出発前夜
投稿忘れてました、、、
夜は、静かに降りてきた。
夕餉を終え、鍋の底が乾く音がしても、家の中は普段と変わらないはずだった。
床に落ちる影も、灯りの色も、いつものままだ。
それでも、空気だけが違った。
まだ何も始まっていないのに、もう戻れない夜の空気だった。
母は、黙って布を畳んでいる。
何度も使い、何度も洗われた布だ。角は丸く、色も少し褪せている。
ミアは部屋の端に座り、その様子を見ていた。
リュカは入口近くで、外の暗さを眺めている。
誰も「明日」という言葉を口にしない。
言わなくても、三人とも分かっていた。
「……本当に、行くのね」
母の声は低く、静かだった。
問いかけというより、確認だった。
リュカは一瞬、喉を鳴らす。
「……一緒に」
それだけ言った。
行き先も、理由も、覚悟も言わない。
言葉にすると、軽くなってしまう気がした。
母は布を畳む手を止めない。
「そう」
短い返事だった。
棚に手を伸ばし、古い外套を取り出す。
何度も繕われ、袖口が擦り切れている。
「夜は冷えるわ」
それだけ言って、差し出した。
リュカは受け取り、指先で布の厚みを確かめた。
懐かしい匂いが、かすかに残っている。
「無理は、するんじゃないわよ」
その言葉は、リュカだけでなく、ミアにも向けられていた。
ミアは視線を受け止め、静かに息を吸う。
胸の奥が、少しだけ縮んだ。
――昔。
自分にも、こんな声があった。
引き止めるでも、命じるでもない。
ただ、帰ってくる前提で掛けられる声。
顔も、名前も、浮かばない。
それでも分かる。母だったのだと。
記憶に残っているのは、体温と距離感だけ。
羨ましさが、ほんの一瞬よぎる。
同時に、懐かしさが胸を満たす。
――もう、戻れない場所。
悲しみはない。
ただ、静かな遠さがあった。
母はミアを見る。
「あなたも……」
一拍、間が空く。
「気をつけて」
それだけだった。
ミアは深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
声は揺れていない。
けれど、確かに何かを受け取った。
母はそれ以上何も言わず、部屋を出た。
戸が閉まる音が、少しだけ大きく響いた。
灯りの下に、二人が残る。
しばらく、言葉はなかった。
「……ねえ」
先に口を開いたのは、ミアだった。
「本当に、いいの?」
村を離れること。
先が分からないこと。
そして――自分についてくること。
すべてを含んだ問いだった。
リュカはすぐには答えない。
「いい」
短く、はっきりと。
ミアは、その顔を見る。
「街……知ってるんでしょう」
リュカは頷く。
「一度だけ」
「どんなところ?」
「……休める場所じゃなかった」
ミアは目を伏せる。
「……まだ、やめられる」
最後の逃げ道。
「ここに残ってもいい。
何も変えなくても……」
リュカは被せなかった。
「やめてもいい」
「戻ってもいい」
少し間を置いて、続ける。
「それでも――俺は、行く」
初めて、自分の選択として言った。
ミアはゆっくり息を吐く。
胸の奥に溜まっていたものが、わずかに軽くなる。
顔を上げる。
覚悟でも、諦めでもない。
ただ、決めた顔。
「……じゃあ」
小さく、確かに。
「行こう」
外で風が一度だけ強く吹いた。
家の壁が、きしりと鳴る。
それでも村は静かだった。
世界も、何も言わない。
ミアは思う。
今回は、一人じゃない。
それだけで、十分だった。
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