ればあの縄も形式はともかくたぶん原始宗教的な一致が……、あ」
しかし、その言葉の途中で何かに気付いたかのように声を上げた。
「な、なんだよ、『あ』って」
「いや、ごめん。勘違いしてたかも。御鏡様って縁結びの神様じゃないかもしれない」
もうこいつの発言のひとつひとつが怖い。黙っていてくれないだろうか。
「なんで」
「いや、たぶん嫁入り道具として鏡が使われ始めるのと鳥居の普及だと、鳥居の普及の方が先だから……。この場所ができた時点では鏡に縁結びの要素が……、どうなんだろう? どうなのかな? それとも初日の出に関連して太陽の象徴とか?」
「知らんわ!」
「だよねえ」
そう言って島谷はポケットからスマホを取り出して時間を表示した。時刻は二十三時五十七分。二年参り、つまり年の変わるころにお参りするなら、もう時間がない。島谷が私を見た。
「どうする?」
こいつ、もしかしてここまで私を連れまわしておいて、今更遠慮しているのだろうか。そんな感情が島谷の中に存在していたことに、私は曖昧な感動を覚えた。
そして、私の返答はこう。
「ここまで登って来て何もせずに帰るなんてアホらしいでしょ」
押しに弱くて、しかも引かれると押したくなる。私は一体どこまで、どこまで……。
先ほどまで怯えていた獣道の先へ歩みを進める。一歩先に歩き出した私に、すぐに島谷が追いついて横を歩き出す。
先ほどまでの舗装された道とは違い、踏みしめる地面は柔らかく、歩きづらい。しばらく歩いていたら足のひとつでも挫きそうなものだが、幸い街灯の明かりが届くくらいの距離しかない。
すぐに例の古びた縄が目の前に来て、私は一瞬も躊躇わずにその下を通り過ぎた。さっと行ってさっと帰る。足を止めれば恐怖が増えるのだ。
縄の先にあったのは、それほど広くない空間に、これまた縄を巻かれただけの、大きめの岩。周囲の木々が、もともと乏しい夜空の月と星の光を覆い隠していて、かなり薄暗い。私と島谷の背が陰になって街灯の光を遮ると、岩の灰色すら闇に溶けてしまいそうだ。
そして私たちは岩の前に立つ。
島谷がスマホを取り出す。二十三時五十九分。
それを確認して、私はパン、と手を打ち、目を瞑って拝み始めた。島谷の話を聞く限りでは体系立った祀られ方をしているわけでもないみたいだし、形式にこだわる必要はないだろう。
そして願い事をかける余裕もほとんどなく、漠然と「良い新年を」なんて考えながら二百秒をゆっくり数えて、目を開ける。
目が、見えなくなったのかと思った。
「し、島谷?」
「大丈夫。ここにいるよ」
隣から島谷の声がするやいなや、手を握られる。そしてその隣でスマホの画面の眩むような光が見えて、視力に問題が出たわけじゃないとわかった。それでも、その光を以てしても、自分の足すらも暗すぎて全く見えないような、そんな闇の中に私たちはいた。
スマホの時計は、未だ二十三時五十九分を示していた。
突然街が深海に沈んでしまったように見えた。
島谷がスマホのライトで足元を照らしながら、危なっかしくふたりで手を繋いで戻ってきた正規の山道。そこで見たのは、消えてしまった街灯。そして、見えなかったのは、先ほどまでは見えていた、街の遠い明かり。
この山で、光を放っているのは島谷のスマホ。そして月と星だけだった。
「ど、どうなってんの……」
「怪奇現象ってのは百回に一回当たりが出たら多い方なんだけどさ」
ふふふ、と声が聞こえ、暗闇の中でも島谷の腹立たしいやたら綺麗な笑顔がそこにあるのがありありと想像できた。
「当たり引いたみたいだね」
「笑っとる場合か! もうちょっと悪びれろ!」
「言っておくけど僕は最後一応止めたからね。 爆弾を見つけてきた人と、その起動スイッチを押した人。悪いのはどっち?」
「……九対一で、お前」
「七三くらいが妥当じゃないかなあ」
ぐぬり。島谷が珍しく見せた遠慮の気持ちみたいなのも罠だったのだ(意図していたかは別の話だが)。結果として、私は半ば自分の意思でこの状況に足を踏み入れたと言っても誇張ではない。心情的には大いに不満の残る分析だが。
「……まだ、怪奇現象って決まったわけじゃないし」
「非現実から逃げちゃ駄目だよ」
そう言った島谷はスマホの画面を私の目の前に差し出す。眩しい。逃れようのない時計表示、二十三時五十九分。
「バグってるだけかもしんないじゃん」
「百瀬のはどうなってる?」
言われて、私も自分のスマホを取り出す。……二十三時五十九分。残念ながら。
「……同機種だし、同時にバグってもおかしくないでしょ。年越しのプログラムに問題があったとかじゃないの」
「二千年問題の話?」
自分でも無理のある説明だと思ったが、けれど怪奇現象がどうとか言われるよりかはずっと説得的だろう。世の中の不思議の十割は些細な出来事の偶然の重なりで構成されているに違いない。
「まあ、そんなに認めたくないって言うなら降りてみようよ。それではっきりするでしょ」
島谷のその言葉に、私はええ、と顔をしかめた。伝わってないだろうが。
坂下を見る。『一寸先は闇』の成り立ちがよくわかる暗さだ。
「危ないでしょ」
「大丈夫。来るとき道覚えたし、なんなら目を瞑ってても降りられるよ」
そう言った島谷は私の手をつかんで、すぐに歩き出した。
軽く腕が引っ張られる感覚を覚えながら、私は思った。変な人間ってのは得だな、と。変人っていうのは、大抵の場面において状況よりも自分自身の方が変だから、私と違って落ち着いていられるのだ。
まあ、今は何も言わずに頼りに……、できるか?こいつ。
深海のような夜道の中で。
私は夜空の月と星が、こんなに明るいということを初めて知った。そして、同時に、私たちの暮らす地上が本来どれだけ暗いものなのか、ということも。
私は左手を島谷と繋いでいる。空いた右手。驚いたことに、この夜の下では、自分の右手すらも腕を伸ばした状態では輪郭が薄ぼんやりとしている。手のひらをぐっと顔に近付けてみても、手相の一本も見えたりしない。
左手を放してしまえば、島谷を二度と見つけられなくなってしまいそうで、私は力強くその手を握った。なんだか子供みたいで恥ずかしくなったので、握りつぶしてやる!ってくらいの気持ちで握ったけれど、まるで相手にされていないようだった。非力な自分が憎い。
行きは十五分かかった。帰りは何分かかったのだろう。体感では二十分以上。しかし、時計の止まった今では、その実際の時間を知るすべはない。
山の麓に着いた。そして、自分たちが停めた自転車を、スマホのライトで照らし見ていた。凍りついた表情で。
自転車が、ボロボロに錆びついていた。
駅の駐輪場にだって、こんな有り様の自転車はなかった。そこに自転車を置いたのが私たちでなければ、それが自転車だったことにすら気付かなかったかもしれない。
そして、それは確かな非現実の合図だった。
「僕の八千円が……」
こいつには緊張感の『き』の字もなかった。声が割と本気で悲しんでいるトーンだったのが腹立たしかった。というかこいつは自腹で自転車を買ったんだろうか。ちょっと偉いと思った。
しかし、私はその光景を見てもなお、まだ諦められない。まあ正直心の底では「これたぶんヤバいやつだよ……」と認めているような気がしなくもないが、しかしそれでも諦めるもんか。諦めなければ夢は叶う。
「……街の方行ってみよ。人、いるかもしれないし」
「どうせいないと思うけど」
「あーあー聞こえなーい」
ここの山も、そこまで街外れの場所にあるわけではない。十分も歩くと、市街地と言い張れるくらいの場所に着く。
街には誰もいなかった。誰もいなくなっていた。
通りを歩いている人は誰もいないし、周囲の建物から全く生活音も漏れてこない。静かすぎて耳鳴りがするくらいだ。普通の夜でさえこんなに静かな日は少ないだろうし、まして大晦日の夜にここまで街から人気がなくなるとは思えなかった。
島谷との待ち合わせのために駅ビルに着いたときは、この街に自分ひとりみたいだ、なんて思ったけれど、とんでもない。あのときは明かりもあったし、少ないながらも店員の人影があった。本当に街にひとりというのはこういう状況で使う言葉なんだ。まあ、ひとりじゃなくてふたりなんだけど。私じゃない方のもうひとりは、のんきに鼻歌なんか歌ってる。
「……いない」
「どうせいないって思ってたくせに」
呟いた私に、ふふふ、と笑って島谷が容赦のない言葉を投げてくる。確かに、そもそも「いるかもしれない」なんて弱気な言葉を使った時点で私の負けだったのだ。何の勝負だ。
それにしても暗い。来るときに見たはずの建物群が、ほとんど全部ただ真っ黒なだけの置物に見える。個性を剥奪された建造物がいっぱいだ。私もスマホを出して周りを照らそうとすると、しかし島谷に止められた。スマホの電池も無限にあるわけじゃない、先のことがわからない以上節約した方がいい、と。ごもっともな意見ではあるのだが、こう暗くては何もわからないんじゃないか。けれど。
「そんなことはないよ」
と島谷は言う。
「僕はこの辺の建物配置をほとんど覚えきってるんだけど」
「きも」
「ふふふ。シルエットを見る限りほとんど建物の配置は変わってないんだ。でも、例えば、ほらそこの」
そう言って、ひとつの建物にライトを当てる。
「ここはコンビニのはずなんだけど、全然人の気配がしないでしょ? ちょっと近付いてみようか」
「えっ、マジで」
「マジマジ」
何か襲ってきそうで怖い。私はいざとなったらこいつを盾にして逃げようと、島谷の背中に隠れるように着いていく。
「ほら、ここノボリがないんだよね。年末おでんセールの広告が立ってたはずなんだけど。それで、上の方を照らすと……、今度は店名の看板?って言ったらいいのかな。表示もない。中も見てみよう」
よくそんなの覚えてるな、と感心していると、島谷のライトが店内を照らすように向けられた。
中には、何もなかった。
「まあ、こうだろうね。改装中みたいにまっさら。レジも棚もない。言っておくけど来るときはちゃんと営業してたからね」
「えーっと、つまり、どういうことがわかるわけ?」
「人間だけがぽっつりいなくなったわけじゃないってこと。地形とかはそのまま残ってるけど、建物の細部が違うんだ」
「つまり?」
「二十三時五十九分に僕たちが取り残されたんじゃなくて、二十三時五十九分に僕たちは違う世界にいる可能性が高いってこと」
「??????」
私の全然わかってませんみたいなオーラを感じ取ったのか、島谷が丁寧な説明を始める。
「最初に思ったのは、二十三時五十九分に僕たちだけが取り残されたって可能性だったんだ。他の人たちはちゃんと新年に進んでるのに、僕たちだけが進めずにいるって可能性。停滞するタイムトラベルってところかな。でも、それにしては今僕たちが見ているのは、本来あるべき二十三時五十九分の風景じゃない。ということは、二十三時五十九分の瞬間に、時計が動かなくなったりすべての電気が働かなくなるような不思議な空間に僕たちが迷い込んでるって可能性が高いんじゃないかなってこと」
「…………。 ??????」
「……、ここは僕たちの知ってる街のように見えて、実はそうじゃない。妙な世界に迷い込んでるって可能性が高いんじゃないかってこと」
「ああ、うん。なるほど、わかった。うん」
短くまとめてくれればわかるのだ。まあどういう違いが生じたのかはわからないが。
「となると、やっぱり御鏡様が鍵になるのかな……」
「戻る?」
「いや、多分今戻っても大した意味はないと思う。ただあの縄を越したことがこの世界に迷い込んだ原因なら、そのあともう一度越した時点で戻ってきてるはずだし……。ううん、でも境界を跨ぎ直したのになんで戻れないんだ? 何か条件があるのか……」
なんかブツブツ呟いている。よくわからないがオカルトはオカルトでルールがあるのだろうか。
そしてブツブツ呟き終わると、島谷は言った。
「まずは正統派のアプローチをしてみよう。百瀬、年越し蕎麦食べた?」
「は? ……いや、食べてないけど。何言ってんの?」
「大晦日を終わらせるなら年越し蕎麦を食べなくちゃ。そのへんのコンビニとかスーパー片っ端から当たってみよう」
行くよーと言ってまた歩き出す島谷。どこが正統派なんだか私にはさっぱりわからなかった。
それからだいたい体感一時間くらい? もうだいぶ時間の感覚がわからなくなってきた。
結論から言うと。
蕎麦は全く見つからなかった。そもそもこの状況でカップめんでもなんでも蕎麦を発見したとしてどうやって食べるのかは謎であったが。
その代わり、調べた限りこのあたりのすべての建物がさっぱり中に何もなくなっているということがわかった。コンビニだけじゃなかった。スーパーだろうがカラオケだろうが普通の会社?っぽいところだろうがどこだろうが中身はまっさら。食べ物どころか、机も椅子も、ゴミ箱も何も置いていなかった。鍵がかかってたらどうやって建物の中に入るんだ、なんて心配もしていたけれど、なんてことはない。外から見るだけでまっさらさらさら一目瞭然だった。
「何これ。ゴーストタウン?」
「そうだね。全く生き物の気配がしない。人間だけじゃなく野生動物の痕跡も見当たらないし、ここはガワだけ真似たハリボテの無生物世界なのかもしれないね」
「当たり前みたいに妙なことを言うな」
「妙な事態になってるんだからしょうがないよ。流石にここまで露骨な怪奇現象に巻き込まれたのは初めてだ。これ書いたら『ノンフィクション』の名に偽りあり!とか言って叩かれそうだなあ……」
んなこたどうでもええわい。
「で、どうすんの? 蕎麦」
「ないなら別にいいかな。よく考えたらヨモツヘグイになっちゃいそうだしね」
「よもつへぐい?」
「黄泉の国、まあ死者の国の食べ物を食べてしまったら戻れないって話で、拡大解釈すれば異世界の食べ物を食べるのも危ないかなって。ちなみにこういう話は日本神話の黄泉比良坂だけじゃなくてギリシャ神話でもザクロの話に……」
お前なにをさらっと危ないことさせとんじゃい!、と怒鳴ってやろうとした瞬間、気持ち悪いほど滑らかにどうでもいいことをペラ回していた島谷の舌が止まった。
「? どしたの」
「黄泉比良坂……? いや、まさか……。ヤマ、サカ、ヨル、ヤミ、鏡は内外のサカイ……?」
「おい思わせぶりに考えこむのやめろ」
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「やだ」
口では嫌と言っていても、たぶんそう言われると怒れないんだろうなあ、私、と悲しくなった。
島谷は声をひそめて言った。
「死んでるかも、僕たち」
思ったより怒れた。
「わかった。もう終わったことをくよくよしててもしょうがない」
「よっ、さすが百瀬。男前!」
「もっと気を使って褒めんかい」
「可愛い! 大好き!」
「…………」
「痛い痛い痛い」
一通り喚き散らしてすっきりした。そして私は人の鼻をつまみ上げたり下げたりするという効果的な暴力手段の存在に気付いた。現在進行形で使用している。
「とにかく、まだ死んだっていうのも本決まりじゃないんでしょ?」
「うん。それっぽいってだけで、まあ覚悟はしておいてよみたいな」
「何様なんじゃおのれはぁ……」
「痛い痛い」
とりあえず反射的に怒ってはみたものの、正直死んだとかなんだとか言われてもピンと来ない。ただでさえ現実に想像が追い付いていない状態なのに、そこにさらに想像を重ねられてもただわけがわからないだけだ。
「どーすんの、これ……」
「一番、僕と一緒に、永遠に二十三時五十九分の世界(死後)を幸福に過ごす。二番、二十三時五十九分から脱出して生きて新年を迎える。 どっちがいい?」
「二番」
「まあ、それなら行動するしかないよね。僕もこんな寒いところで永遠を過ごすのはそんなに趣味じゃないし」
「行動って……。何すんの」
「帰るんでしょ? だから帰る方法探そうよ」
「だからどうやってって言ってんの!」
ごす、と隣の島谷の太もものあたりに頭突きした。結構いい当たりだった。うっ、と呻く声が聞こえた。勝った。
ちょっと苦しそうな声で島谷が口を開く。太ももをさすってるっぽい。
「オカルトにはオカルトでそれなりのルールがあるんだ」
「で?」
「さっき僕が年越し蕎麦を食べようって言ったのもそう。今の状況の一面を取り出すと『大晦日が終わらない』わけだから、大晦日にやる儀式をこなすことで新年に進もうっていうのが第一手段かな」
「でも蕎麦はないんでしょ」
「そうだね。さっき言った通りヨモツヘグイになるかもしれないし。というわけで除夜の鐘でも試してみようか。一旦ライト切るよ」
そう言った瞬間、島谷のスマホから強い光が消える。そして暗闇の中に島谷の顔がぼうっと浮かび上がった。スマホを操作していて、画面の光が顔を照らしているのだ。こいつ下から光当てても美形なのかよ、とちょっと腹が立った。
「じゃ、いきまーす」
次の瞬間、島谷のスマホからジリリリリ、と突然着信ベルが鳴りだした。心臓が縮みあがった。島谷の鼻をつねり下げた。
「いきなりびっくりさせんな!」
「いてて、いきますって言ったじゃん。五かーい、六かーい」
「何数えてんの?」
「煩悩百八」
「……除夜の鐘ってそんなんでいいわけ?」
「ベルは鐘でしょ。見立てだよ」
そんなわけあるかい、と思ったがオカルトオタクのこいつが言うならそれもアリなのかもしれない。私は知らん。全然知らん。
ジリリリリ、とベルの音と、四十よーん、四十五ーと島谷のカウントが響く。
そして、
「百ろーく、百しーち、ラスト、百八」
数え終わったけれど。
「……何もないじゃん」
「残念。 まあ除夜の鐘って仏教行事だったはずだしね。御鏡様の祀り方は原始宗教っぽい感じに見えたし……。まあこれで帰れたらラッキーくらいの気持ちだったし、気にしない気にしない」
マイペースだな、こいつは。完全に独壇場だ。私が口を挟み込む余地はない。
「で、次はどうすんの?」
「御鏡様の正体探りかな。十中八九この状況に絡んでるだろうし。もしくはこの土地特有の大晦日の行事探し。図書館に行って文献漁ってみようか」
「えー……。 また歩くの?」
このへんの図書館って言うと、たぶん駅周りの市立図書館だろう。自転車だったらすぐだけど、歩いたら十五分くらいかかるんじゃないだろうか。正直山を上り下りしたり街の中を歩き回ったりで足がだるい。
不満を漏らすと島谷はふふふ、と笑い。
「抱き上げましょうか? お姫様」
「いらない。キモい」
「じゃあ行こうか」
結局歩く羽目になった。口では完全に負けている。
「さぶいー」
「百瀬、僕のコートも着る?」
「えっ、いやいいよ。それじゃお前が死ぬでしょ」
「いや、僕、人より寒さにも暑さにも強いから」
はい、と言って島谷がコートを脱いで渡してくる。暗いから手触りとシルエットくらいしかわからないけれど、なんかこいつ高そうなコート着てんな。お言葉に甘えちゃおっかなー、と着ようとしたけれど、片方の袖を通した時点で破れそうな予感がしたから、やっぱいいと島谷に返した。違う。コートの重ね着なんてしたら誰でもきつくなるんだ。そう。言い訳じゃなくて。下ジャージのポケットに入れたカイロを取り出して首元に当てた。途端に足が寒くなった。
「街の灯りが消えると星が綺麗に見えるなー」
島谷がのんきな声を上げた。ここまでマイペースだといっそ感心する。つられて私も空を見た。
確かに、そこには満天の星空っていうやつがあった。星ってこんなに綺麗に見えるんだ、って山道を降りているときも思ったけれど、改めてそう実感した。きらきら星の瞬く夜空なんて、テレビや漫画にしか登場しないフィクションだと思っていた。
「でも冬の星座なんてオリオン座くらいしかわかんないんだよね。あとは冬の大三角か」
私はオリオン座すらわからない。なんか悔しいから言わないが。ていうかプラネタリウムに昔行ったとき思ったけれど、あの星の並びで人とか犬とか言うの無理じゃないか? それとも、古代の人たちは、毎晩こんな夜空を眺めていたからそういう想像に行きついたんだろうか。隣に立つ人間の顔だって月の光でなんとかぼんやり見えるくらいじゃあ、そういうこともするかもしれない。
「百瀬は星とか詳しかったりする?」
「人並みには知ってる。遭難したときは北極星を見つければいいんでしょ」
どれが北極星かは知らないけど。
「ポラリスだよね。僕はどれがポラリスだかわかんないけど」
ポラリスって名前は聞いたことがある。漫画とかで。というかこいつも全然詳しくないらしいな。私と同レベルだ。オリオン座を知ってるからって調子に乗るなよ。
「それから冬の大三角ってあれでしょ。デネブ、アルタイル、ベガ」
「それは夏の大三角」
「…………」
墓穴を掘った。調子に乗ったのは私だった。
「じゃあ冬の大三角ってどれだよ……。言ってみろや、偉そうにしやがって……」
「逆ギレしないでよ……。えーっと、あそこの三つ並んでるのがオリオン座だから、それを中心に砂時計みたいな形で見て、左上のがベテルギウスでしょ。そこから左にびーって線引いてプロキオン。逆三角つくるみたいに右下に線引いてシリウス。これが冬の大三角」
「全然わかんない。頭おかしいんじゃない?」
「いや、頭おかしくはないけど……」
そんな広大な宇宙に向かって指差されてもわからんわ。だいたい指の形すらぼやっとしてるんだぞ。
「でも、自然の光は本当はこんなに輝いているのに、文明の光によって淘汰されてしまっているんだね。この本当の星空は、御鏡様からスレた若者百瀬への贈り物なのかもしれない……」
「お前今いい話っぽくして色々誤魔化そうとしてるな?」
「うん」
騙されんぞ。というか誰がスレた若者だ。自慢じゃないが私より温厚な人間はそうそういないぞ。普通の人間だったらとっくの昔にこいつを殴り倒してる。とりあえず島谷の脇腹を軽く殴った。非力。
「そういえばなんとなく言ったけど、この星空って本物なのかな」
また変なことを言いだした。
「いや、さっきの建物は、なんかハリボテみたいだったでしょ? だから今見てる星も中身があるのかなー、とか。宇宙人っていると思う? もし宇宙人がいるなら、その人たちもこの世界からは消えてるのかなー、とか」
「プラネタリウムみたいに天井に月と星を投影してたりするんじゃないの」
「天動説っぽい感じだね、それ。本当のところは確かめようもないけどさ。あ、着いたよ」
びっくりするほど緊張感と意味のない話をしていたら図書館に着いてしまった。裏手側から敷地に入ってしまったので、図書館の窓から中を覗き見ようとするが、こちら側はすべてカーテンがかかっている。
「どうすんの? ていうかなんとなくついてきちゃったけど、図書館だって他のところみたいに空っぽになってんじゃないの?」
「まあ、他に行くところもなかったからね。これも中身があれば御の字ってところで。表にまわってみようか」
言って、建物をぐるっと回って正面玄関前に立つ。結構大きいんだ、この図書館。
自動ドア越しに、ライトで照らして見る図書館の中の風景は。
「あれ? 中身ある」
「そうだね。普通にロビーだ」
入ってすぐ右側に窓口(シャッターで閉まってるみたいだけど)。並べられた安っぽくて肉の抜けた横長ソファー。枯れてる観葉植物が左右対称に何個か配置されている。左側は郷土資料展示コーナーだったと思う。そのままだ、たぶん。市のパンフとかが置いてある。
「なんで?」
「さあ。でも好都合だね。中入っちゃおう」
「え、マジで?」
「マジマジ。ていうかここで引き返したら何のためにここまで来たのさ」
「いや、そりゃそうだけど……」
外も怖いが建物の中も怖い。確かここのロビーは奥に大窓があったんだけど、暗幕カーテンでも張っているんだろうか、全く光が差し込んでいない。中の方が外より暗いのだ。
が、私のそんな不安もよそに、島谷は自動ドアを素手でこじ開けてしまう。
「あ、それ手で開くんだ」
「電気通ってないからね。停電のとき開かなかったら困るでしょ」
それもそうか、と思いながらこいつはよくそんなことを知っているな、と怪しんだ。なんかこいつ不法侵入慣れしてないか?
「じゃあ、行こっか」
「行ってらっしゃい」
「あれ、一緒に来ないの?」
「暗いし怖い」
「ひとりで待ってる方が怖いと思うけど……」
確かに。
外の方が明るいとはいえ、ふたりとひとりでは安心感が違う。しかももうひとりの方が意味不明なくらい神経が図太い人間なら尚更。
しかし。
中を見て思う。入りたくねえー。お化け屋敷だってもうちょっと視覚的配慮を施すぞ。というかさっきまで建物の中にひとつも物がなかったのに、なんでいきなりこんな風に中身が揃ってるんだ。怪しい。罠じゃないのか。
なんてことを考えながら迷っていると、また手をつかまれる。
「ふふふ」
図書館より怪しく笑う島谷に引っ張られるがまま。押しに弱いんだ私は。それはそれとしてこいつは私の手を気安く握りすぎだと思う。電車の吊り革とはわけが違うんだぞ。わかってんのかな。
ロビーに入って、左奥の通路が図書館へと続く。右奥は公民館だかなんだか言うところに繋がる通路。そっちは校外学習で小学生のころに三回くらい使ったようなってくらいしか縁がない。別に図書館に入り浸ったりしているわけでもないけれど。
通路の入り口に立った時点で、あっこれもう無理だなって思った。
「無理無理無理!」
声にも出た。
「頑張ろうよ」
無責任な励ましを受けた。いや、これは無理だ。あまりにも暗すぎる。さっきまで歩いていたところは、なんだかんだと言いながらも月と星の明かりがあったけれど、ここは違う。ロビー入り口の明かりも左折によってこの通路には届かなくなるから、スマホ以外の光源が一切なくなるのだ。完全な闇である。たぶん、スマホがなかったら自分の身体のどこだろうと視認することができない。隣に知らない人が立ってようが、圧迫感以外に知覚できる要素がない。
「大丈夫だって。ここの通路ちょっと行けばいいんだから。早足で行けば三十秒もかかんないよ」
「無理。三十秒以内に死ぬ」
「いけるいける」
「あっ無理無理無理、ほんと無理ですお願いしますあっ死ぬ」
お構いなし。島谷はてってこてーと歩いていく。私の手を引っ張りながら。スマホを懐中電灯にして島谷は進む。明かりがちらちらと周りのものを映していく。大体は足元。あと貸出カウンターと本棚がちらっと見えた。島谷の足取りに迷いはない。こいつは図書館の間取りも完全に覚えきっているのだろうか。正直頼りになる。元凶はこいつなんだけどな。
島谷が足を止めた。そして、シャッ、と音がして、か細い明かりが目に入った。カーテンを開けたのだ。それまでは全部閉まっていたらしい遮光カーテン。一ヶ所開けただけでもだいぶ明るさが違う。ありがとう月と星。
「ほら、大丈夫だったでしょ」
「鼻水出てきた」
「ハンカチあるけど」
はい、と渡されたハンカチで遠慮なくぐしぐし鼻のあたりを押さえるように拭った。なんかこれも高そうな手触りがしたけれど、もう気にしないぞ。気にしてやるもんか。
「で、何すんの」
「民話の棚を調べて御鏡様のことを一応。それから他の民話と照らし合わせて、話が成立した具体的な時期とか特定しようか。ああそれからこの地域特有の大晦日の行事。そんなのなかったような気もするけど一応ね。それから神話とか民俗学の棚を漁って鏡に関する文化史なんかを見つけられればいいんだけど」
「長い。わかんない」
「手分けする?」
「しない。無理。怖い。わかんない」
「じゃあスマホ持って手元照らしておいてくれればいいよ。はい」
と言ってぽん、とスマホを渡される。自分のと同機種だから手の収まりがいい。
「じゃあ、移動しようか。ちょっと先の足元だけ照らすようにして。ここは海外文学の棚の奥だから、来た道戻ってすぐ正面の棚ね。児童書コーナーの横のとこ」
ここの図書館の構造について。通路をまっすぐ来て、右側のカウンター、左側の絵本の読み聞かせ部屋を通り過ぎると、新着図書が二棚くらい、それと検索用のパソコンが置いてある。そこから奥に向かって半円を描くように棚が広がっていく。今私たちがいるのは、そのパソコンのまっすぐ右に行った突きあたりの窓のところ。窓の前には書籍閲覧用の机が置かれている。で、左側の方は、半円の左下のあたりから一部を長方形のスペースに食われていて、そこは児童書コーナーになっている。靴を脱いで上がるのだ。私が図書館を使っていたのはこのあたりの本を読んでいた時期。読書感想文とかのために。ここの児童書コーナーの長方形は絵本部屋の奥まで食い込んでいるけれど、パソコンの場所から大体まっすぐ左に進んだところと、絵本部屋の奥の二ヶ所しか入り口はない。
何が言いたいかといえば。
「えっ、ここのカーテン一ヶ所開けたくらいじゃあそこ全然光届かなくない? 真ん中らへんじゃん」
「まあ、確かに相当見づらいだろうね。本取ったらこっちに持って帰ってきて読もうか」
「いや、そうじゃなくて。え、カーテン開けた意味なくない? 暗くない? 怖くない?」
「セーフハウスができたじゃん。怖くなったらここまで逃げればいいよ」
こんな頼りないセーフハウスがあるか。
「とりあえず全部カーテン開けよう。話はそれからだ」
「別にいいけど、大して変わんないと思うよ? 下のカーテンは開けられるけど、上の方は開け方わかんないし」
私はやたらと高い天井をにらみつけた。暗くてよく見えない。けど閉め方が甘かったのかちょっとだけ光が射してる場所があった。完全電動ならああはならなそうだし、手動で開ける手段もありそうなものだけれど。しかし、島谷がわからないんじゃあどうしようもない。他力本願。
「開けないよりはマシ」
「まあ、いいけどさ。じゃあ机に沿って歩いてくだけだけど、一応足元照らしてね」
「任せとけ」
カーテンの開くのが二ヶ所、三ヶ所。結構劇的に明るくなるじゃないか。暗闇に目が慣れてるっていうのもあるだろうけど。何がそんなに変わらないだ。
児童書コーナーを区切る壁まで辿り着く。これで児童書コーナー、絵本コーナーを除く開けられるカーテンは開けた。児童書コーナーは結構背の高い本棚だったり壁だったりで囲われてるから開けてもこっち側には大して影響ないだろう。
島谷が口を開いた。
「あ、こっちは哲学・歴史分類か。こっち先に調べちゃおうか」
(比較的)明るい方なら大歓迎。任せておけよ、と胸を叩いて、さっそく振り返って棚の方をライトで照らす。
そして。
「――――――!!!!!!!!」
「うわっ、びっくりしたあ」
声にもならない、喉が震えるだけの叫び声が出て、けれど島谷ののんきな声でなんとか正気を保てた。
とっさに外してしまったライトの光をもう一度、棚の方に向ける。
皮膚を裏返しにしたような、剥き出しの人間が立っていた。
動悸がひどい。顔が強張る。悲しくもないのに勝手に涙が出てきた。膝ががくがく震えている。今、体勢を崩したら、たぶん立ち上がれなくなる。
目を逸らすこともできず、光を当て続けていた私の手から、島谷がスマホを取り上げた。
私と違って、島谷は観察するようにその『剥き出し』にライトを当てていく。
「光に反応しない。視覚はないのかな、って、眼球がないのか。 頭の形的にはあってもおかしくなさそうだけど。直接当てても反応しないなら、ミミズみたいに視細胞が体表にってわけでもなさそうかな。鼻はあって、げっ、口が開いてるのか。身体はそんなに変わりは……、なんだこの下半身。根を張ってるのかな」
「お前、よくそんな……」
「こういうの夢によく出てくるんだよね。これ、近付かない方がいいよ。光にも音にも反応してないみたいだけど、生命活動をしてるなら、嗅覚は生きてるかもしれないし、暗くてよく見えないだけで周りに感覚毛とか張ってるかもしれない。ハエトリグサみたいに」
「言われなくても近付かないけど……」
いつも通り気持ち悪いくらい滑らかに喋る島谷の声を聞いていたら落ち着いてきた。こいつの口ぶりは近所の野良猫の生態を語るようなそれなのだ。
けれど、依然として『剥き出し』はそこにいる。今までの光景とは違う。日常生活の延長線上には絶対に存在しない物体が。思わず私は口にしてしまった。
「これ、夢?」
「少なくとも百瀬の夢じゃないなあ」
端的ながら、これ以上ない否定の言葉が返ってきた。わかっていたけれど。
「まあ、これがなんなのかさっぱり心当たりもないしね。かなり人間っぽいけど、足を見ると植物に見えなくもないし。気にせず民話の方調べてみようか。もしかしたらこれに関連する話もあるかも」
できるか、そんな器用な真似。
島谷のライトが照らす『剥き出し』の足元は、肌色(暗さで色合いが曖昧にしか見えないのは幸いだった)がねじくれて、一本の木の幹のようになって、図書館のマットの上に張り付いている。確かに、植物的に見えなくもない。
「行こう」
「やだ」
また手を引かれる。どうしようもないのだ。駄々をこねても帰れるわけじゃないし、こいつの近くにいるのが、今この場では間違いなく一番安全だから。着いていく。
『剥き出し』を避けて隣の棚を通り過ぎようとした島谷だが、すぐに足を止めた。
隣の棚にも『剥き出し』がいたのだ。
「コンボだ」
ぼそりと、緊張感のかけらもない言葉を呟いて、島谷はさらにもうひとつ隣の棚に移動する。
そこにも『剥き出し』がいた。
「ビンゴだ」
「ぶふッ」
一連の流れにちょっと笑ってしまった。ていうかツボった。頑張って笑いを押さえこんでいるけれど、前のめりになって腹筋が震える。つりそう。表情筋も痛い。
人は想像の外の恐怖に見舞われていると、笑いのツボが浅くなる。あまりにも切羽詰まっていて、一生知りたくないような豆知識を得てしまった。
一応確認を、とかなんとか言って島谷はぐるりとすべての棚をまわって確認した。実に半分以上の棚の間に『剥き出し』が陣取っていた。最初にカーテンを開けに行くときに遭遇しなかったのは幸運というほかない。完全な暗闇の中であれを見ていたら、たぶん今頃腰を抜かして全く動けなくなっている。
「なんなの、あれ……」
「なんだろうねえ。まあ動かないうちはいいけどさ。百瀬、僕の手元照らしておいて。流石に本の並び順までは覚えてない」
「あ、うん」
言われて、スマホを受け取り島谷の手元を照らす。島谷は迷いない手つきで本を選びとっていく。私には似たようなタイトルの本が並んでいるようにしか見えないが、下調べのときに使えそうな本を選んでおいたのだろうか。
「こんなもんかな。窓際に戻って読もうか」
「え、アレの近くで読むわけ?」
「最初の棚の、海外文学のあたりはアレいなかったし、あのへんならいいでしょ」
「まあ、そんなら……」
窓際の閲覧机に十冊くらいの本をどさっと置く島谷。手元を照らしておいて、とだけ言うと、ものすごい速度で本をめくりだした。目次で一瞬だけ止まって、バラララッ、と一気に飛ばしたり、手を止めたかと思えば見開きを一秒もかけずにめくり続けたり。
「それ、読めてんの?」
「んー? まあ」
気のない返事。こいつは基本的には人の話をよく聞くやつなので(その上で無視したりはぐらかしたり強引に誤魔化したりするが)、本当に集中しているんだな、と思い黙ってその様子を見ていた。
十分もかかっていないんじゃなかろうか。島谷は持ってきた本のすべてに目を通してしまった。
「うーん」
「なんかわかった?」
「やっぱり御鏡様ってかなり古い話なんじゃないかなあ。これ見て」
言われて見たのは全然関係なさそうな話。蛇がどうのとか。
「この話はまあ簡単に言っちゃうと祟りがあって、それを現地の有力者が収めましたって話なんだけど」
「うん」
「他の祟ったり妖怪が出てきたりする話と違って、お坊さんがまったく出てこないんだよね。あんまりこういう文献調査に詳しいわけじゃないからあてずっぽうなんだけど、もしかしたらこれは仏教の影響が小さかった時代の話なんじゃないかなって」
「古い話ってこと?」
「予測って言うよりも素人の想像だけどね。土地の有力者が霊的な働きをするっていうのもそれっぽいし。で、この話の最後では社を作って祟りの原因になった神様を祀ってるわけ。 そうすると、この暫定一番古い話にも社を作る宗教文化があったってことになる」
「で、御鏡様のところにはそういうのがないから、もっと古いんじゃないかってこと?」
「うん。 あそこはただ御神体があるだけで、神社は別にあっていつの間にかそっちの方だけが消えちゃったって可能性もなくはないけど。 でも鳥居すらないしね」
今回の話はわかった。他の民話と比べて出てくる要素が古そうだと、そういうことだ。
「で、それで何がわかったの?」
「除夜の鐘じゃあどうしようもないのかなあ、って。本当に原始宗教レベルの話なんだったら地域ごとに大晦日の過ごし方なんて違いそうだけど、そういう伝承は見当たらないし」
つまりお手上げってことだ。わかりたくなかった。
「やっぱり鏡の方面からアプローチするしかないのかな。鏡の文化史とか図書館に置いてあるかな」
「えぇ……。 アレの棚でしょ?」
「あるとしたらあのへんだよね。そう言えばアレに関する民話も全然なかったね。植物系の話なら、と思ったけど花の話くらいしかなかったし」
花の話。どうせ不思議なことに巻き込まれるならそういうファンシーで心温まりそうなのがよかった。
「しょうがない、あっちを調べてみるか」
「やだ」
「あ、うん。これはさすがにいいよ。そのへんで待ってて」
そのへんってどのへんだよ。まあそれなりに近くにいればいいか。いざとなったら走って逃げられそうなあたり。
じゃあ行こうか、と動き出す島谷。その前に私はちょっとした抵抗を試みた。できればもう『剥き出し』を見たくないし、ここで答えを出してくれないだろうかと。
でもどういう思考が答えに結びつくのかわからず、結局口にしたのは一番気になってる『剥き出し』のこと。
「島谷はアレなんだと思う?」
「ええ? なんだろね。かなり人型っぽいけど、どうやって生命活動してるのかよくわかんないし。ていうかアレ呼吸音出してた? 死んでるのかな」
いや別にそんな細かい生き物的な判別を聞きたいんじゃなくて。
「お前の無駄知識の中にそれっぽいのないの?」
「えー? あれと似たようなのが存在してたら大騒ぎだと思うんだけどな。あ、そういえばアレが何かはわかんないけど、アレがなんでここにいるのかもわかんないよね」
「? どゆこと?」
「いや、さっきまで動物も人も全然いないって話をしてたじゃん。それがいきなり目の前に人型が出てきたら不思議だなーってならない?」
「ああ、そういう」
変な空間だし変な生き物がいてもおかしくないだろう、という風に受け取っていたけれど、確かに『生き物がいない、建物の中が空っぽという点で奇妙な』世界で、生き物がいるのはおかしい。
「それ言うなら図書館もなんで中身あるのか不思議じゃん」
「そうだね。図書館自体が変なのかな。もしかしたらやっぱりここに手がかりがあるかも」
そう言うと、島谷は歩き出してしまった。作戦失敗。フットワークが軽い男を止めることはできなかった。優男な外見の割に足で真相に迫るタイプだこいつ。
はあ、と溜息をついて、後に続く。思ったより溜息が白くならなかったことを不思議に思ったが、何のことはなく、屋内だからだろう。ふと窓の外を見る。そう言えばもう二十三時五十九分の世界に来てから体感では結構な時間が経つが、星や月は動いているんだろうか。オリオン座も見つけられない私にはさっぱりわからなかった。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
「さっき宇宙人はこの世界にいるか、とかいう話をしたじゃん。もしかしたらアレ宇宙人なんじゃないの」
何の気なしに口にした。馬鹿馬鹿しいけど、こんな状況ではこのくらいゆるい発言も許されるだろう。
島谷はそれを聞いてふふふ、と笑った。
「それ最高だね。じゃあこれを写真に写してテレビ局に持ちこんだら、僕ら一躍億万長者かも」
「どうだか。謎の組織とかに消されるかもよ。それかそもそも写真に写らないかも。そういうの定番じゃん」
「どうかな? 試してみよ、」
「えー、いいよ。呪われそうだし、って、なに? 島谷、どうかした?」
唐突に話の途中で黙り込んだ島谷。ビビらせるな、と背中を平手でたたくと、くるり、とこちらに向き直った。や、やる気かこいつ。
「そっか。プラネタリウムと写真。鏡は映すものだったんだ。 難しく考えすぎてたのかも」
「え、なに?」
「いや、わかったかもしれない。出る方法」
「マジで!?」
「マジマジ。しかも図書館が一番やりやすいはず」
「やるじゃん!」
私は島谷の肩をバンバン叩いた。今日一番のハッピータイムだ。今なら島谷に……、いや、別にこいつにしてやることは何もない。冷静に考えてこいつが引き起こした事態をこいつが解決しただけで褒める要素はどこにもない。騙されるな私。そしてもう二度と妙な思い切りを発揮していまいち全責任を島谷に負わせられなくなるような迂闊な行動は取るな。
とにかく、これで脱出できる。はずだ。
「で、どうすりゃいいの?」
「うん。カウンターの奥に入って書庫の鍵を探そう。あれは確か完全に地下に潜ってるは、ず……」
話の途中で島谷が声をひそめた。私も、えー地下とか絶対怖いからやだ、なんてのんきな考えを吹き飛ばされた。
足音が、した。私たち以外の、足音が。
重い足音だった。私と島谷の体重を合わせたのよりもずっと重いだろう。これは人間の足音か? その姿、大きさを足音から想像するのは困難だった。
方向は、よりにもよって図書館の入り口側の方。これから通過しなくちゃいけない方。
島谷は、私を庇うようにして前に出た。そして、スマホをスリープに入れる。これで明かりは窓から降る月と星の光だけ。暗闇に慣れた目でも、私には島谷の背中がどういう感情を表しているのかわからなかった。
足音を殺して島谷は窓際から、本棚を盾にして進んでいく。私もその背中に張り付くようにして続く。
そして、ごく慎重に、本棚から一瞬だけ、顔を出して、足音の先をうかがった。
そのシルエットは、体高三メートルはあるだろう巨人だった。
巨人というのはあまり正確ではないかもしれない。前傾姿勢を取っていて、前腕はだらん、と垂れている。類人猿のシルエットの方が近いだろうか。体高と表現したのはそのためで、たぶん直立したら四メートル近いかもしれない。ここが図書館じゃなかったら、その前傾姿勢でも普通の部屋には入れない。そのくらいの大きさだ。
異常な威圧感だった。動物園で見た象とどちらが大きいだろう。しかし、間違いなく恐怖感をあおるのはこっちだ。二足で歩いている。たぶん、知能が高いんだ。そして、足音はやまない。ゆっくりとだが、私たちのいる方に近付いてきている。
メチャクチャだ。『剥き出し』を見たときよりも遥かに動揺した。
死ぬ。
ただそう思った。そのあと、少し遅れて、死にたくない、って。そう思った。
何も考えられなくなって、島谷のコートを、破れそうなくらい強く握りしめていた。
「大丈夫」
耳元で、島谷が囁く声が聞こえて、我に返った。島谷は続ける。
「僕がアレを引き付けるから、その間に百瀬は児童書コーナーを経由して、絵本部屋から出てカウンターの奥に向かうんだ」
「え、な、む」
「できるよ、大丈夫。アレは絵本部屋から出てきたみたいだから、絵本部屋も何か変わってるかもしれないけど、動揺しないで進んで。それでカウンターの奥の部屋に行ったら書庫の鍵を探して。右手に鍵箱があると思うけど、たぶんその下に鍵箱の鍵があるから。なかったら左奥の勝手口から逃げて。あったら右奥の通路進んで書庫に入って。たぶん周りの光が一切入らない密閉空間に入れば帰れるはずなんだ。逃げたときもどこかでそういう場所を探して。入った時点で元の世界に戻れなかったら、着信ベルを百八回鳴らして、それでもダメだったら僕の勘違いだ。悪いけど自分で帰る方法を探してくれ」
「わか、だって、そ、おま」
「ふふふ、大丈夫。これでも結構、運動神経良いんだよ。百瀬が帰った後にどうにかして僕も帰るさ」
こんな状況でも全然変わらず島谷の声は。ムカつくくらいに余裕ぶった調子で。
「ほら、行って」
そう言った島谷に、奥の方へ身体を押し戻される。棚の奥、窓際からぐるっと回って児童書コーナーに進めということだろう。
時間があるわけじゃない。足音はゆっくりだけど着実に近付いてきていて。
「い、一緒に」
「あれがどういう視野をしてるかも動きをしてくるかもわからない。こっちの方が安全だ」
それで安全になるのは私だけだろ、って声にも出せなくて。
だけどどうしようもなく怖かったから、私の足は素直に窓の方に向いてしまって。
それでも、最後に私は尋ねた。
「怖く、ないの」
返答はなくて、私はそのまま島谷から離れていく。
足が震えてるけど、そんな場合じゃない。震えて死ぬのはまっぴらだ。いつでも走りだせる姿勢をしておく。さっき『剥き出し』が居座る棚の場所はチェックした。何の問題もない。
私は月と星の光で浮かび上がる島谷の背中を見ていた。あれが動き出すのと同時に、私も走ればいい。
島谷の右足が浮かび上がるのがうっすらと見えて、そして、小さな声が聞こえた。
「生きてるときは、いつも怖いよ」
引き裂かれた獣のような暴声が響いて、その瞬間にはもう私は走り出していた。
言葉の意味はわからなかったけれど、でも、あれがあいつの本音だってことだけはわかった。
走る、走る。本気で走ったのはいつぶりだっけ。高校に上がってからは少なくとも一度もない。ましてや屋内でなんて。
百メートルもない短距離走。BGMは獣の声と、肉の車の交通事故みたいな衝突音。緊迫感。緊張感。
走りながらスマホを動かしてライトにする。右手で持って前に向けた。少し走りづらくなった。
壁の突き当たりから数えて四番目の通路。ここには『剥き出し』がいない。走り抜けようとして、しかしブレーキ。児童書コーナーの入り口が一ヶ所しかないために、この四番目の通路の半分くらいまで駆け抜けなければいけないけれど、角度によってはあの巨獣から丸見えなのだ。
ちら、と顔を出す。依然衝突音も獣の声も聞こえるけれど、姿は見えない。走り抜ける。
本棚の切れ目で方向を変えて、再びパソコンを中心にした半円状の移動。右手に児童書コーナーを区切るような背の高い本棚がまっすぐ並び始めたら、そのまま道なりに直進。ちらちら音の方を気にするけれど姿は見えない。右手に児童書コーナーの入り口。靴は脱がない。第一段階はクリアだ。この先ですぐに左に向かえば、まず今の位置関係では巨獣の目には止まらない。
ダッシュ。さっとライトで中を照らしたけれど、幸いにも異常なし。走る。今度は左手。真ん中あたりに絵本部屋への入り口。
折れ曲がってすぐに、中を照らした。
そして、絶句した。
見渡す限り、『剥き出し』が生えている。
思考の停止は一瞬だった。そんなわけがないんだ。島谷はあの巨獣が絵本部屋から来たんだろうと言った。ということは、一面に、どこにも隙間がないなんてことは。
やっぱりだ。左手の壁伝いには動けるスペースがある。
また走る。あの生き物が大きくてよかった。私一人くらいなら余裕で通れる。
そして絵本部屋の入り口へ。顔を外の通路にちらりと出して、音のする方を確認する。
だいぶ奥の方にいる。今、本棚の上をジャンプしていたのは島谷だろうか。運動神経が良いってのは誇張でもなんでもなかったらしい。巨獣は今こちらに背を向けている。今しかない。
走り込んだ。カウンターの奥の事務部屋へ。中を照らす。真ん中に机。その上に何台かパソコン。そんなものはどうでもいい。右の壁だ。照らす。
鍵箱。これか。中学で理科室の鍵を取るときに職員室で見たことがある。真面目に日直の仕事をしておいてよかった。その下。いくつかフックにかかってるやつ。どれだよ!
どれだどれだどれだ。近付いてひとつひとつ照らして見る。焦りで手が滑る。ひとつ落として音が響いた。心臓が縮んだ。死にたくない。涙が出てきた。どれだどれだどれだ――
あった!
『鍵箱マスター』とシールの貼られた鍵を見つけた。すぐに鍵箱に、がちがち、入れ、がっ、入った!
開けて、また探す。今度はすぐ見つかった。『地下書庫』という表示ネームの下。手にとって確認。ちゃんとシールにも!
それで島谷の指示通り、奥の書庫への通路に進もうとして、ああ! なんでこんなところで気の迷い! 私はこの先の人生もずっとずっとずっとこういう気の迷いを繰り返していって大変な目に遭い続けるんだ! 絶対割に合わない! もうダメだ! 誰か一兆円くれ!
「島谷ー!!!!! 鍵取ったあーーーー!!!!!!」
カウンターから乗り出して叫んだ。島谷らしき影が、瞬時に足場にしていた本棚をキックして飛びのいて、その衝撃でドミノみたいに本棚が倒れて、巨獣の胸のあたりにぶつかる。それで巨獣が怯んだ隙に、島谷っぽいのは何の問題もなく着地した。すげえ、ファンタジーだ。
「バカ!! 早く書庫に入れ!!」
「誰がバカだ!!!」
とっさに反論した。でも私はバカだった。間違いなく。また涙が出た。島谷はこちらにものすごい速度で走ってきていて、私もカウンターの奥に引っ込んでいく。
書庫への通路の入り口当たりで島谷が追い付いてきた。後ろには巨獣もついてきていた。事務部屋への入り口につっかえているみたいで、完全に四足になって何度も突進しているけれど、壁がミシミシ鳴っていて、突破も時間の問題だ。
私は島谷と並走しようとしたが、五秒で見限られて強引に抱えあげられた。とっさに島谷の首に手を回した。この状態でも明らかに私が走るのよりも速かった。すげえ敗北感だった。
書庫の入り口まで十秒もかからなかった。
「早く!! 百瀬鍵!!!」
さっと下ろされて、さっと鍵穴を島谷が照らした。私は右手に握りしめていた鍵を使って、
「は、はいら」
「入る!」
「入った!!」
がっがっ、と鍵穴周りを二回削って三回目で入った。
開いた。
入った。
「ごおおおおおおる!!!」
閉めた。
何も変わらなかった。
「な、なん」
「着信ベル!! 鳴らして!!」
言われて、もう普通にボロボロ涙を流しながらスマホを操作する。その間に素早く島谷が扉を施錠した音がした。
ジリリリリ、とベルが鳴りだして。
同時に、バアン!と爆発するような音が書庫の扉からした。
「き、きて、きてて、」
「そりゃ来るよ! 危ないから奥に行ってて!!」
言われたとおりに、足をもつれさせながら書庫の奥へ。バアン!と書庫の扉から相変わらず音がしていたけれど、今度は書庫の中からガンガン何かをぶつける音がした。
スマホから漏れる光でうっすらと見えた。島谷が入り口あたりの閲覧用の椅子をものすごく乱暴に引っ張ってきて即席でバリケードみたいなのを作っていた。
「そんなん意味あんの!?」
「やらないよりはマシでしょ!! 今何回目!?」
「三十二! 三十三!」
「ああもう!!!」
島谷のシルエットが変わった。抱え上げてるのが椅子じゃなくなった。
机だった。閲覧用の、表裏で四人座りの大きさのやつ。
ドンドンドン!!と立て続けに、投げつけるような勢いで机を設置していく。
積むものがなくなると、今度は書庫の本を机と椅子の上に重ねていく。カウントは九十を超えた。
「今何回目!?」
「九十四!! 九十五!!」
書庫の扉を叩きつける向こう側からの音も激しくなっていく。金属製の扉が軋んでいる。それより先にそれを固定する留め金が吹き飛ぶんだろう。一方島谷は一分ちょっとの間に塔みたいなバリケードを作りあげていた。
あと八回。
「百一!! 百二!!」
頼むから保ってくれ。
「百三!! 百四!!」
一際大きな衝突音が立った。
「百五!!」
島谷はもう積み上げるのをやめて、身体でバリケードを押さえつけている。
「百六!!」
私は祈るようにスマホを握っている。
「百七!!」
帰りたい。
「百八!!」
岩の前に立っていた。
暗かったけど、暗くなかった。隣に島谷がいた。後ろを振り向くと、街灯の明かりがあった。両手に握ったスマホの時計を見た。二〇一六年一月一日三時十二分。
帰ってきてた。
「や、」
ぶわっと、喜びがこみ上げて、肺に息を思いっきり吸い込んだ。
「やったあああああ!!!! 帰ってきたあああああ!」
「……ほっとしたあ……」
私はハイテンションで、島谷はローテンションだった。島谷は溜息をついていた。私は勢いに任せて。「あけましておめでとーー!!」と叫びながら島谷に抱きついた。島谷に「はいはい、あけましておめでとう」とぽんぽん背中を叩かれて、恥ずかしくなってすぐに飛びのいた。
「もーーーーーお前のオカルト遊びには付き合わないからな!!」
胸を張って島谷に言ってやった。言ってやったぞ!
そして島谷は殊勝にもこう言った。
「僕も流石にもう懲りた。これからはやめるよ」
見たか! いや、聞いたかこのコメント! とうとう完全勝利してしまった。生きて帰ってきた上に、この変人を改心させた。少年少女に見せる教訓漫画のような綺麗なオチがついた!
「そうそう。お前も私みたいにこれからは品行方正に生きていくんだぞ」
「そうするよ。疲れた……。巻き込んでほんとごめんね……」
「ああ、いや別にそこまで怒ってるわけじゃなくて……。まあ最初のところは私も悪かったし、なんだかんだ助けてもらっちゃったし……」
なんでここで私はこう……。押されても引かれても弱い女、百瀬。私のことだ。
一度折れてしまうと私は無限に折れ続ける。自分のことだからよくわかる。よくわかるので話を逸らすことにした。
「そういえば、なんで帰れたわけ? 御鏡様ってなんだったの?」
「ああ、あの方法で帰れたってことは、たぶん御鏡様は何かを映してたんだ」
「ああ、映すとかなんとか言ってたっけ」
「うん。『鏡』って来たら繋ぐ言葉は『映す』でしょ? 『鏡に映す』って。だから、何かを映すものって意味合いで御鏡様って名前がついたんだと思ったんだ。鏡って色々意味が付与されてるけど、このへんだけの古い話だったんだから、そんなに考えこまなくてもよかったんだ。 縁結びとか太陽とか黄泉比良坂の境とか全部寄り道だったんだね」
「ふんふん」
「で、鏡に映された世界にいるんだったら、鏡に映らない場所に行ってみればいいわけさ。つまり、密閉空間で御鏡様から放たれてるだろう光が届かないところ」
「で、地下書庫なら窓がないから最適だったと。あれ、図書館は? カーテン閉まってたじゃん」
「上の方一ヶ所開いてたでしょ。ちょっとだけ」
「あー……」
よく覚えてんなあ。
まあ、とにかく帰ってこれたんだ。よかったよかった。
「とにかく帰ろう。もう一回こんな目に遭うのはこりごりだからね」
珍しい島谷の台詞に、私はにまーっ、と笑顔を作った。こいつに対して優位に立てる瞬間はそう多くないのだ。
「まあまあ、ゆっくり帰ろうじゃないか。私は疲れた。結局あの植物みたいなのとかでっかいのとかは一体何だったのか解説してくれたまえ」
「えー……」
心底嫌そうな声が聞こえた。いいじゃんいいじゃんそういう反応。珍しいじゃん。
「どうなんだろうね。正直全く見当がつかないんだけど、御鏡様が映してたものに関係してるんじゃないかな」
「というと?」
「さあ……。とにかく帰ろうよ。疲れてるならおぶってもいいし」
「あ! それで思い出したけど、お前書庫に行くとき私の身体触っただろ。 金取るからな」
「明日お年玉五万でも十万でも渡すから帰ろうよ」
「お、おま……、そんなマジになるなよ……」
こいつ金持ってんな。
「あ、金で思い出したけど、自転車どうすんの。錆びてたけど」
「大丈夫じゃない? あれもなんで錆びてたんだかわかんないけど。 とにかく戻ろうよ」
「えー……、私疲れたし、お父さん初詣見るとか言ってたからここまでついでに迎えに来てくれないかな」
「あと三時間はあるよ?」
「いや、私まだ色々聞きたいことあるし。なんで図書館だけ中身残ってたのー、とか。なんでベルで帰ってこられたのー、とか。あとあのでっかいのは近くで見るとどんな顔してたのー、とか」
私が次々質問すると、島谷はハア、と溜息をついて、私の手をつかんで正規の山道の方へ引っ張っていく。押されると弱い。肉体的には引っ張られているが。
「図書館の中身は知らない。ベルはスイッチ。密閉空間が爆弾。あのでかいのは目と脳が……、やっぱ言わない方がいいか」
「いや言えよ! 気になるだろ!」
「寝れなくなるよ」
「聞かなかったら聞かなかったで気になって寝れなくなるだろ!」
もう一度島谷はハア、と溜息をついた。いつものふふふ笑いの影もない。
街灯の下に着いた。文明の光だ。山から街の灯りを見下ろした。生活の光だ。
時計を見た。二〇一六年一月一日三時十五分。
安心した。もう大丈夫だろう。文明最高。時間が進むって素晴らしい。
「じゃあ、帰ろっか」
「えー」
「もう。 置いてくよ」
「うーん、それは困る。ひとりになると普通に怖いし。じゃあ帰るから途中で別れるまで質問させてよ」
「まあ、それくらいなら」
「『生きてるときは、いつも怖いよ』ってどういう意味?」
「…………」
島谷が顔を背けた。
「ねえ」
「聞かないで」
私は回り込んだ。さらに顔を背けられた。
「おいおいどうした島谷くん。その綺麗な顔を私に見せておくれよ。で、どういう意味?」
「聞かないで」
笑いが止まらねえとはこのことだぜ。こいつ島谷のくせに一丁前に恥ずかしがってやがる。私は追及の手を緩めない。あとそういえば私泣いたり鼻水出したりで今相当ひどい顔をしているような気がしたので、ポケットに手を突っ込んで島谷から借りたハンカチを取り出した。街灯の明かりの下で見たら、手触りだけじゃなく見た目もマジで高そうだった。それでまた顔拭いた。
「あれれ~? どうしたのかな? あの超人的な運動能力を誇ったさすがの島谷くんも大冒険でお疲れかな????」
「自分ひとりならともかく、土壇場に百瀬がいると心臓に悪い」
「どういう意味じゃい!」
とうとう左手で顔を隠して、右手をまっすぐ突き出してガード姿勢に入った島谷。珍しくしおらしくなった原因が私の頼りなさだとわかって、むきーっとさらに追い詰めてやろうとして、気がついた。
島谷の右手に何か紙切れが張り付いている。
「何それ」
「え? あ、新聞の切れ端……。最後バリケード押さえてたときに破れてひっついてたのかな」
「ええ? ちょっとそれこっちに近付けるなよ。呪われそう」
「もう百瀬には何もしないよ」
それはそれでちょっと寂しいみたいなゴミのような感情が湧いて私が葛藤していると、その新聞の切れ端とやらに目をやった島谷の顔色が変わった。やめろよそういうの。
「やめろよそういうの」
思いのほか嬉しそうな声が出てショックを受けた。私はどこへ向かっているんだ。
何も言わずに島谷は私の目の前にその新聞の切れ端を掲げた。いくら街灯の明かりがあるって言っても、いきなりばっと文字を出されても読めないぞ。私は目を細めて、たどたどしく読みあげる。切れ端に書いてあったのは。
「二〇二四年六月二十四日……!?」
ふふふ、と島谷の笑い声がした。今までで一番乾いたふふふ笑いだった。
「第一問、なぜ御鏡様が映しだした世界の図書館に未来の新聞があったのでしょうか?」
私は膝から崩れ落ちた。力が入らなかった。地面がそれなりに痛かった。
「第二問、御鏡様が映していたのは虚構の世界でしょうか、それとも真実の世界でしょうか?」
空を仰いだ。文明の光が夜空を覆い隠し、星は見えず、月の光は淡かった。
「最後の問題、僕たちの自転車があんな風に錆つくまであと何年?」
こんな夜空では、島谷でもオリオン座も冬の大三角も見つけられないに違いない。
「もうオカルトはいやじゃーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
二〇一六年一月一日三時二十五分。
私の叫びは天まで届いただろうか。
このあと島谷におぶられて帰った。