雨と路地裏と二人の出会い
「私が彼のその痣を見たのは彼と初めて出会った日、一年前の雨の日だったわ」
「そうあの日は雨がすごかったからバイトしている本屋さんにもお客さんが来なくてね、店長さんが早く帰してくれたの。
ほら、いつも二人の方が帰るのが早くて夕御飯先に作ってくれるでしょう? 二人のご飯は美味しいけれど、いつも作ってもらってばかりなことが気になっていたから、今日は私がご馳走を作ろうと思ってお肉屋のレティさんのところや八百屋さんのログさんのところに寄ってから帰ったの。
でもね、思ったよりも時間がかかってしまって、近道するために路地裏に入って……そこでね、彼に会ったの」
アンナはドルトルへと微笑みかけ、ドルトルは懐かしそうに、そして愛おしそうに微笑み返した。
アズサとオードリューはアンナが路地裏に入ったことに関して、アンナに詰め寄りたかったが、今は話を聞くのが先だと考え、開いた口を閉ざした。
「彼はね、道の隅にびしょ濡れで座り込んでいたの。
私、驚いたわ。朝から雨が降っているこんな日に傘をささずに道に座り込んでいるのだもの。
しかも、全然動かないから、もしかしたら死んでいるのかしらって思って声をかけたの……『死んでいるんですか?』って」
「なんて危険な真似をなさるんです! お嬢様!」
「そうです、もし変質者だったらどうするのですかっ」
「うむ、あの時は驚いたぞ。道行くものはびしょ濡れで座り込む私に関わりたくなくて通り過ぎるばかりだったのに、うら若き乙女に声を掛けられたと思ったら、いきなり『死んでいるんですか?』だからな。つい、『普通、大丈夫ですかとか聞くものではないか?』と返してしまったよ」
「そうそう、私実は返事が返ってくると思ってなくて、つい『あら、よかった。生きてる』って呟いてしまったのよね。
その時のドルトルの険しげな顔って言ったら……『なんだ、この女』って思っているのがバレバレだったのよ。
今考えれば、仮にも国王陛下たる方が自分の感情ダダ漏れなんて笑ってしまうわよね。“貴族たるものいつ如何なる時も冷静であれ、感情を剥き出しにするべからず”っていうのが貴族の嗜みなのに」
「め、面目ない……」
「あら、そんな顔しないで。私はそんな貴方だからこそ側にいたいと思ったの」
「アンナ……」
アンナは肩を落としたドルトルの頬にそっと手を添えて微笑み、ドルトルはそれに安堵の息を吐いて笑みを返した。
アズサはそれをどんよりとした空気を纏いながら睨みつける。本当なら、すぐにでも割って入りたいがアンナの話が途中だと自分に言い聞かせた。
この場にいた全員が気づいていなかったが、ドルトルの顔はほぼ完璧なポーカーフェイスだった。しかし、常に無表情のアズサの心情を読み解くアンナにとってはそれが意味をなさなかっただけなのだ。
「ああ、ごめんなさいね。話を戻すけれど、びしょ濡れで座り込んでいる人を放っておけないでしょ?
だから私言ったの、『こんなところに座っていたら風邪を引きますよ? 立てないなら肩を貸しましょうか?』って。
あらあら、アズサもオードリューも怒らないで頂戴、だって本当にびしょ濡れで、しかも実は息も荒くて、どうみても風邪引き、よくてその一歩手前の状態だったのよ? 放っておけないでしょう?
でもね、彼ったら『いらん、関わるな』の一言だけ答えたら黙っちゃって。
でもね、流石にそれで『はいそうですか』って言って離れられなくてね、私、ちょっと粘っちゃったの。
『そういうわけにもいきません。せめてこの傘とタオルだけでも受け取ってください』
丁度、お肉屋さんのレティさんが『雨が強いから持っていきな』って言ってくださったタオルがあったから傘と一緒に彼に差し出したの。
『いらんと言っているだろう! ちっ』
彼ったら、そう言うと立ち上がって私の横を通り過ぎようとしたのだけれど……彼ったら、いきなり地面に倒れ込んで動かなくなっちゃったの。
私ったら焦ってしまって『とにかくなんとかしなきゃ』って思って、彼を近くの空家に運んだの。ほら、あの辺の空家って鍵かかってないところが多いでしょ? そのひとつに彼を運んだの」
「え? お嬢様がお一人で運ばれたのですか?」
アズサが無表情に見えるが実は驚いている表情でアンナを見た。
「そうなの! あれが所謂“火事場の馬鹿力”というものね」
アンナは楽しそうに笑って答えた。
「とりあえず、空家に彼を運んだはいいけれど、ほら、空家だからなにもなかったの、着替えとかなにもかもね。だから、私、家に看病に必要なものを取りに行ったわ。
二人ともまだ帰ってきてなかったから、商店街で買ったものはテーブルに置いて、着替えとかタオルとか、大きめのブランケットとかを持って、また空家に戻ったの。
……戻って最初にしたのが、彼の服を脱がせて濡れた体を拭くことだったわ」
「な! お嬢様自らがお拭きになったのですか?!」
「当然でしょう? 他に誰がいるの?」
「し、しかし、淑女たるものが男性の服を脱がせるなど……」
「この場合、仕方ないでしょう? 私しかいなかったのだし。まあ、本当を言えば、ちょっと私も躊躇したし、恥ずかしかったのだけれど頭の中で『相手は病人、病人、着替えないと風邪が悪化する』って言い聞かせて頑張ったの」
オードリューの驚愕した声とは逆に落ち着いた声でアンナはそう答えた。
「ああ、彼女が私の服を脱がせたその瞬間を覚えていないのが今でも悔やまれるよ」
「黙りやがれですよ、このロリコン中年陛下」
心の底から残念だと思っている声音でドルトルが呟いた一言にアズサが辛辣な一言を浴びせた。
「それでね、彼の服を脱がせた時に気がついたの、彼の花に。
びっくりしたわ。花の痣があるだけでも驚きなのに、それが花開いているのですもの。そして思ったの『面倒なもの拾っちゃったかもしれない』って」
「アンナ、今でも面倒だと思っているか?」
「あらあら、そんなはずないでしょう? 今は出会えたことを神に感謝しているわ」
ふふっと笑いながら、眉を八の字にしていたドルトルの鼻をつつくアンナと、それにデレデレと顔をだらしなくさせたドルトルにアズサは内心ブリザードが吹き荒れていたが、我慢して声を掛けた。
そうしないと話が進まないという予感がしたからだ。
「すみません、話の続きをお願いします」
(このロリコン中年陛下、後で締めます。絶対締めます)
「あら、また脱線しちゃったわね、ごめんなさい。
とにかく、痣のことは見なかったことにしてドルトルの体を拭いて、着替えを着せたの。
彼を着替えさせた後は、私、また火事場の馬鹿力を出しのよ。結構出せるものなのね、火事場の馬鹿力って」
「お嬢様、どういうことですか?」
アズサは表情には出さないが、声に若干の問いかけの音を乗せた。
それにアンナは「ふふふ」と楽しそうな声を上げる。
「あのね、あの空家、ほぼ家具がなかったのだけれど、二階に一つだけあったの」
「一つだけ……ですか?」
「そう、一つだけよ。ベッドがね、あったの。大きくて運び出せなかったなかったんじゃないかしら」
「ほら、やっぱり、花開く痣を持っている人でしょう。
床に直接寝かせるっていうわけにもいかないかな、と思っていたの。
だから、ベッドがあるのは助かったのだけれど、二階でしょう。
だから、私、頑張ったのよ。
全身の力を振り絞って、彼を二階のベッドまで運んだわ。ただ、そのベッド、掛け布団がカビてしまっていたから、彼には家から持ってきたブランケットを掛けたの。
本当はお医者様を呼ぶべきだったのだけれど、彼の痣を見た後だったからそういうわけにもいかないでしょう? 彼のことが知れてしまえば街中パニックになってしまうもの。
それから彼三日三晩寝込んでいたわ。ほら、私が本屋さんの荷物整理のお手伝いで帰れなくなった時があったでしょう? あれ、実は嘘だったの。本当は彼の看病をしていたの、ごめんなさい」
「「……」」
オードリューとアズサは常に誠実さを信条にしているアズサが自分達に嘘をついていたことがショックで呆然としている。
アンナはその姿を見ると、気まずそうに二人から目を逸らした。
「本当はね、二人に相談するべきかとも思ったの。でも、下手をすれば王宮の問題に巻き込まれてしまう事態になりかねないと思って……」
アンナの言葉にオードリューとアズサはお互いの顔を見合わせた。
(つまり、私達二人を巻き込まないように……ということですか)
(全く、私達に気を遣う必要などないというのに)
アンナの自分達を思いやる気持ちが嬉しくも歯痒く感じる二人は同時に溜息を吐いた。
「それでその後はどうなさったんです? 三日三晩ということはそこのロリコン王、三日後に起き上がったんですよね」
「そこからは私が話そう」
ドルトルが口を開いた。
「私が目を覚ますと辺りは薄暗く、まだ夜明け前だった。
目が暗闇に慣れると見覚えのない木造の天井が目に入り私は首を傾げたが、とにかく起き上がろうと上半身を起こすと見知らぬブランケットが自身に掛けられていたことに気がついた。
私が若草色のブランケットを手にとった瞬間、扉の開く音がして、私はそちらに目を向けた。
『あらあらあら、よかった。目が覚めたんですね』
そこにいたのは私の姿を見て安堵の息を吐く可憐な少女だった」
「なぜ小説風に語っているんですかね? 普通に簡潔に説明できないんですか、このロリコン陛下は……」
「あら、素敵じゃない。普通じゃつまらないわ」
アズサは呆れた目をドルトルに向け、アンナはそんなアズサに楽しそうに笑いかけた。
「『何者だ』
私は開口一番にそう口にした。自身の状況も把握できていない状態だったこともあり、彼女を不審者として見てしまったのだ。
しかし、私の不躾な一言にも彼女は動じることもなく、笑顔で答えた。
『名乗る程の者ではございません。ただ、風邪を引いて倒れ込まれた貴方様をこの空家へと運んだ者でございます』
その言葉と私に向かってスカートの裾を持ち上げて礼をしたことで、彼女が私が何者であるかを知っていることがわかった。
『その様子だと私が何者か理解しているようだな』
彼女はそれに声無く微笑みだけを返した、無言の肯定だった。
私は自身の髪をかきあげながらこれからどうするか考えようとした時に、自身が着ている服が見覚えのないものであることに気がついた。その様子に気がついた彼女が言葉を添えた。
『貴方様が着ていらした物はびしょ濡れでしたので、僭越ながら私が着替えをご用意させていただきました』
その一言で、なぜ彼女が私の正体を知っているのかを理解した。
(痣を見たのか、さて、このようなところで正体が知れるとは思っていなかったな。どうするか)
ここはどこなのか、これからどうするか、そして私の正体を知った彼女についてどうするかを考えていると彼女がそのまま声をかけてきた。
『では、貴方様も目を覚まされましたので、私はここを離れさせていただきます』
『なに?』
『僭越ながら保存食をキッチンにご用意させて頂いておりますので、朝になりましたらそちらをお召し上がりください。貴方様が着ていらっしゃったお召し物は洗濯してそこに置いてあります』
彼女が私の横を指差し、私がそれを目で追うと私の横に私が着ていた服が畳んで置いてあった。
『後、この家は私の家ではありません。貴方様がお倒れになった路地裏近くの空家の一つですので、たぶん迷うことはないと思います。鍵は元々空いていた空家ですので、そこはご心配なく』
『では、失礼致します』と言って彼女は入ってきたドアから出て行った。私は数秒呆然としていたが、慌てて彼女を追いかけた。
『ま、待て!』
私が彼女が出て行ったドアを開けると右側に階段が下に続いており、それを急いで降りると彼女は玄関のドアを開けて出ていく直前だった。
『待て、お前の名は?』
私の問いに彼女はドアに向けていた顔をこちらに向けた。
『……私、厄介事には関わらないことにしておりますので』
『は?』
『それでは、失礼致します。どうぞご自愛くださいませ』
彼女はそういうと扉を開けて外へと出て行った。
この日、私は人生で初めて『厄介事』扱いをされるということを経験した」
「へ、陛下を厄介事扱い……お、お嬢様!」
オードリューは青ざめた顔でアンナの名を呼んだ。
「だって、こんな地方にいるはずのない国王陛下なんて、どう考えても厄介事でしょ?」
アンナはにっこりと笑いながらきっぱりと言い切った。
「……そんなはっきり言うところも愛しているよ」
アンナの一言にちょっと傷つきながらもドルトルは頬染めて彼女を見つめた。
そんなドルトルをアズサが蔑んだ瞳で見据える。
そこでふと、アズサが自身の疑問を口にした。
「まあ、これでお嬢様がそこのロリコン王の痣をどのような状況で拝見されたのかは理解できました。でも、お嬢様は名乗らずに空家を去ったんですよね? では何故お二人はこのような不愉快な関係になっているんですか?」
「「……」」
その問いにアンナは苦笑を漏らし、ドルトルはピシリと体を硬直させた。
その様子にアズサは数秒黙ると瞳をドルトルに向け、常よりも数段低い声で彼の名を呼ぶ。
「ドルトル=シェドゥール国王陛下」
「はい」
ドルトルは硬直したまま動かない、いや動けない、まさに蛇に睨まれた蛙だ。
「どうやってお嬢様と恋仲になられやがりましたのか、お聞かせ願いますか?」
シェドゥール王国、国王ドルトルに拒否権はなかった……。
「彼女が私を『厄介事』扱いしたあの日、私は彼女が置いていったブランケットや着替えをもって自分が寝泊まりに借りている屋敷へ戻った。
そして、その次の日から私は彼女を探し始めたのだ。
初めは彼女と出会ったあの路地裏の近くに立って彼女がここを通るのを待った。しかし、数日それを繰り返したが彼女は通らない。
これではきっと彼女には会えないと思ってな。何か手がかりはないかと考えたところ、あのブランケットと着替えのことを思い出したんだ。
私はブランケットを細部までじっくりと眺めて気がついたんだ、名前が書いてあることに」
「名前……」
ブランケットや洋服など、アンナの持ち物に彼女の名前を刺繍しているのはアズサだ。
(お嬢様が無くされてもすぐ見つかるようにと、名前を刺繍したのにそれが仇になるなんて!)
アズサは背中を丸めて落ち込んだ。
「アンナ=サンタマール、彼女の名前さえ判れば後は簡単だった。
アンナはこの辺りでは有名人だったらな、私が滞在している屋敷の使用人に聞けば、アンナが何処で働いているのか、どんな暮らしをしているか話してくれた。
私はそれを元に彼女が働いている本屋の近くで彼女の仕事終わりを待ち、彼女が出てきたところで声を掛けた。
『アンナ=サンタマール』
アンナは驚いたように顔で振り返り、私の顔を見た瞬間……苦虫を噛み潰したような顔をしたんだ」
「仕方ないわ、あの時はまだ貴方のことをよく知らなかったもの」
アンナは肩を落としているドルトルに微笑みかけ、その肩にそっと手を置いた。
「でも、今なら貴方を見たら嬉しくて笑顔になるわ」
「アンナ……」
ドルトルは嬉しそうに彼女の手を取り、顔を近づけようとするが、その瞬間、目の前をナイフが通り過ぎた。
「さっさと続きを話してくださいませんか……?」
(さっきから何度同じことでいちゃつくんですかね?)
ナイフが放たれた方向にドルトルが顔を向けるとおどろおどろしいオーラを纏ったアズサがドルトルを見ていた。
「はい」
ドルトルは「王の威厳とは何か」という疑問が頭を通り過ぎた気がしたが、気がつかないふりをして話を続けた。
「私は彼女のその表情に内心若干傷つきながらも近づいた。
『また会えたな』
私が言葉を続けるとアンナは先程見せた顔が嘘のように表情を柔かなものにして私に尋ねた。
『ええ、またお会いできて光栄ですわ。ところで、どうしてこちらにいらっしゃるのでしょうか?』
『ああ、君に借りていたものを返したくてね』
『借りていたもの?』
『ブランケットや洋服だ、君や君の執事の名前が入った……ね』」
「私の名前が?」
「ああ、彼女の服を私が着れるはずがないだろう? 彼女は君の服を着替えとして私に着せていたんだよ」
オードリューの驚いた声にドルトルは穏やかに説明した。
「『ああ、成程。わざわざ来て頂いて申し訳ありませんが、あれらは買い換えようと思っていたものですので、お返し頂かなくも大丈夫です。そのつもりで置いていったのだとわかって頂けていると思っていましたが、説明が足りず申し訳ございません』
アンナの背後から関わりたくないオーラが、言外から『関わりたくないって言いましよね?』的なモノが私に向けられたが私はどうしてもアンナと話がしたかった。
『ああ、それなら食事は如何かな? この間のお礼にご馳走しよう』
『お気持ちは有難いですが、お腹が空いておりません』
『そうか、ならまた明日来よう。明日も駄目なら明後日だな。この町は小さい、このように男性が女性を待つことも、女性が町の男ではない者と食事をすることもきっと噂になるのだろうな』
暗に誘いを断ったら、町の噂の的になるように仕向けることを匂わすと、今度は苦虫を噛み潰した顔を隠さずに彼女は私に尋ねた。
『……どうしたいのですか?』
『とりあえず、ブランケット等を返したいな。あの空家に行こう』
私達は空家に向かった」
「なに、お嬢様を脅しやがってるんですか? このロリコン最低王」
「あ、あの時はあれ以外方法が思いつかなかったんだ!」
「お嬢様! 何故付いていったのですか?!」
「一度言うこと聞けば大人しくなるかと思ったの。それに国王陛下が空家に女性を連れ込んで不埒なことをするなんて思えなくて」
アズサは怒りでナイフをドルトルにちらつかせ、オードリューはアンナを叱りつけた。
それにドルトルは口を引きつかせ、アンナは眉を八の字にして言い訳をした。
わあわあと四人で言い合った後、ドルトルが一つコホンとわざとらしい席を落とした。
「話を戻すぞ。
アンナは空家に入るとすぐにブランケットや洋服を返して欲しいと告げた。しかし、私はそれに答えずに部屋のキッチンに向かった。
『申し訳ございません、ブランケットを……』
『せっかくだ、何か飲んでいきなさい。今淹れるから』
『いえ、そんな恐れ多い』
『私の淹れた物は飲めないか?』
『……』
アンナは諦めたように溜息を一つつくと、部屋に上がりソファに座って部屋の中を見回した。
『この空家、前はこんなに家具が揃っていなかったはずですけれど』
『ああ、私が揃えた。まあ、正確には私が指示を出して揃えさせた、だな』
『え?』
アンナの目が大きく開かれるのを見ると私は悪戯が成功したような気分になった。
『この空家は正確に言えばもう空家ではない。私が買い取ったからな、私の家の一つとなった』
私は彼女にアッサムティーを手渡すと彼女の向かい側のソファに腰を下ろした。
『なぜ、そのようなことを?』
『なぜだろうな?』
私のはぐらかしにアンナは眉を潜めたが、その内心を口に出すことはなく紅茶を口に含んだ。
『君に聞きたいことがある』
『私に……ですか? なんでしょう?』
『何故何も聞かない?』
『何も……とは?』
『勿論、あの雨の日のことだ、なぜあんな所にいたのかとか』
『聞く必要がないからです』
即答だった。
あまりの早い切り返しに一瞬呆気にとられたが、私は気を取り直して問いかけを再開した。
『興味はないのか? もしかすると何かに役立つかもしれんぞ』
『過ぎた好奇心は身を滅ぼしますから』
『なるほど』
私は彼女の答えに頷いたが、疑問はまだあった。
『では、あの時、何故名乗らなかった?』
『……必要がありませんでしたから』
『必要がない?』
首を傾げたドルトルを見て、アンナは溜息を一つ吐くと言葉を続けた。
『私は名も知らない方を三日看病したに過ぎず、これ以上関わりたくな……関わることもないだろうと判断したため名乗る必要を感じなかっただけですわ』
『名も知らない……か?』
『ええ、お名前は勿論のこと、どのような方なのかも存じ上げません』
アンナは私の痣見ている、それは彼女の言葉遣い、仕草等からわかっているし、それを彼女自身も理解している。
それでも、『名前も知らない』と言ったことに私は彼女の聡明さに感心した。
(確かに彼女はあの日も今日も私を陛下と呼んでいない)
確かに私は今、身分を隠して此処にいる。それを理解し、何処に誰の目があるかわからないところで私のことを呼ぶということ、私のことを知っているという事実を明言することも避けているだ。
(中々面白い娘だ)
私の中で彼女への好奇心がむくむくと育つのを感じ、私は敢えてそれに抗うことをしなかった。
『では、もし、君が助けた国王陛下並みに地位のある男だったとしよう』
『はい?』
アンナの怪訝そうな瞳が私に向けられたが私は気にせずに続けた。
『君の家は元は貴族だそうだな、元の生活に戻りたいとは思わないのか? 助けた礼にそれを願っても不思議ではないと思うがな』
『!』
アンナは目を見開いて驚き、硬直してしまった。
『国王陛下並みの高い地位にいる男ならサンタマール家の復興などたやすいだろう』
『……』
私の言葉を聴き終わると彼女は俯き、体が小刻みに震えだした。
『おい、君、大丈夫か』
私は彼女の様子が心配になり、声を掛けた。
『大丈夫? ……今、貴方は私に大丈夫かとお聞きになったのですか?』
俯いていた顔が上がり、その瞳が私を捕らえた。
『大丈夫なわけがないでしょう。貴方は私に今、貴族の誇りを捨てろと仰ったのですよ』
『なに?』
怒りを無理矢理押さえ込んだような、静かな声が部屋に響き、私はその内容に眉を寄せた。
そんな私の様子に彼女はその怒りを増大させ、瞳に侮蔑の色を含ませた。
『わからないのですか? 呆れますわ。もし、貴方が国王陛下並に権力があったとして、その力で我がサンタマール家が復興したとしましょう、そうなった場合、サンタマール家はなんと言われるかわかりますか? 陛下にお目こぼしを頂いた貴族、この場合、色仕掛け貴族とでも言われるのでしょうね』
『ほう? 嫌か、そう言われるのは』
『勿論ですわ』
『だが、言われる代わりに貴族の暮らしに戻れるぞ。それに、その国王陛下並の権力者は君の耳にその噂がいかないようにすることだって出来る……』
ガシャン
私が言葉を言い終える前に彼女は持っていたカップを力強くテーブルに置くと立ち上がり、私を見下ろした。
私は先程の瞳が可愛らしく感じるほどの侮蔑、軽蔑の瞳を向けられたことに驚き、その後の言葉を発することができなかった。
『私は父から『貴族とはその血筋だけでなれるものではない、貴族としての義務をなし、その誇りを知ることで初めて貴族としての権利を得られ、貴族であることに胸を張れる』、そう教わりました。もし、貴方の仰るようにしたとして、私はその後貴族として胸を張り、立っていられるでしょうか? いつか生まれる子どもや孫に父の教えを伝えられるでしょうか? いいえ、我がサンタマール家を正式な形で復興させず、権力者の力を借りて、周りからは色仕掛けで復興させたと思われている者がどのように貴族の誇りを語れると仰るのです?』
『……』
私は彼女の言葉に何も返すことができなかった。
『貴方のような方から見れば没落した地方貴族のこれからなど、微々たるものでしょう。ですが、その微々たるものにだって責任や誇り、そして生き様があります。馬鹿にしないでください』
彼女の瞳が侮蔑、軽蔑、憤怒で彩られ、私を見下ろす。私は言葉を発することができなかった。
私を見下ろすその瞳と、彼女の凛とした立ち姿に見惚れていたからだ。
『お話がそれだけならば帰らせて頂きます。このような馬鹿話に付け合っていられませんので』
アンナはそう言うと、私に一瞥することなくそのまま、私が招いた家を後にした。
私は彼女が家からいなくなっても、彼女が出て行ったドアから目が離せなかった。
『……くくくっ、あははははっ! 本当に面白い娘だ! 気に入った!』
部屋に私の声が響き渡った。
『私が国王と気がついても、媚へつらうことなく、むしろ私に怒りを向けるとはな』
私はまだ一口も飲んでいなかったアッサムティーに口をつけた。
『それにしても、彼女はいつ気がつくかな? このブランケットや洋服を私が返していないことに』
カップを持った手と反対の手に持ったブランケットを見て、私は笑みが止まらなかった。
彼女は気がつかなかったが、ブランケットは私が座ったソファの肘掛に掛かっていたのだ。
『これからが楽しみだ』
この日を境に私は彼女と頻繁に接触し、更に彼女を知り、惹かれていったのだ」
「接触というか、あれはもうストーカーといえるレベルじゃないかしら?」
「……え?」
ドルトルは過去を振り返りながら、『あの時のアンナは美しかった』と顔をだらしなく歪ませていたが、彼が語った回想の最後の一言をアンナがバッサリと切ったことで、その顔を一瞬にして青ざめさせ、さっとアズサに目を向けた。
無表情だったが一瞬ピクリと眉が動いたのをドルトルは見逃さなかった。
「ち、違う! ストーカー行為などしていないぞ!」
ドルトルは慌てて首を横に勢い良く振るが、自分をじっと見るアズサにその言葉が届いている気がしなかった。なぜなら、彼女の右手にキラリと光る刃が眩しいからだ。
「……」
アズサはゆらりと立ち上がり、それにドルトルは冷や汗を流した。
「でも、それがあって貴方とこうやっていられるのだから、あれもいい思い出だわ」
「……」
アズサは静かにソファに腰を下ろし、ドルトルは安堵の息を吐き、アンナはそんな二人の様子を可笑しそうに笑う。
ドルトルはそれに恨みがましそうな瞳を向け、それがまたアンナの笑いを誘った。
そして、ふとアンナはオードリューが言葉を発していないことに気がつき、そちらに目をやるとギョッと目を見開いた。
「オ、オードリュー?!」
彼は静かに涙を流していた。
アンナの驚いた声にアズサもドルトルもオードリューに目を向け、驚きに目を開いた。アズサに至っては、ずっと一緒にいて数度しか見たことのないオードリューの泣き顔を実は内心ドン引きしていたが、それを隠して声をかけた。
「ど、どうしたんですか、オードリューさん」
「……お嬢様が」
「え? 今、私何かしたかしら?」
アンナは眉を寄せて自身の行いを振り返ったが、オードリューは首を横に振った。
「違います。お嬢様が国王陛下に仰った言葉に心が震えまして……」
「え?」
「ああ」
オードリューの言葉にアンナは不思議そうに首を傾げ、ドルトルは納得したように頷いた。アンナはドルトルに顔を向け、目でどういうことか問うた。
「つまり、君が私に言った『貴族の誇り』についての言葉に感動したんだ。そうだろう?」
「その通りでございます」
オードリューはハンカチで自身の涙を拭いながら頷いた。
「亡き旦那様もお嬢様のお言葉を聞けば、喜びに胸が震えたことでしょう」
「大げさだわ、オードリュー」
「そんなことはございません」
嬉しそうに頷くオードリューにアンナは苦笑を送った。
「それで、お嬢様は国王陛下にストーキングされたそうですが、大丈夫だったのですか?まさか、今いやいやお付き合いされているわけではないのですね?」
「私のことを大切にしてくれているのはわかるのだけれど極端すぎるわ、オードリュー」
オードリューは先程の嬉しそうな顔が嘘のように真剣な顔でアンナの現状を確認し、アンナはそのあまりの変わり身の速さに呆れた声が出るのを抑えられなかった。
「申し訳ございません。しかし、大事なことですので」
先程の泣き顔や嬉し顔が嘘のようにキリッとしたいつものオードリューが町のおば様達がうっとりさせることで有名ないつもの渋い声で答えた。
「大丈夫よ、さっきも言ったけど、彼のストーカーもどきの行為も今はいい思い出だし、今は彼の隣にいられることを幸せに感じているの」
アンナの本当に幸せそうな笑顔にオードリューとアズサは彼女が幸せを感じていることに安堵したが、内心の複雑な気持ちはどうしても拭えなかった。
(お嬢様が幸せそうなのは喜ばしいことだ、だが……)
(お嬢様……この幸せは長く続かないのではないでしょうか)
二人はドルトルを見た。
アンナの笑顔にデレデレと鼻の下を伸ばしている姿はどうしてもこの国の最も尊ぶべき方だとは思えなかった。しかし、彼が国王である以上、地方の没落貴族令嬢が彼の横に正式に立つのは許されないだろう。
((この男が国王である限り、お嬢様の幸せは続かない……))
二人はドルトルを憎々しげに睨みつけた。ドルトルは二人の視線に気がつき顔を向けると口元をヒクつかせた。
(視線で人が殺せたなら私は今死んでいるだろうな。それにしても、すごい目つきで睨みつけるオードリューよりもずっと変わらない無表情なのに睨みつけているのが何故かわかるアズサの方が怖いのはなぜだ……?)
ドルトルは二人の視線に目を逸らしたかったが、自分の身分を明かし、アンナとの出会いを話した今、自身の目的を果たさなくてはと思い直し、二人に視線を合わせた。
「実は今回二人と会いたい、話したいと願ったのは私なのだ」
とりあえずお嬢様と国王陛下の二人の馴れ初め書きました。
お嬢様の貴族としての誇りを書きたかったんです。
書けてるといいなーと思っています。




