なんか説得力のある婚約破棄
◆
「君を愛する事は出来ない──ゆえに婚約を破棄したい」
声が響いた瞬間、ライラ・オーネストは瞬きを一つして、目の前に立つ王太子エルリックの顔を見つめた。
近頃の社交界ではこの手の婚約破棄が流行り病のように蔓延していた。ある者は舞踏会の最中に衆人環視のもとで宣言し、ある者は婚約者の誕生日祝いの席で突如として手紙を読み上げ、またある者は王宮の庭園で花束を投げつけながら涙ながらに告げる。様式美とでも呼ぶべき定型が形成されつつあり、ライラはそれを苦々しく眺めてきた側の人間である。
まさか自分がその当事者になるとは──ライラの胸に冷たいものが満ちていく。
「殿下」
声は思いのほか平坦に出た。椅子の肘掛けを握る指先に力が入る。
「このような横紙破りが昨今流行っているとは存じておりましたが王太子殿下までもがその流れに乗られるとは」
「流行とは心外だ」
エルリックは眉を僅かに寄せ、窓辺に歩み寄った。背を向けたまま、庭園を見下ろす姿勢で言葉を続ける。
「私は流行に乗っているのではない。やむを得ざる事情により、この決断を下した」
「やむを得ざる事情、ですか」
どうせ真実の愛がといったくだらない事情なのだろうとライラは鼻白む。
「説明しよう」
だが振り返った王太子の瞳には妙な覚悟のようなものが宿っていた。少なくとも真実の愛云々と浮ついている様にはとても見えなかった。
「まず前提として、我がランベール王国と隣国ヴェルディア公国の関係について述べる必要がある。両国は三百年前のカルナヴァル条約により、国境を接するフォルテン山脈の鉱山資源を共同管理してきた。この条約には付帯条項があり、両国の王族もしくは公爵家以上の貴族が婚姻関係を結ぶ際には相手国への事前通告と承認が必要とされている。ただしこの条項は婚姻が資源配分に影響を与えうる場合に限定されるという解釈が百五十年前のヘルマン宰相による覚書で示された。しかしながら、この覚書自体の法的拘束力については両国で見解が分かれており、ヴェルディア側は覚書を単なる私的見解と捉え、我が国は準公式文書として扱ってきた経緯がある」
「つまり、私との婚約がヴェルディアに通告されていなかったと」
「その通りだ。だが問題はそれだけではない」
エルリックは窓枠に手をかけ、視線を遠くに投げた。
「オーネスト公爵家は六十年前にフォルテン山脈東部の採掘権を王家から下賜されている。この採掘権は当時、枯渇寸前と見なされていた鉱脈に対するものであり、実質的な価値はないとされていた。ところが三年前の地質調査により、この鉱脈の深層に希少鉱石レアルディウムの大規模な埋蔵が確認された。レアルディウムは魔導具の核として不可欠であり、その価値は現在の国家予算に匹敵する。ヴェルディア側はこの発見を受け、カルナヴァル条約の再解釈を主張し始めた。すなわち、オーネスト公爵家への採掘権下賜は条約違反であり、資源の半分はヴェルディアに帰属するという立場だ」
「私の家が条約違反をしたという事ですか?」
「正確には王家が条約違反をしたという主張になる。だがここで複雑なのはヴェルディア側の主張にも一定の根拠があるという点だ。カルナヴァル条約の原文では『発見される鉱物資源』という表現が用いられており、これが『条約締結時点で発見されていた資源』を指すのか、『将来発見される資源を含む』のかについて、両国で解釈が異なる。我が国は前者、ヴェルディアは後者の立場をとっている」
ライラは椅子に深く腰を沈めた。話が長くなりそうだという予感があった。
「それと私との婚約がどう関係するのでしょう」
「関係する。極めて密接に」
エルリックは部屋の中央に戻り、テーブルを挟んでライラと向き合う位置に立った。
「オーネスト公爵家の令嬢と王太子が婚姻した場合、国際法上の解釈として、オーネスト公爵家の所有する採掘権は王家に帰属するという見なしがなされる可能性がある。これはブランシュ法典の第七章第三節に規定される『王族婚姻に伴う財産移転の推定』に基づく。ヴェルディア側はこの規定を援用し、我々の婚姻をもって採掘権が王家に移転したと主張し、その上で『王家の所有物は条約の対象となる』というカルナヴァル条約の別の条項を持ち出してくるだろう。つまり、君と私の婚姻はレアルディウム鉱脈をヴェルディアに半分明け渡す口実を与えることになる」
「私との結婚が国家資源の流出につながると」
「そうだ。しかしこれはまだ序章に過ぎない」
ライラは額に手を当てた。
「続けてもよいか」
「ええ、どうぞ」
「レアルディウムの問題は発見直後から水面下で交渉が行われてきた。私も父王もこの問題を平和的に解決するため、様々な妥協案を模索した。その過程で浮上してきたのがヴェルディア公国との王族間婚姻という選択肢だ。ヴェルディア公アルベルトには二人の娘がいる。長女セレスティーナと次女マルガリータ。両者ともに適齢期であり、いずれかとの婚姻は両国関係の安定化に資するものとして、双方の外交官から提案されてきた」
「殿下がヴェルディアの姫と結婚すれば、鉱山問題は解決すると」
「単純にはそうならない。ここが複雑なところだ」
エルリックは溜息をついた。それは疲労というよりもこれから説明すべき事柄の煩雑さに対する諦観のようなものだった。
「セレスティーナ姫は二年前に東方のカルディナ帝国の皇太子と婚約している。この婚約はカルディナ帝国がヴェルディア公国に軍事援助を行う見返りとして成立したものだ。カルディナ帝国は現在、南方のサラセン諸侯連合と対立しており、フォルテン山脈を経由する北方交易路の確保を望んでいる。この交易路は我がランベール王国とヴェルディア公国の共同管理下にある。セレスティーナ姫との婚約はカルディナ帝国にとって交易路の優先使用権を得るための布石であり、もしこの婚約が破棄されれば、カルディナ帝国はヴェルディア公国への軍事援助を停止するだけでなく、報復として交易路の封鎖を要求する可能性がある」
「長女との結婚は別の国との関係を壊すということですね」
「その通り。では次女マルガリータ姫はどうか。彼女は現在、聖ローレンティア教会の高位聖職者見習いとして、エルミタージュ修道院に入っている。形式上は還俗可能だが聖ローレンティア教会は近年、世俗権力との距離を置く方針を強めており、高位聖職者見習いの還俗には教皇庁の承認が必要となる。現教皇クレメンス九世はヴェルディア公アルベルトとの間に過去の確執があり、マルガリータ姫の還俗を承認する可能性は低い。仮に承認されたとしてもそれは教皇庁がランベール王国に対して何らかの見返りを要求することを意味する。おそらくは王国内の教会財産に対する課税免除の拡大か、異端審問権の強化だろう。いずれも王権の弱体化につながる」
「次女は宗教上の理由で難しい」
「難しいどころではない。不可能に近い」
エルリックは窓辺に戻り、午後の光を背にして続けた。
「ここまでがいわば外的要因だ。だが問題は内部にもある。我がランベール王国の貴族会議は大きく分けて三つの派閥に分かれている。王権派、地方分権派、そして中立派だ。王権派は当然、王家の意向に従う。だが地方分権派はオーネスト公爵家を含む有力貴族の連合体であり、彼らは王太子の婚姻相手として、自派閥の令嬢を推している。中立派は状況を見て態度を決める日和見主義者たちだが彼らの中にもそれぞれ思惑がある」
「私の家は地方分権派でしたね」
「そうだ。だからこそ、君との婚約は当初、地方分権派の懐柔策として有効だった。彼らはオーネスト家の令嬢が王太子妃となることで自派閥の影響力が増すと考えた。しかしレアルディウム鉱脈の問題が表面化したことで状況は一変した。地方分権派の中でもオーネスト家の採掘権を巡って意見が割れ始めている。一部の貴族は採掘権の利益をオーネスト家が独占することに不満を抱いており、彼らは密かにヴェルディア側と接触している形跡がある」
「私の家の中に裏切り者がいると?」
「正確にはオーネスト家の周囲にいる者たちだ。彼らはオーネスト家を陥れることで採掘権の再分配を狙っている。もし君と私が婚姻すれば、彼らは『王太子妃の実家が国家資源を私物化している』という批判を展開するだろう。それは貴族会議における王権派と地方分権派の対立を激化させ、最悪の場合、内乱の火種となりかねない」
ライラは黙って聞いていた。話の筋道は追えるがその複雑さに眩暈がしそうだった。
「つまり、私たちの結婚が内紛の原因になりかねないという事ですか……」
「そういうことだ。だがまだ終わりではない」
「まだあるのですか!?」
「ある。まだまだあるのだ。北方のノルディア連合との関係も考慮しなければならない」
エルリックは再び歩き始めた。部屋の中を行きつ戻りつしながら、まるで自分自身に言い聞かせるように語る。
「ノルディア連合は七つの部族国家から成る緩やかな同盟体だ。彼らは二十年前から、フォルテン山脈の北側斜面に定住権を主張している。この主張は三百五十年前のドラゴンスレイヤー戦争における彼らの貢献に基づくものだ。当時、ノルディアの戦士たちは我がランベール王国と共に竜の大群と戦い、多くの犠牲を出した。その見返りとして、当時の国王がフォルテン山脈北部の居住権を口頭で約束したとされている。ただし、これは文書として残っていない。ノルディア側は口伝による記録を根拠としているが我が国は公式には認めていない」
「昔の約束が今も尾を引いているわけですね」
「尾を引くどころか、近年になって問題は深刻化している。レアルディウムの発見により、フォルテン山脈の戦略的価値が急上昇した。ノルディア連合は居住権の主張を採掘参加権へと拡大解釈し始めている。彼らの論理では居住権には土地の利用権が含まれ、利用権には地下資源の採掘権が含まれるというものだ。この解釈は国際法的には無理があるがノルディアの戦士たちは法廷で争うことを好まない。彼らは剣で決着をつけることを望んでいる」
「北方から攻められる可能性があるということですか」
「可能性ではない。確実性の問題だ。ノルディア連合の現在の大族長ハーゲンは強硬派として知られている。彼は十年以内にフォルテン山脈の支配権を確立すると公言しており、そのための軍備増強を進めている。我が国が内部で揉めている隙に彼が南下してくる可能性は高い」
ライラは頭を整理しようとした。南にヴェルディア、北にノルディア、東にカルディナ帝国。四方を外圧に囲まれながら、国内では貴族同士が対立している。その渦中に自分とエルリックの婚約がある。
「私たちの結婚がその隙を作ってしまうと……」
「そうだ。だが私は手をこまねいていたわけではない」
さすが殿下、とライラは思う。エルリックの優秀さは国内に響いている。まだ若い時分で多くの外交問題を解決してきた青年なのだ。
「この二年間、私はこれらの問題の一部を解決するために奔走してきた。まず、ヴェルディアとの鉱山問題については何度も妥協案を提示した。だがここで致命的な問題に突き当たった」
「致命的な問題、ですか」
「ヴェルディア公アルベルトは、我々の婚約が存続している限り、いかなる交渉にも応じないと宣言したのだ」
ライラは息を呑んだ。
「どういうことですか」
「彼らの論理はこうだ。オーネスト家の令嬢と王太子の婚約は、ブランシュ法典の財産移転推定が適用される前提条件である。この婚約が存続する限り、ヴェルディアは我が国が採掘権の王家帰属を既定路線としていると見なす。つまり、婚約自体が彼らにとっては『条約違反の意思表示』なのだ。条約違反の意思を示している相手と、条約の再解釈について交渉する道理はない──これがアルベルトの立場だ」
「では、私との婚約がある限り、ヴェルディアとは話し合いすらできないと」
「その通りだ。私は密使を三度送った。レアルディウムの採掘量の一部を優先販売するという妥協案を提示した。だが返答は常に同じだった。『まず婚約を破棄せよ。話はそれからだ』と」
ライラは椅子の肘掛けを握りしめた。状況の深刻さが、より鮮明に理解できた。
「貴族会議の問題についても手を打とうとした。地方分権派の中核をなすヴァレンシュタイン侯爵家とローゼンベルク伯爵家に接触し、レアルディウムの精錬事業への参入を打診した。だがここでも壁に突き当たった。彼らはヴェルディアとの関係が改善しない限り、大規模な投資には踏み切れないと言う。なぜなら、ヴェルディアが国際仲裁裁判所に提訴すれば、採掘事業全体が凍結される恐れがあるからだ」
「すべてがヴェルディアとの関係に行き着くのですね」
「そうだ。そしてヴェルディアとの関係改善の前提条件が、君との婚約破棄なのだ」
エルリックの声には苦渋が滲んでいた。
「ノルディア連合については、大族長ハーゲンの息子であるシグルドと接触し、彼を穏健派に引き入れる工作を行った。シグルドは父親とは異なり、外交による解決を望んでいる。彼には我が国の騎士団で訓練を受ける機会を提供している。この工作は進行中だが、ハーゲンが健在である限り、北方からの脅威は消えない」
「北の後継者を我が国の味方につけようとしているわけですね」
「そうだ。そしてカルディナ帝国との関係についても布石を打っている。皇太子フリードリヒは学者肌の人物で、政略結婚よりも学術研究に興味がある。この点を利用し、我が国の王立図書館との学術交流協定を提案した。だがこれらはすべて、ヴェルディアとの関係が改善されなければ効果を発揮しない。ヴェルディアが我が国に敵対的である限り、カルディナ帝国も我々との関係強化に慎重にならざるを得ないからだ」
ライラは感心した表情で王太子を見つめた。彼がこれほど多方面で動いていたとは知らなかった。
「殿下は本当にあらゆる手を打ってこられたのですね」
「打てる手は打った。だが」
エルリックの表情が曇る。
「すべての道が、一つの結論に収束する。君との婚約を破棄しない限り、何も動かない」
「一つお聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「採掘権を私の家から切り離すことはできないのですか。たとえば、王家に返上するとか、別の形で処理するとか」
エルリックは首を振った。
「それも検討した。だが現行法では、採掘権の移転には受け皿となる法的主体が必要だ。王家に返上すれば、それこそヴェルディアの主張を裏付けることになる。『王家の所有物は条約の対象となる』という条項が直接適用されてしまう。かといって他の貴族家への譲渡は、地方分権派内の対立を激化させる。そもそも、ヴェルディアが交渉に応じない現状では、いかなる譲渡も彼らの懸念を払拭できない。採掘権の処理方法を決めるには、まずヴェルディアを交渉のテーブルにつかせる必要がある。そのためには──」
「婚約を破棄するしかない、と」
「そういうことだ」
沈黙が流れた。ライラは長い時間をかけて、状況を整理した。
ヴェルディアは婚約存続中は交渉に応じない。交渉なしには妥協案も成立しない。妥協案なしには採掘権の適切な処理もできない。すべてが婚約という一点で行き詰まっている。
「ただ」
エルリックの声が低くなった。何かを告白するような、重い響きがある。
「私は別の道も考えた」
「別の道とは……?」
「あらゆる問題を無視して、君と結ばれるという道だ」
窓辺に立つ彼の背中が午後の光に溶けるように見えた。
「外交上の障害も貴族会議の対立も北方からの脅威もすべてを度外視して。ただ君と共に生きる未来を」
ライラは何も言わなかった。エルリックの言葉は上っ面だけを見ればシロップの様に甘いがしかし、声の響きは重苦しい。何かとても重大な、あるいは恐ろしい事を言おうとしている──そんな迫力があった。ライラはごくりと息を呑み、言葉を待つ。
「その未来を私は詳細に思い描いた」
エルリックは振り返った。その目には深い疲労と、それを上回る何かが宿っている。
「聞く覚悟はあるか」
「ございます」
「では話そう。もし私がすべての問題を無視して君と婚姻すれば、何が起きるか」
彼は再び歩き始めた。だが今度は先ほどまでの淡々とした調子ではない。一言一言を噛み締めるようにゆっくりと語る。
「まず、婚姻の発表から三ヶ月以内にヴェルディア公国は条約再解釈の主張を正式に表明する。彼らは国際仲裁裁判所に提訴するだろう。裁判は二年から三年かかる。その間、レアルディウムの採掘は凍結される。なぜなら、係争中の資源を一方的に採掘することは国際法上許されないからだ」
「採掘が止まる……」
「止まる。そしてレアルディウムの採掘が止まれば、我が国の魔導具産業は壊滅的な打撃を受ける。魔導具の製造に必要な核が手に入らなくなるからだ。魔導具産業は現在、我が国の輸出の三割を占めている。それが消えれば、国庫は深刻な歳入不足に陥る」
「経済が傾くわけですね……」
「傾くどころではない。魔導具産業には直接雇用だけで約二万人が従事している。関連産業を含めれば、その三倍。六万人の労働者が路頭に迷うことになる。彼らには家族がいる。六万人の労働者の背後には少なく見積もっても二十万人の生活がある。その二十万人が一夜にして生活の糧を失う」
ライラの顔から血の気が引いていく。
「二十万人……」
「それだけではない。歳入不足は軍備の削減につながる。北方のノルディア連合はそれを好機と見て南下を開始するだろう。彼らの軍勢は最新の情報では八千の騎兵と二万の歩兵。我が国の国境守備隊は通常時で五千。軍備削減後は三千を割り込む。守り切れるはずがない」
「北からは侵略される、と」
「フォルテン山脈の北部防衛線は三週間で突破される。ノルディアの騎兵は我が国の北部三州を蹂躙するだろう。北部三州の人口は約八十万。彼らのうち、どれだけが戦火を逃れられるか。ノルディアの戦士たちは略奪と破壊を誉れとする文化を持っている。村々は焼かれ、都市は包囲される。食料は奪われ、冬を越せない者が出る」
「八十万人が……」
「全員が死ぬわけではない。だが戦争というものは戦場だけで終わらない。避難民が南下すれば、南部の食料事情は逼迫する。疫病が流行る。治安が悪化する。暴動が起きる。貴族会議は対応を巡って分裂し、王権派と地方分権派の対立は内戦へと発展する可能性がある。内戦が始まれば、ヴェルディア公国は好機と見て西から侵攻してくる。カルディナ帝国も混乱に乗じて交易路の単独支配を狙うだろう」
エルリックの声は淡々としていたがその内容は地獄絵図そのものだった。
「三年以内に我がランベール王国は三方から敵に囲まれ、内部では内戦が勃発し、経済は崩壊し、民は飢え、疫病が蔓延する。人口の三分の一は死ぬか国外に逃亡するだろう。残った者たちもかつての繁栄を二度と取り戻すことはできない。王家は滅び、貴族たちは散り散りになり、この国は地図から消える」
「消える……」
「そしてそれらすべての元凶として、歴史に名を刻まれるのは」
エルリックはライラを真っ直ぐに見つめた。
「君と私だ。亡国の王太子と、その妃として。後世の人々は我々を呪うだろう。なぜあの二人は個人的な感情のために国を滅ぼしたのかと。なぜあの二人は百万の民の命より自分たちの幸福を優先したのかと」
沈黙が部屋を満たした。ライラは椅子に座ったまま、動くことができなかった。自分とエルリックの婚姻がこれほどの災厄を引き起こしうるとは。
「殿下」
声が震えているのが自分でも分かった。
「私たちの婚約にはそれほどの重みがあったのですね」
「ある。万を超える人命が我々の決断にかかっている」
エルリックは静かに首を振った。
「だから私は君を愛する事ができないのだ。愛してしまえば理性が曇る。正しい判断ができなくなる。すべてを投げ出して、君と共に滅びる道を選んでしまいかねない。それは私には許されない。いや誰にも許される事ではない」
ライラは長い時間をかけて、深呼吸をした。窓から差し込む光が少しだけ傾いたようだった。午後が過ぎようとしている。
「分かりました」
「分かった、とは」
「殿下のお気持ちも状況も理解いたしました」
立ち上がり、スカートの裾を整える。背筋を伸ばし、王太子と向き合う。
「私も殿下を困らせるつもりはございません。今後のことは実家同士で相談いたしましょう」
エルリックは目を見開いた。あまりにも冷静な彼女の対応に驚いているようだった。
「それでいいのか」
「いいも何も殿下のお話を伺えば、他に選択肢がないことは明らかです。私が駄々をこねたところで北から蛮族が攻めてこなくなるわけでもありませんし、ヴェルディアが交渉のテーブルにつくわけでもありません。泣いて喚いて、殿下のお心を変えさせたとして、その先にあるのは百万の民の死です。そのような重荷を背負って生きていくことは私には到底できません」
「君は……」
「私も貴族の端くれです。個人の感情より公益を優先することくらいはわきまえております。……正直に申し上げれば、最初にあの言葉を聞いたときは殿下のことを恨みました。またこれか、と。近頃流行りの婚約破棄に自分も巻き込まれるのかと。憤りを感じなかったと言えば嘘になります」
「当然のことだ」
「ですが殿下のお話を伺って、考えが変わりました。これは流行などではない。殿下が二年間、血のにじむような努力を重ねてこられた末の決断だと。それを理解した今、私に言えることは一つだけです」
「何だ」
「お疲れ様でした」
エルリックは絶句した。ライラはかすかに微笑み、続ける。
「殿下は本当によくやってこられました。ヴェルディアへの妥協案の提示、貴族会議への働きかけ、ノルディアの後継者工作、カルディナ帝国との学術交流構想。私には外交のことは分かりませんがそれらが並大抵の努力で成し遂げられるものではないことくらいは理解できます。殿下は私のため……いえ、この国のためにできる限りのことをなさった。それなのになお足りなかった。それは殿下の落ち度ではありません。世界というものがそういうふうにできているだけの話です」
「ライラ……」
名前を呼ばれて、彼女は少しだけ目を伏せた。
「この婚約が破棄されても私は殿下を恨みません。むしろ、感謝しております。殿下が何も言わずに婚約を破棄していたら、私は一生、殿下を恨んでいたでしょう。でもこうして理由を説明してくださったおかげで納得することができました。それだけで十分です」
「君は怒らないのか。悲しまないのか」
「怒りも悲しみももちろんあります。でもそれは殿下に向けるべきものではないと分かりました。向けるべき相手がいるとすれば、レアルディウムを埋めた大地か、三百年前に条約を結んだ先祖たちか、あるいは運命そのものでしょう。殿下は私の敵ではありません」
ライラは窓辺に歩み寄り、エルリックの隣に立った。二人で庭園を見下ろす。午後の光が花壇の花々を柔らかく照らしていた。
「殿下」
「何だ」
「一つだけお聞きしてもよろしいですか」
「何でも聞け」
「もしすべての問題が解決していたら、殿下は私を愛してくださいましたか」
エルリックは長い沈黙の後、静かに答えた。
「分からない。我々は政略結婚だ。愛ありきで結ばれるわけではない。だが──愛そうと努力はしただろう。君は聡明で芯が強く、そして何より、こうして私の長い話を最後まで聞いてくれる忍耐力がある。そういう人を嫌いになる理由がない」
「それはお世辞ですか」
「世辞ではない。本心だ」
ライラはかすかに笑った。
「ではそれで十分です」
二人は並んで立ち、しばらく無言で庭園を眺めていた。木々の葉が風に揺れ、どこかで小鳥が鳴いている。穏やかな午後だった。
「さて」
ライラが最初に口を開いた。
「実家に戻って、父に報告しなければなりません。殿下のお話をできるだけ正確に伝えるつもりです。父も理解してくれるでしょう。我が家は地方分権派の一角ですが国を滅ぼしてまで私利私欲を追求するほど愚かではありませんから」
「オーネスト公爵は確かに理知的な人物だと聞いている」
「ええ。それにレアルディウムの採掘権についても殿下がおっしゃったような問題があることは父も薄々感じていたようです。ただ、具体的にどう対処すべきか分からなかっただけで」
「では今後の対応について、オーネスト公爵と王家で協議することになるな」
「そうですね。婚約が破棄されれば、ヴェルディアも交渉のテーブルにつくのでしょう。その時に採掘権の処理について話し合えるはずです。私の婚約破棄がかえってそのきっかけになれば、多少は救われる気がします」
エルリックは感心したように彼女を見た。
「君は本当に冷静だな」
「冷静なのではなく、諦めが早いだけです」
「それは自分を卑下しすぎだ。並の令嬢であれば私の話を聞いている途中で泣き出すか、あるいは怒り出すかしていただろう。最後まで聞いた上で建設的な提案までしてくれる令嬢はそうはいない」
「殿下のお話があまりに長かったので泣く気力もなくなっただけですよ」
軽口を叩きながら、ライラは窓辺から離れた。扉に向かって歩き出す。
「失礼いたします」
「待ってくれ」
エルリックの声に彼女は足を止めた。振り返ると、王太子が何かを言いかけて、口をつぐむのが見えた。
「何でしょう」
「いや……」
彼は少し迷った後、言葉を続けた。
「今後も友人として付き合ってもらえないだろうか」
「友人、ですか」
「そうだ。君のような理性的な人間はなかなかいない。政治の話ができる相手は宮廷にも少ない。もちろん、君が嫌でなければの話だが」
ライラは少し考えてから、微笑んだ。
「よろしいですよ。ただし、次に政治の話をするときはもう少し短くまとめていただけると助かります。先ほどの説明は正直、長すぎました」
「善処する」
「それと、できれば紅茶を出していただきたい。喉が渇きました」
「今すぐ用意させよう」
エルリックが呼び鈴を鳴らすと、すぐに侍従が現れた。紅茶の用意を命じ、侍従が下がると、二人は改めて向かい合った。
「これで婚約破棄は円満に終わりそうだな」
「そうですね。世間で流行っている婚約破棄劇とはだいぶ趣が異なりますが」
「あれは私も苦々しく思っていた。舞踏会で衆人環視の中、婚約破棄を宣言するなど、悪趣味の極みだ」
「殿下もそうお思いでしたか」
「当然だ。人の名誉を公衆の面前で傷つけることに何の意味がある。ただ相手を辱めたいだけの行為だ」
「まったく同感です。それに比べれば、殿下のやり方は遥かに誠実でした。こうして二人きりで会い、理由を説明し、相手の納得を得ようとする。それが本来あるべき姿だと思います」
紅茶が運ばれてきた。ライラはカップを受け取り、一口飲んでから、息をついた。
「おいしい」
「よかった。ロレーヌ産の最高級の茶葉だ──つい最近やっと手に入ってね」
二人の間に奇妙な空気が流れた。婚約者として向き合っていた緊張感が消え、代わりに対等な立場で話す者同士の気安さが生まれつつある。
「ところで殿下」
「何だ」
「今後、殿下はどなたと婚約されるおつもりですか」
エルリックは長い溜息をついた。
「分からない。セレスティーナ姫は不可能、マルガリータ姫も困難。国内の貴族令嬢との婚姻は派閥間の対立を激化させる恐れがある。かといって、他国の王女や姫君との婚姻もそれぞれに問題がある」
「大変ですね」
「大変どころではない。三年後には三十歳になる。王太子として、そろそろ後継者の問題も考えねばならない。だが適切な相手が見つからない」
「私との婚約が続いていれば、少なくともその問題は先送りできたわけですね」
「そういう計算もあった、と言えば、君は怒るか」
「いいえ。政治とはそういうものでしょう」
本心だ。政略結婚とはまさにそういうものである。
ライラはカップを置き、立ち上がった。
「そろそろ、本当に失礼いたします。父に報告しなければなりませんし、今後の対応も考えなければなりません。殿下のお話を要約したメモを作成して、父に渡すつもりです」
「要約できるのか。あの長い話を」
「できます。要するに私たちの結婚はあらゆる方面から反発を招き、最悪の場合、国が滅ぶし百万に近い民が死ぬ!──そういうことですよね」
エルリックは苦笑した。
「改めて聞くと酷いな」
「酷すぎますね」
扉に手をかけながら、ライラは最後に振り返った。
「それではまた」
「ああ、また会おう。今度は友人として」
ライラが部屋を出ると、エルリックは一人、窓辺に立ち尽くしていた。庭園の光はさらに傾いている。夕暮れが近づいていた。
◆
オーネスト公爵邸の書斎で、ライラは父アルフレッドと向かい合っていた。長いテーブルの上には彼女が作成した「王太子との会話の要約」が広げられている。
「なるほど」
アルフレッドは何度も頷きながら、メモに目を通していた。白髪交じりの髪と深い皺が長年の政務の重みを物語っている。
「カルナヴァル条約の再解釈問題、ブランシュ法典の財産移転推定、貴族会議の派閥対立、ノルディア連合の南下圧力、カルディナ帝国と聖ローレンティア教会の介入可能性……そしてヴェルディアが婚約存続中は交渉に応じないと宣言していることか」
彼は顔を上げ、娘を見た。
「これを全部、殿下が説明されたのか」
「はい。二時間ほどかかりました」
「よく聞いていたな」
「逃げ出すこともできませんでしたので」
アルフレッドは溜息をついた。だがその表情には怒りというよりも感心に近いものがあった。
「正直に言えば、私も薄々感じていた。レアルディウムの問題が表面化してから、お前と殿下の婚約に対する風当たりが強くなっていることは。だがここまで複雑な状況になっているとは思わなかった。特にヴェルディアが交渉自体を拒否しているという点は知らなかった」
「父上もご存知なかったのですか」
「一部は知っていた。だが全体像を把握していたわけではない。殿下はよく調べ上げたものだ」
アルフレッドはメモを折り畳み、テーブルの上に置いた。
「それでお前はどう思っている。納得しているのか」
「しています」
「本当か?」
「はい。殿下のお話を聞いて、私たちの婚約が国の命運に関わるほどの重大事だと分かりました。個人的な感情で押し通せる問題ではありません」
「お前が辛い思いをしているのではないかと、心配したのだが」
「辛くないと言えば嘘になります。でも泣いても喚いても状況は変わりません。それなら、前を向いて次のことを考えたほうがいいかと」
アルフレッドは娘の顔をじっと見つめた。
「立派になったな」
「父上に似たのでしょう」
「私はお前ほど冷静ではなかった。若い頃は」
「ああ、そういえば母上がおっしゃっていました。父上は若い頃、短気で怒りっぽかったと」
「余計なことを……」
アルフレッドは咳払いをして、話題を変えた。
「さて、今後のことだが」
「はい」
「殿下の仰るとおり、婚約を破棄すればヴェルディアも交渉のテーブルにつくだろう。その時に採掘権の処理について話し合う必要がある」
「父上に何かお考えがおありですか」
「ある。殿下の説明を聞いて、一つ思いついたことがある」
「何でしょう」
「レアルディウムの採掘権を王家に返上するのではなく、何らかの国際的な枠組みの中で管理するという案だ。ヴェルディアが条約再解釈を主張しているのは要するに採掘の利益から排除されていることへの不満だ。ならば、最初から利益を分け合う仕組みを作ればいい。カルナヴァル条約の精神に則った、新たな枠組みを」
「それは交渉の中で提案するということですね」
「そうだ。だがそのためにはまず、ヴェルディアを交渉のテーブルにつかせる必要がある。そしてそのためには──」
「私の婚約を破棄するしかない」
「すまない、ライラ」
アルフレッドは沈痛な表情で娘を見つめた。
「いいえ、父上。これは私の決断でもあります。殿下のお話を聞いて、私自身が納得した上での決断です」
「……お前が辛い思いをしているのに、父として何もしてやれないのが歯がゆい」
「父上」
ライラは微笑んだ。
「私の婚約破棄が、問題解決のきっかけになるかもしれません。そう考えると、少しは救われます」
アルフレッドは娘を見つめ、深く頷いた。
「分かった。明日にでも王宮に書簡を送り、協議の場を設けてもらおう。婚約破棄の正式な手続きと、今後の交渉方針について話し合う必要がある」
「お願いします。私も同席してもよろしいですか」
「いいのか。辛くはないか」
「大丈夫です。私も当事者ですから、最後まで見届けたいのです」
「……分かった」
娘が出て行った後、アルフレッドはしばらく一人で考え込んでいた。メモを再び手に取り、目を通す。王太子の説明は確かに長いが論理は一貫している。そして何より誠実だった。
「悪い男ではない。だからこそ惜しいな」
独り言のように呟いて、彼は書簡を書き始めた。
◆
三週間後、ランベール王国の王宮で歴史的な会議が開かれた。
出席者は国王リヒャルト三世、王太子エルリック、オーネスト公爵アルフレッド、ヴァレンシュタイン侯爵ハインリッヒ、ローゼンベルク伯爵オットー、そして外務大臣のベルンハルト卿。
まず、王太子エルリックとライラ・オーネストの婚約が正式に破棄された。それは敵対的な破棄ではなく、両家の合意に基づく円満な解消として発表された。
そして予想通り、婚約破棄の知らせがヴェルディアに届くと、彼らの態度は一変した。
一週間後、ヴェルディア公アルベルトから正式な書簡が届いた。レアルディウム鉱脈の管理について協議する用意がある、という内容だった。
さらに二週間後、ヴェルディア公国から特使としてシュミット伯爵が派遣された。本格的な交渉が始まった。
交渉は難航した。ヴェルディア側は採掘量の半分を要求し、ランベール側はそれを拒否した。だが両者とも交渉のテーブルから離れようとはしなかった。婚約破棄によって、ようやく対話の扉が開かれたのだ。
エルリックはオーネスト公爵アルフレッドと協力し、妥協案を練り上げた。採掘権を王家でも単独の貴族家でもなく、国際的な管理組合に移管するという案だ。この組合にはランベール王家、オーネスト公爵家、そしてヴェルディア公国が参加する。
この案の肝は、採掘権の「受け皿」を作ることにあった。婚約が存続していた間、採掘権の移転先がなかったのは、適切な法的主体が存在しなかったからだ。だが新たに国際的な組合を設立すれば、そこに採掘権を移管できる。オーネスト家から組合への移管であれば、王家への帰属とは見なされない。ブランシュ法典の財産移転推定も適用されない。
さらに、この案はヴェルディアの懸念も払拭する。組合という枠組みの中で、彼らも正式に採掘事業に参加できるからだ。条約再解釈という強硬手段に訴える必要がなくなる。
三ヶ月に及ぶ交渉の末、最終的に合意が成立した。
レアルディウムの採掘事業は新設される「フォルテン鉱山管理組合」によって運営される。組合にはランベール王家、オーネスト公爵家、ヴァレンシュタイン侯爵家、ローゼンベルク伯爵家、そしてヴェルディア公国が参加する。採掘量の配分はランベール王家が三〇パーセント、オーネスト公爵家が二五パーセント、ヴァレンシュタイン侯爵家とローゼンベルク伯爵家がそれぞれ一〇パーセント、ヴェルディア公国が二五パーセント。
この合意により、カルナヴァル条約の再解釈問題は解消された。ヴェルディア側は直接採掘に参加できることで満足し、条約再解釈の主張を取り下げた。国内の貴族たちも採掘事業への参加という形で利益を得られることになり、オーネスト家への不満は和らいだ。
社交界では「まるで国家間条約の改定のような婚約破棄だ」と囁かれたがその皮肉は的を射ていた。
ノルディア連合との関係についてはシグルドを通じた工作が引き続き進められることになった。彼は騎士団での訓練を終えた後、ランベール王国の名誉騎士の称号を授けられ、両国の架け橋となることが期待されている。
カルディナ帝国との学術交流協定は半年後に正式に締結された。皇太子フリードリヒはランベール王国の王立図書館に三ヶ月間滞在し、古代魔法に関する研究を行った。その結果、セレスティーナ姫との婚約に対する彼の態度は軟化し、ヴェルディア公国との関係も安定に向かいつつある。
◆
半年後の春。
王宮の庭園でライラは王太子エルリックと再会していた。社交パーティーの合間、二人は花壇の傍らで紅茶を飲んでいる。
「お元気そうで何よりです、殿下」
「君もな。聞いたところによると、複数の縁談が持ち込まれているそうだな」
「ええ。でもまだ決めていません」
「急ぐ必要はない。君ならば良い相手を見つけられるだろう」
「殿下はいかがですか。新しい婚約の話は」
エルリックは苦笑した。
「いくつか候補はあるがどれも一長一短だ。ああ、一長一短というのは無論……」
「殿下の個人的嗜好ではなく、政治的な力学の問題ですよね」
「その通りだ」
二人は笑い合った。かつての婚約者同士という緊張感はもうどこにもない。代わりにあるのは互いを認め合う友人としての気安さだった。
「そういえば、殿下」
「何だ」
「フォルテン鉱山管理組合の運営は順調だそうですね。父から聞きました」
「ああ。今のところ、大きな問題は起きていない。ヴェルディア側も協力的だ。シュミット伯爵が優秀な調整役を務めてくれている」
「よかった。私たちの婚約破棄が何かの役に立ったわけですね」
「そう言えるかもしれない。皮肉なことだが」
「皮肉でも構いません」
ライラはカップを置き、庭園の花々を見渡した。春の陽光が色とりどりの花を照らしている。
「殿下」
「何だ」
「あの日、殿下が長々と説明してくださったこと、今でも時々思い出します」
「あの説明は確かに長すぎた。反省している」
「いいえ、そうではなくて」
彼女は微笑んだ。
「殿下があそこまで丁寧に説明してくださったのは私に納得してほしかったからですよね。ただ婚約を破棄するだけなら、あんな長い話は必要ありません。父に直接話せば婚約は破棄できたでしょう。でも殿下は私に理解してもらいたかった。だからあれほど時間をかけて説明してくださった」
「……その通りだ」
「私はそれを嬉しく思っています。殿下が私のことをちゃんと一人の人間として扱ってくださったということですから」
エルリックは何も言わず、遠くを見つめていた。春風が彼の髪を揺らしている。
「殿下」
「何だ」
「いつか、殿下にふさわしい方が見つかることを祈っています。そしてその方との間に今日のような穏やかな時間が流れることを」
「ありがとう」
「私もいつか誰かと」
言葉を切って、ライラはカップを持ち上げた。紅茶の香りが春の空気に溶けていく。
「まあ、それは先の話ですね」
「そうだな」
二人はしばらく、黙って庭園を眺めていた。花壇の向こうでは貴族の令嬢たちが談笑している。社交界は相変わらず賑やかだった。
「さて」
エルリックが立ち上がった。
「そろそろ戻らねば。外務大臣が待っている」
「お忙しいのですね」
「いつものことだ。ではまた会おう」
「ええ。お元気で殿下」
王太子が去っていくのを見送りながら、ライラは小さく息をついた。
春の風が頬を撫でていく。
新しい季節の始まりだった。
(了)
要は
エルリック「我がランベール王国と隣国ヴェルディア公国は三百年前のカルナヴァル条約により国境を接するフォルテン山脈の鉱山資源を共同管理してきたが、オーネスト公爵家が六十年前に下賜された採掘権の鉱脈深層に三年前の地質調査で希少鉱石レアルディウムの大規模埋蔵が確認されたことでヴェルディア側は条約の再解釈を主張し始め、さらにオーネスト公爵家の令嬢と王太子が婚姻した場合はブランシュ法典の『王族婚姻に伴う財産移転の推定』により採掘権が王家に帰属すると見なされヴェルディアにレアルディウム鉱脈を半分明け渡す口実を与えることになり、加えてヴェルディア公の長女セレスティーナ姫はカルディナ帝国の皇太子と婚約済みで次女マルガリータ姫は聖ローレンティア教会の高位聖職者見習いとして還俗には現教皇の承認が必要であり不可能に近く、国内では貴族会議が王権派と地方分権派と中立派に分かれオーネスト家の採掘権独占への不満から一部貴族がヴェルディア側と接触している形跡があり、北方のノルディア連合の強硬派大族長ハーゲンは十年以内にフォルテン山脈の支配権を確立すると公言して軍備増強を進めており、もしすべての問題を無視して婚姻すれば三ヶ月以内にヴェルディアは国際仲裁裁判所に提訴しレアルディウム採掘は凍結され魔導具産業は壊滅し六万人の労働者とその家族二十万人が生活の糧を失い、歳入不足で軍備が削減されればノルディア連合が南下を開始し北部防衛線は三週間で突破され人口約八十万の北部三州は蹂躙され、避難民の南下で食料事情が逼迫し疫病が流行り暴動が起き貴族会議の対立は内戦へ発展しヴェルディアとカルディナ帝国も混乱に乗じて侵攻してきて、三年以内に我がランベール王国は三方から敵に囲まれ内戦が勃発し経済は崩壊し民は飢え疫病が蔓延し人口の三分の一は死ぬか国外に逃亡し王家は滅び貴族たちは散り散りになりこの国は地図から消え、そしてそれらすべての元凶として歴史に名を刻まれるのは君と私だ──だから私は君を愛することができないのだ、愛してしまえば理性が曇り正しい判断ができなくなりすべてを投げ出して君と共に滅びる道を選んでしまいかねない、それは私には許されない、いや誰にも許されることではないから婚約を破棄してくれないか?」
という事です。




