セプテンバー・ブルー
あの日と同じ真っ青な秋晴れだった。
吸い込まれそうなほどの澄み切った空を見上げながら、私はいつもの花屋の軒先で足を止める。
「おはようございます。今日は素晴らしい秋晴れですね」
バケツの水を取り替えていた白髪混じりの店主が、手を止めて人懐っこい笑みを浮かべた。
「ああ、おはよう。本当に、最高の青空だ。今日はどんな花を探してるんだい?」
「この大輪の黄色のガーベラをメインに、紫のアスターを少し混ぜて。ブーケにしていただける?」
「お安い御用さ。……へえ、温かくて上品な組み合わせだ。何か特別な記念日かい?」
店主は手際よく茎の長さを揃え、深い茶色のワックスペーパーで包みながら尋ねてくる。
「ええ。親友の誕生日なんです。今日で、彼女も私と同じ六十歳になるんですよ」
私が微笑みを返すと、店主は「ワオ」と小さく吐息を漏らし、敬意を込めた優しい目で私を見つめた。
「それは素晴らしい。人生の酸いも甘いも噛み分けてきた、最高の年齢だね。彼女、きっと大喜びするよ。素敵な誕生日を!」
「ありがとう。あなたも良い一日を」
抱え上げた花束から、ユーカリの少し青臭く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。店を後にしながら、私はそっと抱えた花に視線を落とし、心の中で静かに呟いた。
——誕生日おめでとう。今日であなたも、ついに六十歳ね。
***
某所へ向かって歩を進めながら、私の心は自然と四半世紀前の記憶へと飛んでいた。
株価のチャートや顧客の資金データが並ぶ大きなモニターが何台も並び、紙の書類が積み上がった当時の職場が脳裏に浮かんでくる。
あの頃の私は、世界貿易センターの南棟のオフィスで働く、しがない地味な事務員だった。社交的で仕事もでき、いつも誰かに囲まれていた営業ウーマンの彼女とは対極にいたはずだ。けれど彼女は、私を「ただの事務員」としてではなく、いつでも一人の対等な友人として扱ってくれた。
私たちは、お互いの誕生日になると、決まって奮発した。
職場があるビルのすぐ隣。その最上層に位置する展望レストランのテーブルを予約するのが、私たちのささやかな贅沢だった。
グラスに注がれたシャンパンの泡が弾け、眼下にはミニチュアのようなニューヨークの街並みがどこまでも広がっていた。
「三十五歳の誕生日、おめでとう!」
彼女の弾んだ声に、私は照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう。やっぱり、ここからの眺めは特別ね。ニューヨークを丸ごと手に入れたみたい」
「たまの贅沢なら、ここ以外あり得ないわ。世界中探したって、これ以上の景色を見せてくれるレストランなんてないんだから」
「そうね。9月のあなたの誕生日もまたここで祝いましょうよ」
「そうねえ。私ももう三十五歳になるんだから、もっと頑張って昇進しなくちゃね、息子の将来のためにも」
ふと、彼女の瞳に柔らかな母性の色が混ざる。当時、彼女には十歳になる愛息がいた。我が子の話をするときの彼女の顔が、私はたまらなく好きだった。
「……ねえ聞いて、最近うちの子、クラスの女の子の名前ばかり口にするのよ。気が早すぎるって分かってるんだけど、いつかあの子が結婚して私の元を去っていく日を想像したら、昨日の夜、ちょっと泣いちゃって」
「ちょっと待って、まだ十歳でしょ? 結婚式の受付にレゴブロックでも飾る気?」
「だって、子供の成長なんてあっという間なのよ! ああでも、クリスマスには『ロサンゼルスのディズニーランドに行きたい』なんて、まだ可愛いことを言ってるの。連れて行ってご機嫌を取らなきゃね」
「いいわね、家族って。私は未だに独りだから家に帰ったらテレビとばかり話してるわよ」
羨ましそうに溜息をつく私に、彼女は悪戯っぽく目を輝かせた。
「今度私のとっておきの男友達を紹介してあげる!」
「お断りよ。あなたが前回『最高にエキサイティングな男』って連れてきた人、ただの主食がプロテインの筋トレ狂だったじゃない。デートのたびにジムへ連れて行かれるなんて、本気で勘弁してほしいわ」
「失礼ね、彼は南棟で一番見事な大胸筋の持ち主なんだから!」
そう言って二人で笑いあった。
あのガラス越しに見たニューヨークの夜景、眼下に広がる街の輝き。そして、彼女の弾けるような笑顔。すべてが永遠に続くものだと、あの時の私は疑いもしなかった。
***
辿り着いたのは、巨大な足跡のように穿たれた人工池だった。周りの雑音を全て打ち消すような流水音。そして池の周りを黒いブロンズ板がぐるりと取り囲んでいる。
刻まれた幾千の名前の中に彼女の名前を見つけ、私は震える指先でそっと撫でた。今年も、彼女の名前のところには白いバラが一輪、冷たい金属の上で小さく揺れている。
「六十歳の誕生日おめでとう。今日も素敵なセプテンバー・ブルーよ」
吹き出し続ける水を眺めていると、周囲の観光客のさざめきが遠のき、視界が白く霞んでいく。
二十五年前の「あの日」の光景が、鮮明な輪郭を持って私の中で蘇ってくる。
***
2001年9月11日、午前8時46分。
隣の北棟に一機目の飛行機が激突した。激しい衝撃音と地響きが轟き、私たちがいた南棟も微かに揺れた。
パニックが広がる中、私と彼女は非常階段を使ってスカイロビーがある78階まで降りた。そこには避難しようとする大勢の人々が溢れかえっていた。しかし、その時、スピーカーから館内放送が流れたのだ。
『皆様にお知らせします。状況は南棟(当ビル)には影響ありません。ビルは安全です。オフィスへお戻りいただくか、待機してください』
その声を聞いた周囲の人々の顔に、安堵の色が広がる。
「まだ仕事あるし、戻るか」
「そういえば荷物も書類も置きっぱなしだし、仕事に戻ろうか」
そう言い合いながら、エレベーターや階段を使って上の階へ引き返そうとする人が次々と現れた。
その時だった。
「こんな状況で仕事とか、お前らクレイジーかよ!! 俺は逃げるからな!」
一人の男性が怒鳴り声を上げ、非常階段の重い防火扉を蹴破るようにして駆け下りていった。
別の場所では、若い女性が半泣きになりながら同僚に訴えかけていた。
「お願い、一緒に逃げよう! あんなに黒い煙が出てるのよ? 外に書類やガラスが散らばっていくのを見たでしょ? 普通じゃないって!」
背筋を冷たい汗が伝う。胸騒ぎどころではない、耐えがたい胸の騒ぎが私を襲っていた。
「逃げよう、みんな逃げた方がいい! 嫌な予感がするの!」
私が周囲に声を張っても、戻ろうとする人々は「考えすぎだよ」「この程度で俺たち営業は取引先や顧客に迷惑かけられないんだから」「事務の君とは責任が違う」と苦笑して通り過ぎていく。彼女もまた、オフィスへ戻ろうとしていた。
私は半ば強引に、彼女の腕を固く掴んだ。
「ねえ、お願いだから一緒に逃げて! あなたに何かあったら、息子くんはどうなるの!?」
彼女は一瞬ハッとしたように目を丸くしたが、やがて困ったような、けれど優しい笑みを浮かべた。そして私の指を、そっと一本ずつ解いていった。
「まだ大切な仕事が残っているの。今アジアやヨーロッパのクライアントから電話がかかってきてるはずよ。私が対応しなきゃ。……本当にダメだと思ったら、その時は絶対に逃げるから。また後でね」
「また後で」——その「後で」は来なかった。
彼女を引き留められなかった罪悪感と恐怖に押し潰されそうになりながら、私はひとり、非常階段をがむしゃらに駆け下り始めた。
午前9時3分。私が40階あたりまで降りてきた時だった。
巨人がビル全体を叩きつけたかのような、絶望的な衝撃と揺れが襲った。
「きゃああ!」
階段室を悲鳴が満たす。壁の亀裂からチョークのような真っ白な粉塵が一気に吹き込み、視界を奪った。バチンと音がして照明が消え、非常灯の薄暗い光だけが残される。頭上のスプリンクラーが一斉に作動し、冷たい水が滝のように階段を流れ落ちてきた。足首まで水に浸かりながら、誰もが狂ったように階下を目指した。
同僚たちの姿が頭をよぎり、胸が張り裂けそうになる。けれど、もう戻ることはできない。押し寄せる人の波に呑まれながら、私はただひたすら階段を降り続けた。
ようやく一階の地下モールを抜け、命からがら外の街へと飛び出した。
そして自分たちが出てきたビルを見上げた瞬間、呼吸が止まった。
自分たちがいた南棟からも、黒煙と激しい炎が噴き出していたのだ。
震える手でオフィスへ電話をかけたが、繋がらない。次に彼女の携帯電話へかけたが、電子音の呼び出し音が虚しく響くだけだった。
呆然と立ち尽くしていると、周囲から悲鳴と叫び声が上がった。
「北棟から人が落ちてくる!」
「見るな! 見ちゃダメだ!」
「逃げろ!」
嫌でも視線が上がってしまう。見たくないのに、目が離せない。
お互いの誕生日や、彼女が昇進した時に何度も訪れた、あのレストラン。
そのレストランの窓ガラスの向こうから、黒い煙を背に、人影が次々と空へと投げ出されていた。
言葉にならぬ叫びが喉の奥で潰れる。
その瞬間、頭上で不吉な「バチバチ」という金属の断裂音が響いた。
——崩れ落ちてくる。
本能が私を突き動かした。足が勝手に動き出す。救助へ向かおうとする消防士たちの波と逆方向へ、私はなりふり構わず走り続けた。
その後の記憶は途切れ途切れだ。気がついた時には、私は大勢の粉塵まみれの人々に交じって、ブルックリン橋の上をトボトボと歩いていた。全身が灰色の粉塵に覆われ、まるで亡霊のようだった。頭の中はただ真っ白で、何も考えられなかった。
***
風が吹き抜け、プールの水面が大きく揺れた。
現実の音が一気に戻ってくる。
六十歳になった私は、今もこうして生きている。
「……あと一週間で、あなたは三十五歳になるはずだったのよね」
誰もいない空間へ向けて、私は抱えていたガーベラとアスターの花束を静かに添えた。
「息子くんはね、あなたに似てとても真っ直ぐで素敵な大人になったわ。……そしてつい一か月前ね、とうとう結婚したのよ! 結婚式には私も呼ばれたの。……受付にはね、本当にレゴブロックのお人形が飾られていたのよ。本当に信じられないわ。ディズニー行きたい行きたいって言ってた幼い男の子がもうあなたの年齢を追い越して三十五歳になったのよ……」
そこまで一気に語りかけると、私はふと口を噤んだ。
貼りついていた微笑みが、急速に顔から消えていく。
深々と垂れ込める静寂の中、私の口から低く、震える声が漏れ出した。
「……ねえ、なんであの時、一緒に逃げなかったのよ」
抑え込んでいた胸の底の澱が、一気に押し寄せてくる。
「仕事なんて、どうでもよかったじゃない! 息子くんが待ってたんでしょ!? あの子がどれだけ寂しがったと思ってるのよ……!」
膝から崩れ落ち、私は冷たいブロンズ板に額を押し付けた。指先が彼女の名前を強く爪立てる。
「なんで……っ、なんで有能で仕事熱心で、幼い子供がいたあなたじゃなくて、怯えて逃げただけの私が残ったのよ! なんでなのよ!!」
喉を掻きむしるような叫びが、私の口から迸る。
私のほうが、あなたより生き残る理由があったっていうの?
私があなたより賢かったから?
私の判断が正しかったから?
——違う。
そんなものじゃない。
私は、たまたま、逃げられただけだ。
生き残ったことに理由などない。
この二十五年間、考えない日はなかった。
あのときもっと強く腕を掴めばよかった。
仕事なんてどうでもいいでしょと言えばよかった。
首に縄をつけてでも、引きずってでも連れていけばよかった。
——そうしてたら、彼女は今も私の隣にいてくれたのだろうか。
そんなこと考えても誰も答えてはくれない。
そして私の痛切な言葉は全て——重く冷たいリフレクティング・プールの流水音にかき消されていった。
そして、どこまでも真っ青なセプテンバー・ブルーの空だけが、何も言わずに今のマンハッタンを見下ろしていた。
fin.




