穏やかな町
街門から少し歩いたところに、その宿はあった。
大通りから外れ、しかし裏路地ほど寂れていない位置。人の流れが一段落ち着く場所に、木造二階建ての建物が腰を据えている。看板は古く、塗料は剥げているが、文字は読みやすく残っていた。長く続いている宿だと、見ただけで分かる。
扉を開けると、熱と匂いが迎えた。
煮込みの鍋、焼いたパン、木と油の混じった香り。椅子が床を擦る音、低く抑えた笑い声。どれもが過剰ではなく、日常として積み重ねられた音だった。
「二人部屋だね?」
宿主は顔を上げ、迷いなく言った。
年齢は分からない。若くも老いてもいないが、この場所に慣れきった目をしている。理由も事情も聞かれず、鍵だけが差し出された。
階段を上り、廊下を進む。
足音が吸われるように静かになる。部屋は簡素だった。寝台が二つ、机が一つ、椅子が二脚。窓の外には街灯が並び、通りを行く人影がゆっくりと流れている。壁越しに声が伝わり、街全体が一つの生き物のように呼吸しているのが分かった。
ミアは、部屋の中央で立ち止まり、そっと息を吸った。
「……何も、引っかからない」
丘で感じた詰まりも、道中のざらつきも、ここにはない。空気は平らで、均されていて、余計な抵抗がない。
「眠れそうだな」
リュカが言う。
「うん。眠れる」
答えは即座だった。だが、その声はどこか軽い。安心しているのに、深く沈めない。
灯りを落とし、夜が来る。
ミアはすぐに眠りに落ちた。深いが短い眠りだった。夢はあったが、形を結ばない。目を覚ますと、身体は休めているのに、胸の奥に空白が残っている。
リュカは窓際に立ち、外を見ていた。
「ここ、悪くない」
「悪くないね」
同じ言葉だが、意味は違う。
朝の市場は、音から始まる。
呼び声が重なり、値段が飛び交い、笑い声が割り込む。荷車が進み、布が広げられ、果実が積まれる。人の流れは滞りなく、誰も急かされていない。
ミアは歩きながら、周囲を見ていた。
人が多い。村とは比べものにならないほどだ。それなのに、歪みは感じにくい。押し込められ、均され、角が削られている。
「ここ、世界が上手に黙ってる」
ミアが言うと、リュカは肩をすくめた。
「人が多いからだろ」
「うん。たぶん、それ」
露店の主が笑顔で袋を差し出す。値切りは軽く、会話は短い。誰も困っていない。成功している街の姿だった。
リュカは考える。ここなら働ける。住める。止まれる。
行かない選択肢が、現実味を帯びる。
そのとき、噂が耳に入る。
「……あの一角は、使われてない」
「昔からだよ。何も建たない」
ミアだけが、足を止めた。
見ないことで、流れは保たれる。
人が多いほど、見ない場所も増えていく。
街の中央近くに、空き地があった。
倉庫の名残があり、壁は低く、風が抜ける。人は通らない。音も溜まらない。周囲が賑わっているからこそ、その静けさが際立っていた。
ミアは、そこに立って分かった。
触れれば、楽になる。
世界は、少し軽くなる。
でも、触らなかった。
今回は、そうしないと決めていた。
「ここは……」
リュカが言いかける。
「私がいなくても、回ってる」
ミアは静かに答えた。
村の“何もしない場所”と、構造は同じだ。ただ、規模と人数が違う。
多くの人が無視することで、街は保たれている。
「みんなで、無視してるんだな」
リュカの言葉に、ミアは頷く。
触れないことで、街は保たれていた。
夕方になると、街は柔らかくなる。
仕事を終えた人々が笑い、通りに影が伸びる。屋台の明かりが灯り、昼とは違う顔を見せる。
ミアは思う。この街は壊れない。
だからこそ、自分は不要だ。
それは、悪いことじゃない。
「ここ、好きになれそう?」
リュカが聞く。
「……好き。でも、長くはいられない」
対立はない。理解がある。
街は正しく、機能している。問題を抱えないよう、上手に配置されている。
ミアとリュカは歩く。
留まらないと決めたわけじゃない。
ただ、長居はしないと分かった。
正しい街は、誰も傷つけなかった。
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