帝国最強の暗殺者と王国筆頭の聖女、実は週末の家庭菜園仲間でした〜戦場で命のやり取りをするフリをして、白菜の追肥の相談をするのをやめてください~
帝国最強の暗殺者と王国筆頭の聖女、実は週末の家庭菜園仲間でした〜戦場で命のやり取りをするフリをして、白菜の追肥の相談をするのをやめてください〜
国境を分かつヴェルデ峡谷の大平原。
秋風が吹き抜ける荒野に、両国の精鋭軍が整然と陣を敷いていた。
西側には、神聖ルクス王国の白銀の甲冑を纏った近衛騎士団と聖導魔導士部隊。東側には、ガルディニア帝国の漆黒の重装歩兵と魔獣騎兵団。両軍の先頭で対峙していたのは、大陸全土にその武名を轟かせる二人の生ける伝説だった。
王国軍の先頭に立つのは、二十歳の若さで筆頭聖女の座に登り詰めた『白銀の聖女』エリアナ・フォン・シルフィード。白磁のような美貌に純白の法衣を纏い、手にした聖樹の杖からは神聖なる浄化の光が絶え間なく立ち上っている。
対する帝国軍の先頭に立つのは、戦場で数千の敵を一刀両断にして葬り去ってきたと恐れられる『漆黒の死神』クロード・ブラックウェル暗黒騎士団長。二十四歳の若き英雄でありながら、夜色の黒髪に冷酷な紫紺の瞳を湛え、漆黒の巨大な魔剣を無造作に肩に担いでいた。
両軍の将兵たちは、息を呑んで二人の動向を見守っていた。
「いよいよ、聖女様と死神の頂上決戦が始まるぞ……!」
「どちらが一歩でも動けば、大地を割る激突になるに違いない!」
誰もが固唾を呑み、緊迫した沈黙が戦場を支配していた。
しかし――当のエリアナの内心は、戦争どころではなかった。
宮廷での聖女の日常は、金糸で刺繍された重い礼服と、息の詰まるような礼儀作法に縛られていた。朝の祈祷から始まり、貴族たちの陳情を聞き、夜は形ばかりの晩餐会で愛想笑いを浮かべる日々。誰もが彼女を「崇高な聖女」として崇め奉るが、一人の人間としての彼女の孤独や疲れに気づく者はいなかった。
だからこそ、週末に一人で馬車を駆り、国境の菜園で土の匂いを嗅ぐ時間だけが、彼女が自分自身を取り戻せる唯一の聖域だった。
土は嘘をつかない。愛情を注いで耕せば、必ず瑞々しい芽を出し、甘い実をつけて応えてくれる。
そんな彼女のささやかな楽園に現れたクロードもまた、戦場の狂気と殺戮に心を擦り減らし、静寂を求めて畑に流れ着いた、不器用で心優しい一人の青年だったのだ。
(……ああ、今日の午後から雨が降る予報なのに、第三区画のジャガイモの芽かき、まだ終わっていないのよね。追肥の油かすも混ぜておかないと、収穫期に芋が小粒になっちゃう……)
エリアナは清楚な聖女の微笑みを貼り付けながら、頭の中で畑の土壌図を必死に展開していた。
実は、彼女には誰にも言えない重大な秘密があった。
王国の宮廷貴族たちの虚礼や足の引っ張り合い、社交界のドロドロした愛憎劇に疲れ果てた彼女の唯一の心のオアシス――それは、国境の中立地帯にある『ひだまり市民菜園』で、週末に泥まみれになって無農薬野菜を育てることだった。
菜園での彼女は、聖女のティアラを脱ぎ捨て、泥だらけのオーバーオールと擦り切れた麦わら帽子を被った『土いじり好きの娘・エリ』として通っていた。
そして、その市民菜園で隣の区画を借りているのが、無口だが極めて手先が器用な野良着の青年『クロウ』だった。
二人は互いの素性をまったく知らないまま、過去二年間にわたって「アブラムシ駆除のためのテントウムシの放し飼い」や「完熟腐葉土の天地返し」について語り合い、畑仕事の合間に麦茶と塩むすびを分け合う、無二の家庭菜園仲間となっていたのである。
『白銀の聖女』エリアナの噂は、大陸中で神聖視されていた。
触れるだけであらゆる不治の病を癒やし、祈りを捧げれば荒野に花を咲かせ、悪意ある者を聖なる光で浄化する――そんな完璧な偶像を演じ続ける日々に、エリアナは息が詰まりそうになっていた。宮廷の貴族たちは彼女を「政略結婚の最高峰の駒」として狙い、高位聖職者たちは教会の権威を高めるための客寄せパンダとして利用しようとする。
「もう嫌……! 私は神の彫像じゃない、生身の人間なのよ……!」
二年前の春、精神的な限界を迎えたエリアナは、変装魔法と古い麦わら帽子で素性を隠し、国境の緩衝地帯にひっそりと存在する『ひだまり市民菜園』へと逃げ込んだのだった。
そこには、身分も階級も関係のない、ただ純粋に土と向き合うだけの素朴な世界が広がっていた。
一方、対峙するクロード・ブラックウェルもまた、まったく同じ苦悩を抱えていた。
『漆黒の死神』『血塗れの黒狼』――敵国からはそう恐れられ、味方の帝国軍部からも「感情のない殺人人形」と敬遠されていたクロード。しかし彼の実態は、幼い頃から草花を愛し、道端に咲くスミレを踏まないように大股で歩くような、極めて繊細で心優しい青年だった。
戦場の殺戮と政治の泥沼に心を蝕まれていたクロードにとって、市民菜園の三十坪の土壌だけが、唯一自分の心を守れる聖域だったのだ。
出陣前の早朝、エリアナは侍女たちに純白の法衣を着せられながらも、心の中では「昨日の夕方、カボチャの受粉作業を忘れていなかったかしら」と真剣に悩んでいた。一方のクロードも、漆黒の甲冑を身につけながら、副官に「国境付近の降水確率と風速を至急報告せよ」と命じていた(副官は軍事作戦の天候確認だと信じ切って感動していたが、本人はビニールトンネルの耐風性を心配していただけだった)。
遠眼鏡越しに相手の陣営を偵察していた時、エリアナは帝国軍の総大将の姿を見て、無意識に心の中で品定めをしていた。
(……あの漆黒の鎧を着た騎士団長、もの凄く体幹がしっかりしているわね。あの強靭な背筋と腕力があれば、三十坪の粘土質の畑でも、一日で全部スコップで天地返しできちゃうんじゃないかしら……)
一方のクロードもまた、自陣の天幕から王国軍の陣頭に立つ聖女を観察しながら、密かに感嘆の息をついていた。
(……白銀の聖女か。手にした聖樹の杖の構え方に微塵のブレもない。重心が下半身にしっかりと落ちている。あれは、日頃から畝立てや長靴での泥歩きで足腰を徹底的に鍛え上げている者の立ち姿だ……)
互いに相手を「一流の戦士」ではなく「一流の農作業従事者」として無意識に評価していた二人は、それぞれの配下の騎士たちが抱く緊張感とは完全に乖離した思考回路のまま、決戦の火蓋を切ったのだった。
「全軍、突撃ィィィッ!」
両軍の号令が鳴り響いた瞬間、エリアナとクロードは同時に地を蹴った。
白銀の光と漆黒の闘気が交錯し、二人は戦場の中央で激突した。
ガギィィィィン……!
聖樹の杖と巨大な魔剣が交差し、凄まじい衝撃波が巻き起こる。
周囲の騎士たちが「おおっ、互角の攻防だ!」と歓声を上げる中、至近距離で顔を突き合わせた二人の視線が、カチリと合った。
クロードの紫紺の瞳が、わずかに揺れた。
「……おい、麦わら」
「……は? ちょ、ちょっと待ってください、クロウさん! なんで帝国のフルプレートアーマーを着てるんですか!」
エリアナは杖を押し当てながら、小声で叫んだ。
「俺のセリフだ。その派手な聖女の冠、畑の案山子の飾りにすらならんぞ。……それより、昨夜の強風で、南側のトウモロコシの支柱は折れなかったか?」
「麻紐で四点支持しておいたから一本も倒れてません! それより、そっちの白菜の苗、ヨトウムシに芯を食べられてましたよ!」
「何だと! くそっ、米ぬかを撒いて誘殺トラップを仕掛けておくべきだった……!」
クロードが苦渋に顔を歪めながら、魔剣を大上段に振り上げた。
周囲の将兵たちからは、「おおっ! 死神が必殺の斬撃を繰り出し、聖女様が謎の古代呪文で対抗している!」と感嘆のどよめきが沸き起こったのだった。
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□戦場の対話と菜園の記憶□
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「はあぁぁぁっ!」
エリアナが神聖魔法の光の結界を展開すると、クロードの魔剣が結界の表面を滑らかに滑り、派手な火花を散らした。
外から見れば生死を賭けた壮絶な打ち合いに見えるが、実際には二人の長年の畑仕事で培われた阿吽の呼吸により、お互いに一ミリの怪我も負わせない完璧な寸止め演武が繰り出し合われていた。
「クロウさん、もっと剣の軌道を派手にして! 王国の騎士団長が後ろで見てます!」
「分かっている。そちらも光の粒子を多めに散らせ。……ところでエリ、今年の秋ナスだが、剪定の時期が遅れて実の付きが悪くないか?」
「夏バテ気味だったから、八月下旬に更新剪定をして根切りしたんです。来週あたりから秋ナスの収穫が最盛期になりますよ」
「……そうか。なら安心した。俺が育てている黒皮カボチャと物々交換してくれ。今夜はカボチャの煮物にする予定だったんだ」
「いいですね! 私、甘辛い醤油煮が大好物なんです」
剣戟の金属音が甲高く響くたびに、野菜の収穫計画と夕食の献立がテンポよく更新されていく。
二人が『ひだまり市民菜園』で出会ったのは、二年前の春だった。
当時、聖女としての激務で胃潰瘍寸前だったエリアナは、気晴らしに借りた小さな区画で、硬い粘土質の土壌に鍬を突き立てて途方に暮れていた。そこへ、隣の区画で黙々と堆肥を鋤き込んでいたクロードが、無言で一本の万能鍬を差し出してくれたのだ。
「土が固すぎる。牛糞堆肥と燻炭を三対一で混ぜて、二週間寝かせろ」
ぶっきらぼうな一言だったが、彼のアドバイス通りに土作りをしたところ、初夏には驚くほど甘いミニトマトが鈴なりに実った。
それ以来、二人は週末になると畑に集まり、朝から夕方まで土と向き合うようになった。
クロードは帝国の軍務で血生臭い暗闘に晒されており、植物の無垢な生命力に触れることだけが、彼の壊れかけた人間性を繋ぎ止める唯一の救いだったのだ。
「俺の手は、人を殺すことしかできないと思っていた」
いつかの夕暮れ、採れたてのキュウリをかじりながらクロードが呟いた言葉を、エリアナは今でも鮮明に覚えていた。
「そんなことありませんよ。クロウさんの手は、こんなに瑞々しくて美味しい命を育てられる、世界で一番温かい手です」
エリアナがそう言って笑った時、クロードは耳まで真っ赤にして俯いていた。
二人の野菜作りへの情熱は、もはやプロの農家を凌駕するレベルに達していた。
春には種籾の温湯消毒から始め、初夏にはトマトの脇芽かきと誘引をミリ単位で調整する。真夏の日照りには地下水を汲み上げて点滴灌漑を施し、秋には落ち葉を集めて米ぬかと油かすを何層にも積み重ねた特製堆肥を発酵させる。
「おいエリ、この堆肥の温度、すでに六十度を超えているぞ。内部の好気性菌が活発に活動している証拠だ」
「素晴らしいわ、クロウさん! これなら放線菌がしっかり増殖して、来年の春にはフカフカの団粒構造の土になりますね!」
二人が顔を寄せ合って湯気立つ堆肥の温度計を見つめる姿は、側から見れば恋人同士の逢瀬というよりも、新進気鋭の農業研究員たちの真剣な実験風景そのものだった。
しかし、その泥にまみれた共同作業の積み重ねこそが、どんな言葉よりも深く、二人の魂を強く結びつけていたのだった。
二人が初めて出会った日の記憶は、今でも鮮烈だった。
重い粘土質の土壌に手こずり、手のひらにマメを作って半泣きになっていたエリアナ。そこへ現れたクロードは、野良着の袖をまくり上げ、慣れた手つきでスコップを振るって硬い土塊を砕いてくれたのだ。
「土作りを怠った畑に、美味い野菜は育たない。焦るな」
クロードが教えてくれたのは、野菜作りの技術だけではなかった。
「芽が出ない日があってもいい。根が土の中でじっくりと育っている時期なんだから、水をやりながら静かに待てばいいんだ」
その言葉は、宮廷で完璧な聖女であることを求められ、失敗を許されずに追い詰められていたエリアナの心を、どれほど救ってくれたか知れなかった。
また、クロードにとっても、エリアナの存在は唯一無二の光だった。
誰もが彼の強面と冷たい雰囲気に怯えて逃げ出す中、エリアナだけは「クロウさん、見てください! カボチャの雌花が咲きましたよ!」と、泥だらけの手で嬉そうに駆け寄ってきてくれた。
自分の手から生み出された命を、心から喜んでくれる人がいる。
去年の冬、記録的な大寒波が国境地帯を襲った時も、二人は夜通し畑に駆けつけ、寒冷紗と稲わらを何重にも重ねて冬野菜たちを守り抜いた。凍える寒さの中、小さな焚き火で焼いた干し芋を分け合いながら笑い合った夜の温もりを、二人は片時も忘れたことはなかった。
その温かな実感が、クロードの凍りついていた心を少しずつ、確実に溶かしていったのだった。
二人の菜園生活における名物といえば、季節ごとの収穫物を使った手作り軽食の交換会だった。
初夏には、エリアナが間引いたズッキーニとハーブを練り込んで焼いた特製マフィンを持参し、クロードは自宅で漬け込んだ小ナスのからし漬けと冷たい麦茶を差し出す。
「エリ、このマフィンは美味いな。ズッキーニの水分が生地にしっとり馴染んでいる」
「ふふ、ありがとうございます! クロードさんのからし漬けも、ツンとした辛味が夏バテの体に染み渡ります!」
また、害虫を寄せ付けないためのコンパニオンプランツ(共栄作物)の研究にも余念がなかった。トマトの株元にバジルを植えて風味と生育を促し、ネギとキュウリを混植してつる割病を予防し、畑の周囲にはマリーゴールドを絨毯のように植え付けてセンチュウを撃退する。
「科学的な農薬に頼らなくても、植物同士の相性を活かせば、土は自ずと健康になるんだ」
クロードが真剣な顔で語る農学理論に、エリアナはいつも目を輝かせて聞き入っていた。
宮廷の誰も教えてくれなかった命の真実を、クロードは畑の土を通じて、惜しみなく教えてくれたのだ。
そんな二人の平和な菜園ライフを揺るがす、最悪の危機が迫っていた。
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□迫る危機と守るべき大地□
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「ふははは! 撃て! ヴェルデ峡谷一帯を火の海に変えろ!」
戦場後方の小高い丘の上で、帝国の好戦派貴族であるバルトロメウス軍団長が、邪悪な笑みを浮かべて号令を下していた。
バルトロメウスは、王国の腐敗貴族たちと裏で結託し、国境地帯の肥沃な農地を火炎魔法で焼き払うことで、両国を全面戦争へと突入させ、軍需物資の横流しで巨額の利益を得ようと画策していたのだ。
丘の上に並べられた数十台の魔導投石器が、黒煙を吹き上げる巨大な火炎弾を装填していく。
その標的となっている方角を見た瞬間、エリアナとクロードの動きがピタリと止まった。
火炎弾の着弾予測地点――そこは、二人が三年かけて完熟腐葉土を育て上げ、丹精込めて育てた秋野菜が実る『ひだまり市民菜園』のド真ん中だった。
「……おい、エリ」
クロードの声から、先ほどまでの穏やかさが完全に消え失せた。
漆黒のオーラが魔剣から噴き上がり、大気がビリビリと震える。
「あの馬鹿どもが狙っているのは……俺たちが先週、油かすと米ぬかをすき込んで、来週タマネギを植え付ける予定だった第一圃場か?」
エリアナもまた、銀縁の眼鏡の奥の瞳をスッと細め、聖樹の杖を両手で握り直した。
白銀の神聖魔力が渦を巻き、天蓋の雲を吹き飛ばしていく。
「ええ、間違いありません。……三年熟成の牛糞堆肥と、昨日芽が出たばかりの極上ホウレンソウが、あの区画にあります」
二人の間に、絶対零度の殺気が満ちた。
「許さん」
「万死に値しますね」
次の瞬間、聖女と暗黒騎士団長は、互いに背中を預け合うようにして跳躍した。
ドォォォォン……!
丘の上から放たれた数百発の魔導火炎弾が、紅蓮の雨となって市民菜園の上空へと降り注いだ。
大地が焼き尽くされ、黒煙が立ち上る――はずだった。
「――天地万物を育みし母なる大地よ、穢れなき水を以て、愚かな焔を鎮め給え! 《聖創・豊穣の水鏡大結界》!」
エリアナが杖を天へと掲げると、半径数キロメートルに及ぶ超巨大な水の天蓋が展開された。
降り注いだ火炎弾は、分厚い水膜に触れた瞬間にジュウジュウと音を立てて鎮火し、ただの生温かい霧雨となって畑へと優しく降り注いだ。
「な、何だと! 聖女がなぜ、国境の荒野全体を覆うような規格外の防御結界を展開できるのだ!」
丘の上のバルトロメウス軍団長は、魔導火炎弾の装填を急がせていた。
「早くしろ! 国境の農地ごと焼き払えば、王国の仕業に見せかけて全面侵攻の口実ができる! 一帯を焦土に変えろ!」
しかし、その卑劣な企みは、最強の園芸家二人を本気で怒らせてしまった。
大地を蹴ったエリアナとクロードは、音速を超えて戦場を駆け抜けた。
「《聖樹の息吹・大地の滋養》!」
エリアナが聖樹の杖を振るうと、大地から無数の巨大なツタと根が爆発的に伸び上がり、魔導投石器の砲身を一瞬で縛り上げて圧壊させた。
「な、植物魔法だと! 聖女は治癒と浄化しか使えないはずでは――」
驚愕する帝国兵たちの間を、クロードが黒い疾風となって駆け抜ける。
「《断罪の一閃・天地返し》!」
クロードの魔剣の切っ先が地面を薙ぎ払うと、精密な天地返しの要領で地面の土砂が舞い上がり、放火用の火炎油の樽をすべて一瞬で土中に埋没させて鎮火した。
「ひ、ひぃぃっ!」
腰を抜かしたバルトロメウスの胸ぐらを、クロードが無言で片手で吊り上げる。
「貴様……作物の根が呼吸するための団粒構造を、油で汚す気だったのか」
「そ、そんなことで怒っているのか貴様は――ぎゃあぁぁっ!」
クロードの無慈悲な拳がバルトロメウスの鳩尾にめり込み、悪徳軍団長は白目を剥いて卒倒した。
完璧な制圧劇だった。
両軍の陣営から見ていた兵士たちは、聖女と死神が突如として並走し、丘の上の軍団長を一撃で粉砕した光景に、「な、何が起きたんだ!」「聖女様と死神閣下が、完璧な阿吽の呼吸で裏切り者を処刑されたぞ!」と大混乱に陥っていた。
丘の上のバルトロメウスが狼狽して叫んだ。
その背後に、漆黒の影が音もなく音速で降り立った。
「……貴様だな。俺の畑の土壌酸度(pH)を狂わせようとした不届き者は」
「ひ、ぎゃあぁぁっ!」
振り返ったバルトロメウスの首元に、クロードの冷たい魔剣の切っ先がミリ単位の狂いもなく突きつけられていた。
クロードは一瞬で周囲の護衛兵たちを全員峰打ちで気絶させると、バルトロメウスの胸倉を掴み上げて地面に叩きつけた。
「ま、待て! 私は帝国貴族だぞ! 貴様、暗黒騎士団長の分際で――」
「黙れ。作物の命を軽んじ、土を汚す貴様に、貴族を名乗る資格などない」
そこへ、ふわりと風に乗ってエリアナが舞い降りてきた。
エリアナは優雅な仕草でバルトロメウスの懐に手を差し入れ、一通の機密文書を抜き取った。
「ありましたよ、クロウさん。王国の好戦派貴族と交わした、農地放火自作自演計画の密約書です」
「見事だ、エリ。これで両国の首脳陣に、戦争を仕掛けた黒幕の正体を突き出せるな」
二人は完璧なコンビネーションで証拠を押収し、呆然と立ち尽くす両軍の将兵たちの前へと歩み出た。
「両軍の兵士たちよ、剣を収めなさい!」
エリアナの透き通るような神聖な声が、戦場全体に響き渡った。
「この戦いは、軍需利権を貪る一部の裏切り者たちが仕組んだ茶番劇です! 証拠の密約書はすべて押収いたしました!」
クロードもまた、捕縛したバルトロメウスを掲げ、冷徹に言い放った。
「帝国軍はこれ以上の戦闘を停止する。背信者を拘束し、直ちに国境線を後退させよ」
両軍の将兵たちは歓声を上げ、武器を投げ捨てて抱き合った。
□□□□□□□□□□□□□□
□和平の後のささやかな日常□
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和平条約の調印式において、両国の国王は「奇跡の英雄たち」を讃える演説を熱烈に行っていた。
「白銀の聖女と漆黒の死神が、戦場において魂の共鳴を果たし、国家の壁を越えて平和の架け橋となった!」
「これぞまさに、神が定めた奇跡の愛の調和である!」
宮廷の貴族や神官たちは感動に涙を流し、詩人たちは二人の武勇を称える叙事詩を書き殴っていた。
しかし、当の二人がその華やかな式典の最中、壇上の裏で交わしていた密談は、相変わらず極めて現実的なものだった。
「エリアナ、叙勲パーティーの料理に使われているアスパラガス、筋っぽくて鮮度が落ちているぞ」
「同感です、クロードさん。収穫から三日以上経過していますね。私たちの畑で朝採りしたアスパラのほうが、十倍は甘くて柔らかいです」
「式が終わったら即座に脱出しよう。追肥の時間が迫っている」
「はい、馬車の裏口に作業着を用意してあります!」
捕縛されたバルトロメウス軍団長と王国の内通貴族たちが憲兵隊に引き渡された直後、両軍の本陣から慌てふためいて駆けつけてきたのは、ルクス王国の大司教と、ガルディニア帝国の最高宰相だった。
二人は、荒野のど真ん中で仲良く並んで座り、泥だらけのスコップを片手に火炎弾の燃えかすを片付けている『白銀の聖女』と『漆黒の死神』の姿を見て、揃って顎が外れそうになっていた。
「せ、聖女様……! なぜ帝国の死神と並んで土を掘っていらっしゃるのですか……!」
「閣下……! まさか敵国の聖女と手を組んで、自軍の軍団長を殴り倒されたのですか……!」
狼狽する最高首脳陣に対し、エリアナは涼しい顔で泥のついた手袋を払った。
「大司教様。この土地の豊かな土壌を焼き払おうとした不届き者を、神の正義に基づき成敗したまでです」
クロードもまた、冷徹な表情を崩さずに言い放った。
「宰相殿。我が軍の名誉を汚し、私腹を肥やすために開戦を画策した裏切り者を排除した。何か不服でもあるか」
二人の圧倒的な気迫と正論の前に、両国の首脳陣はただ「は、ははぁっ……!」と平伏するしかなかった。
二人の圧倒的な武勇と知性によって、泥沼の全面戦争は、一人の犠牲者も出すことなく完全に回避されたのだった。
それから数日後。
密約書に基づき、両国の腐敗貴族たちは一網打尽に摘発され、ルクス王国とガルディニア帝国の間には、歴史的な不可侵平和条約が締結された。
王都と帝都では「奇跡の和平をもたらした聖女と英雄」を称える大祝典が催されていたが――。
夕暮れ時の『ひだまり市民菜園』。
茜色の空の下、赤とんぼが飛び交う畑の片隅で、二つの人影が並んで腰を下ろしていた。
華やかな礼服を脱ぎ捨て、いつもの泥だらけのオーバーオールと麦わら帽子に戻ったエリアナ。
そして、黒の野良着に長靴を履いたクロード。
二人の前には、採れたての秋ナスと甘いパプリカのホイル焼き、そして湯気を立てる具沢山の野菜豚汁が並んでいた。
夕暮れの風が、豊かに実った野菜たちの葉を優しく揺らしていた。
市民菜園の休憩小屋の縁側で、二人は並んで腰を下ろし、小さな七輪を囲んでいた。
七輪の上では、採れたての極太ナスがジュウジュウと音を立てて皮を焦がし、甘い香ばしさが立ち上っている。隣の鍋では、採れたての大根、ニンジン、サトイモがたっぷりと入った豚汁が、コトコトと美味しそうな湯気を上げていた。
「熱いから気をつけてな」
クロードが焼き上がったナスを竹串から外し、生姜醤油を垂らして小皿に盛ってくれた。
エリアナはフーフーと息を吹きかけ、一口頬張る。
「……んん〜っ! 柔らかくて、ジューシーで、甘みが凄いです!」
「だろう。更新剪定の後に油かすを与えたから、アミノ酸の旨味が凝縮されているんだ」
クロードも満足そうに頷き、豚汁の椀を両手で包み込んだ。
戦場の殺伐とした空気も、宮廷の息苦しい駆け引きも、ここには存在しない。
ただ、自らの手で慈しみ育てた大地の恵みと、最も心を許せる大切な相棒の笑顔があるだけだった。
「それにしても、クロードさんが帝国の暗黒騎士団長だったなんて、今でも信じられません」
「俺の方こそ、週末に泥だらけになってミミズを素手で捕まえていた娘が、王国の筆頭聖女だったとは夢にも思わなかったぞ」
二人は顔を見合わせ、堪えきれずに吹き出した。
「ふふ、やっぱり採れたての野菜は最高ですね」
エリアナが熱々のナスを頬張り、幸せそうに目を細めた。
「ああ。火炎弾の熱で土壌が温まったおかげか、今年のサツマイモは驚くほど糖度が高いぞ」
クロードが真面目な顔で焼き芋を割り、黄金色の湯気立つ断面をエリアナに差し出した。
「わあ、美味しそう! ありがとうございます、クロウさん」
「……クロードだ」
クロードが少し照れくさそうに、そっぽを向きながら呟いた。
「もう素性はバレているんだ。クロードと呼んでくれ」
「ふふ、じゃあ私のことも、エリアナって呼んでくださいね」
エリアナが微笑むと、クロードは紫紺の瞳を柔らかく細め、ポケットから小さな木箱を取り出した。
「エリアナ。……次の春の作付け計画だが、相談がある」
「はい、何でしょう?」
クロードが差し出した木箱の中に入っていたのは、宝石ではなく――極上の『ホワイトアスパラガスの高級種子』と、二つの区画の境界線を取り払うための『菜園合併申請書』だった。
「来期から、俺たちの区画を一つに統合しないか。……生涯をかけて、君と一緒に、最高の土を耕し続けたい」
その不器用で、しかし誰よりも温かいプロポーズに、エリアナの胸が熱く満たされた。
「はい! 喜んで、生涯ご一緒させてください!」
永遠に続く実りの物語
夜の帳が下りると、菜園の上空には満天の星が瞬き始めた。
虫たちの穏やかな合唱が響く中、二人は並んで腰掛け、新しく耕した畝を見つめていた。
「クロードさん、来年はイチゴのトンネル栽培にも挑戦してみたいです」
「いいな。ミツバチを巣箱ごと借りてきて、自然交配させよう。甘くて大粒のイチゴができるはずだ」
「ふふ、楽しみですね」
お互いの肩が自然と触れ合い、温かな体温が心地よく伝わってくる。
戦場の英雄でも、崇高な聖女でもなく、ただ愛する人と共に土を耕し、命を育てる幸せ。
二人が手を取り合って歩み始めた新しい未来は、これからもずっと、太陽の光と大地の恵みに包めて、豊かに実り続けていくのだった。
「エリアナ」
クロードが真剣な眼差しで、静かに隣のエリアナを見つめた。
「俺は、帝国の軍務を引退する手続きを進めている。国境地帯の警備顧問としてこの地に残り、本格的に農業を本業にするつもりだ」
「まあ……! 本当ですか、クロードさん?」
「ああ。これからは、人を傷つけるためではなく、人の命を養うために生きたい。……そして、その人生を、君と共に歩みたいんだ」
クロードが差し出した木箱の中に入っていた、ホワイトアスパラガスの高級種子と菜園合併申請書。
それは、どんな高価なダイヤモンドの指輪よりも、エリアナの心に深く刺さる最高の贈り物だった。
「はい、クロードさん。二人で世界一美味しい野菜を育てて、世界一温かい家庭を作りましょうね」
エリアナが満面の笑顔で答えると、クロードは不器用ながらも、これまでにないほど優しく柔らかな笑みを浮かべた。
二人が手を取り合って見つめる畑の上には、新しい春に向けた豊かな命の息吹が、静かに、そして力強く息づいていた。
翌月、ルクス王国とガルディニア帝国の間で正式に締結された平和条約の目玉となったのは、二人が起草した『国境緩衝地帯における有機農業共同特区の設置法案』だった。
戦争のために睨み合っていた両国の兵士たちは、鍬とスコップを手に取り、特区の広大な農地で野菜作りの技術を学び合うようになった。
「聖女様と暗黒騎士団長閣下が育てられたトマトを食べると、不思議と争う気が失せる」
そんな噂が広まり、国境地帯はいつしか大陸で最も平和で肥沃な穀倉地帯へと変貌を遂げていった。
焚き火の薪がパチパチと爆ぜ、心地よい温もりが二人の体を包み込む。
七輪の網の上で焼かれた秋ナスの甘い香りと、採れたて野菜の豚汁の温かさが、張り詰めていた二人の心を完全に解きほぐしていく。
「エリアナ」
「はい、クロードさん」
「これからは、もう誰にも隠れることなく、堂々と二人で畑を耕せるな」
「ええ……! 本当に夢のようです」
エリアナが微笑むと、クロードはそっとその手を握りしめた。
泥のついた、温かくて力強い手。
戦場の血の臭いではなく、豊かな土と太陽の香りがするその手を、エリアナは両手で優しく包み返した。
夜空を見上げれば、満天の星が優しく瞬いている。
二人が手を取り合って育てる新しい命と愛の物語は、これからもこの豊かな大地の上で、どこまでも温かく、実り豊かに続いていくのだった。
明日もまた、朝一番の澄んだ空気の中で、二人は並んで鍬を振るうだろう。土の温もりと野菜の甘みが教えてくれた真実の愛は、何百年先も変わることのない大地の恵みとともに、永遠に咲き誇り続けるのだった。二人が紡ぎ出す笑顔は、国境を越えて、世界中の食卓へと優しい幸せを届けていく。種を蒔き、水をやり、共に育てる日々こそが、何よりも尊い奇跡の宝物だった。
静寂に包まれた夜の畑で、二人は並んで座りながら、来年の春の作付けノートを開いた。
「クロードさん、次はアスパラガスとトウモロコシの区画を隣同士にしましょう」
「ああ、背丈のバランスを考えて配置しよう。君の好きなハーブもたくさん植えよう」
夕暮れの心地よい風が吹き抜け、二人の穏やかな笑い声が、実り豊かな畑の上に優しく広がっていった。
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