常連と一見 :約1500文字
「……ひどい味だな」
夜、とあるバー。天井に吊るされたランプがオレンジがかった光を落とし、磨き上げられたボトルの列を柔らかく照らしている。スピーカーから静かに流れるジャズが、空気に溶け込んでいた。
カウンター席の端に座る老人は、手元のグラスをじっと見つめたまま、ぼそりと漏らした。眉間に深い皺を刻み、ゆっくりとグラスをカウンターへ置く。琥珀色の液体が老人の吐息に合わせるように、かすかに揺れた。
「おいおい、そりゃ聞き捨てならないね、じいさん」
三つほど離れた席に座る男が、体を傾けて声をかけた。
「ここはこの辺じゃ一番の店だぜ。おれが保証するよ」
男は足を組み替え、マスターへ視線を投げた。
「なあ、マスター。そうだろ? じゃなきゃ、毎晩通ってるおれが間抜けみたいじゃないか」
マスターは黙々とグラスを磨き続けながら、曖昧に頷いた。
どうやら男は常連らしい。老人は内心で、これは余計な一言だったなと呟き、親指で眉をぽりぽりと掻いた。
「世間知らずだな、じいさん。ずっと倉庫で昼寝でもしてたのかい?」
「埃かぶってらあ」と男は鼻で笑い、グラスに口をつけた。これ以上絡むつもりはなく、『しょうがねえから、おれが教えてやるよ』と言うつもりだった。
だが、老人の目の色が変わった。
「……私は多くを知っている。お前なんぞよりもな」
低く、圧のある声だった。男はぴたりと動きを止め、「へえ」と短く漏らした。
「じゃあ、おれの名前も知ってるってわけか?」
「もちろんだ。知ろうと思えばな。君だけじゃない。あそこの客も、あっちも、あそこも、誰であろうと、だ」
老人は視線を巡らせ、顎で示した。男は思わず吹き出した。
「ははは、名刺交換でも始める気かい?」
「いいや。それどころか、君が今日の昼に何を食べたのかも、奥さんが誰と浮気しているのかもわかる」
「ははは」男は肩を揺らして笑った。
「それから……」
「それから?」
「君がいつ死ぬのかも、な」
カラン、と男のグラスの中で氷が転がり、澄んだ高い音を立てた。
男は目を細め、にやりと笑い、「そいつは面白いな」と呟いた。
「じゃあ、あんたは自分がいつ死ぬのかもわかるのかい?」
その問いに、今度は老人がふっと笑みを漏らした。
「まあな。だが、ありえないことだ」
「なぜだ? 誰にだって寿命はあるぞ。おれたちにもな」
「君たちと私は違うのだよ」
「違う? どう違うってんだよ」
男はせせら笑い、マスターは困ったように肩をすくめてみせた。
「私は……」
老人は一呼吸置き、じっくりと間を溜めてから静かに告げた。
「神だ」
「……神?」
沈黙が落ちた。男とマスターは目を大きく見開き、まじまじと老人を見つめる。明らかに異物を見るような目だったが、老人は意に介さず続けた。
「そうだ。だから君がどこの誰で、どんな人間かもわかるのだ。そろそろ、その力の一端を見せてやろう」
老人は静かに目を閉じた。次の瞬間、その白髪がふわりと浮き上がり、滲み出すように淡い光が全身を包み込んだ。空気が震え、ボトルの中の液体がわずかに波打った――その一方で、男はきょとんとした表情で首を傾げた。
「神? 神ってなんだい?」
老人が目を開けた。男がマスターに視線を送ると、マスターもまた小首を傾げた。
「そんな……」
かすれた声で呟くと同時に、老人の体は急速に色を失い、灰白色へと変わっていく。表面がひび割れ、次の瞬間には砂となってカウンターの足元に崩れ落ちた。
男とマスター――アンドロイドたちは処理が追いつかず、しばらくの間固まっていた。




