青霧
深い森にたちこめる濃霧は館をすっぽりと包むと、そのまま停滞した。静かすぎる辺り。
館の門は閉ざされている。
意味もなく鎖が垂れ、錆び付いた錠前は役目を終えたかのように門の下に置かれていた。
ぼろぼろとこぼれていく、何十年も前の塗装。
伸び放題の雑草に、野生化した野薔薇が広大な庭を占拠している。
館までの道のりは長い。大きな両開きの、少し濃い茶色のドア。白い壁。
どこからともなく人の声がする。疲れきった、抑揚に乏しい男性の声。時折、館の雰囲気に似つかわしくない笑い声をあげていた。
男性は玄関から近い、左手側の部屋にいた。男性というよりも青年のよう。着ている服はまたも館に似つかわしくない、喪服のように黒色のスーツ。右手には金色の鈴。
空いているほうの手でカップを持ち上げ、一口すする。その優雅さ。
「おつぎいたしましょうか」
漆黒のような長い黒髪の女性が、男性のカップに紅茶をそそぐ。その肌は白く、むしろ青白い。生きている人のような血色ではない。
「ありがとう」
青年が微笑むと、女性もそれに微笑みで返した。
「すべてお話してくださるのですよね」
「ええ・・・・まずは自己紹介からいきましょうか。僕はクリルと呼ばれています」
「私はアリア」
「君を探していた。ずっと、ずっと昔から。伯父から、この館には誰もが見惚れてしまうような美しい女性がいると聞かされていたから、一度訪れてみたかった」
クリルは淡々と話し始めた。目の前にいるアリアと名乗る女性に向けて。
僕がここを訪れるのに今日を選んだのには、理由があるんだ。
でもそれを言う前に謝りたい。驚かして本当にごめん。何十年も経ったのに、まさか君がいるとは思っていなかったんだ。盛者必衰っていうくらいだから、この館もなくなっていると考えてた。
だからまだここに君がいて、玄関に現れた僕から逃げるのを見たときはタイムスリップでもしたかと思ったんだ。
話に聞いたように未だ美しい君だったから。
・・・・ある人から君の生存を知った。
この深い森の中にたまたま入り込んだ猟師がいたんだ。立ち入り禁止区域の紐に気づかなかったんだろうね。その猟師はもう亡くなったけど。
猟師はそこで、この部屋の真上の部屋に君がいるのを見つけた。窓からだったけれど、君の噂は何十年経っても語られていたから猟師はすぐにわかった。
そして僕の所にその情報がきたんだ。伯父を通してだけどね。
そこでクリルは一旦話をやめると、紅茶を飲む。
しばらくカップの中を眺めると溜息をつく。
そして言った。
この館はやけに静かだね、と。
「そう・・・・・?」
「うん。まるで誰もいないかのように」
アリアは困惑の表情を浮かべている。それでもかまわず、クリルは続けた。
「まるで皆死に絶えているかのように。もう、誰も生きてはいないかのように」
「なにを言ってるの」
「真実をさ」
クリルはまたもう一口、紅茶を含む。
アリアは不安になってきたのだろうか。クリルから目を離し、廊下へ駆けていった。
「この紅茶、味がない」
カップをテーブルに置くとクリルは立ち上がった。そしてアリアの行った方向へと向かう。
アリアはすぐに見つけられた。
「うそ・・・・」
「これが本当の現実」
そこは書斎。少し埃をかぶったテーブルの向こうには廃れた元人間の姿。
白い壁に残る、赤茶けた痕跡。
アリアはまた別の部屋へと移動し、扉を開けた。
そこにも廃れた元人間がいた。変わらないのはその首に下げられたネックレス。
「わかった?」
くずれていくアリアにクリルは言った。そして、話し出した。
何十年か前にここらへんで強盗殺人事件が起きたんだ。
犯人たちはうまく忍び入って貴金属やら高価なものを盗んでいった。しかしすぐに見つかり、館内の人間全てを殺していった。
「やめて」
その館には噂された美しい女性がいた。けれど犯人たちはそんなことなど知らず、助けを呼びに行こうとした彼女をも殺した。
その事件は、その女性の結婚式前日に起きたことだった。
「そうですよね、ポーツ伯父さん」
クリル、甥に呼ばれ陰から出る。
厳しい目つきで私を見る甥の足元には、何十年も変わらない姿のアリアがこちらを見ていた。
甥が金の鈴を軽く掲げる。
「アリア」
「聞かない。なにも、なにもしゃべらないで」
「でっ・・・・」
言葉を失った。
彼女の形が、まるで溶岩のように崩れ去っていた。その美しい姿が変わり果てた姿へと変貌している。
そこでクリルは鈴を持つほうの手を振った。
「やめて・・・・こわい」
それを最後に、彼女は本来あるべき姿に戻った。
私は結局、最後まで彼女を救うことはできなかった。何も言ってあげることができなかった。
クリルがそっと、アリアだったものを抱き上げた。
「伯父さん。話していただけますか」
「ああ」
甥にうながされ、先ほどアリアとクリルがいた部屋に入る。アリアが座っていた位置に、私は腰を下ろす。その隣にアリアは置かれた。
クリルが飲んでいたはずの紅茶のカップは、先ほどまでなかった埃がつもっている。褪せた色合い。
年月を感じる。
「私はアリアと結婚する予定だったんだ。そう信じていた。それ以外に考えられなかった」
クリルがカップの埃をはらう。
私は汗をぬぐった。
「彼女はたしかに美しく聡明で気立てがいい。しかし私が本当に求めていたのは別人だった」
「それが伯母さん、ですね」
窓からの景色では、濃霧はいっこうに晴れていない。
クリルは埃をはらうのをやめ私を見ている。
私はこの甥が少々苦手だった。いつも何かを隠しているようなのに引き出せない。掴めない。
「ああ・・・・」
「だからアリアが邪魔になった。けれど結婚を取りやめることができなかったから、彼女を殺した」
この甥に説明をするなど無意味だったようだ。やはり最初からなにもかもわかっていたのだ。私があの事件の首謀者であることも、私が彼の後をつけていたことも。彼が「ここを訪れるのに今日を選んだのには理由がある」と言っていたのは、きちんと私がつけてきていることを知っていたからなのだ。
嫌な汗ばかりが頬を伝う。
「知ったからには生きては帰さない」
私は内ポケットから持参した拳銃を取り出す。銃口を甥に向けた。
甥は微笑んでいた。
「そんなことをすると、アリアが悲しみますよ」
「なに・・・・」
気付くと部屋内が明るい。埃が積もっていたはずのクリルの前のカップには、紅茶がつがれている。そして隣には、アリアがいた。
「そんな物騒な物はしまってください」
そう言いながらアリアは私の前にもカップを置いた。
昔のように変わらないその美しさ。嫌いだったわけではない。確かな思いも記憶もあった。
私はアリアの言う通り拳銃をしまうと、再び座る。
それを確認したアリアが微笑んだ。
「さ、召し上がってください」
「アリアの淹れたお茶を飲むのは何十年ぶりだろう・・・・」
アリアは微笑んだまま、私の隣に座った。
私はカップを手に取りその色を眺めた後、口をつける。変わらない、あの味。
彼女はいつも、私がそのとき飲みたいと思っているお茶を淹れてくれる。誰よりも私をわかっていた。だから、泣きたくなった。随分と遅い後悔をした。
「悪かった・・・・私がしっかりけじめをつけておくべきだったんだ。はじめから、君にしっかりと話しておくべきだった・・・・」
溢れた涙は止まらない。それとともに感謝と後悔と罪悪感で言葉がつまる。本当はもっと、話しておきたかった。自己満足なのかもしれない。言い訳だと思われても、この時間をつなぎとめておきたい。できなかったことをやり終えたい。
「もうよいのです」
アリアの顔が私のすぐ近くにあった。その真剣な眼差しに胸が痛くなる。
「私はもうあなたや、あなたたちを許しています。だから、どうか・・・・・」
自然に添えられた手のぬくもり。彼女を殺したことなど遠い昔のようである。再び会えるとは思いもよらない。
久しぶりに泣いて、苦しいと思った。まるで子供のように。言葉が出ない。話すこともできない。
「お・・・まえ・・・・」
呼吸が苦しい。伝えたいことが口にできない。こんなことは生まれて初めてだ。世界が揺れ、気持ち悪い。
「どうかされました?」
アリアは倒れかけた私を受け止めてくれた。
目の前にいる甥はカップを口にしながら、その目もとは笑っていた。
木々の隙間から光が差し込むのか、明るい景色となった館。
「おそろしい人だ」
クリルは伯父を抱きとめているアリアを見て、言った。
伯父の頭を撫でながらアリアは言う。
「だってこの人、私を殺したのですもの。私と、私の幸せを。私は許したと言った。それは本当のことよ。でも、悔しかった」
カップに積もる埃。荒らされた部屋。壊されている調度品。欠けたガラス。
すべてはこの美しさを失った女性にひどく似合い、それゆえに気味の悪さを醸し出す。
辺りに漂う甘酸っぱい香り。
「僕はこれでよかったと思いますけどね」
「よくなんかないわ」
アリアはそっと、伯父を座っていたソファーに寝かせる。そして窓の外を眺めるクリルと相対した。
「生きては帰さない」
クリルは微笑んだ。そして片手を掲げると、チリンと鈴をひとつ鳴らす。
夢のように美しかった女性は消えた。
そうして青年は部屋を出、館から去る。
白い外壁は蔦が覆いかぶさり、扉の取っ手の金ははがれおちている。
あんなに長い間いた霧がどこかへ去っていた。
大きな門は鎖でしっかりと固定され、錠前で決して開くことができない。
おつきあいいただき本当にありがとうございます。
この作品が初めての投稿となりますが、いかがだったでしょうか。
これはつい最近ホラーを書こうとしてボツになったものです。
未熟者ですがこれからの作品もお読みいただけたら嬉しいです。