世界の呼吸
風が、今日は少しだけ重かった。
そう言うと大抵の人は笑う。風に重いも軽いもあるものか、と。けれどリュカは昔から、空気の機嫌が分かった。朝、扉を開けた瞬間に「今日は畑が荒れる」とか、「昼には雨が来る」とか、それくらいのことは当たる。
――だから、今朝の違和感も、気のせいではない。
村の外れ、石畳の途切れる場所から先。丘に向かう獣道の入口に立ったとき、胸の奥がきゅっと縮んだ。息を吸っても、肺の隅まで届かない。深呼吸をすると、喉の奥がかすかに焼ける。
「……なんだ、これ」
魔法が“濃い”ときの感覚に似ていた。祭りで魔術師が花火を打ち上げる前、空がざわつく、あれ。でもこれは違う。華やかさがない。ただ、何かが詰まっている。
リュカは荷物を背負い直し、丘へ歩き出した。
今日も普段通りだ。村の外へ薬草を採りに行き、戻ったら、鍛冶場に壊れた道具を預ける。
だから足取りは軽いはずだった。
なのに、丘を登るほどに空気は重くなる。鳥の鳴き声が遠のき、木々の葉擦れが鈍い。音が、布で包まれているみたいだった。
丘の稜線を越えた瞬間、世界が一段、冷えた。
眼下に広がるのは草地。ところどころに石柱が突き出し、古い円形の土壇が残っている。昔は礼拝所だった、と村の長老が言っていた場所だ。けれど今は誰も近寄らない。理由は単純で、何もないから――そう教わった。
その「何もない」場所の真ん中で、光が揺れていた。
淡い青白い光が、地面の上を薄く撫でるように流れている。水面の反射に似ているが、そこに水はない。草も揺れていないのに、光だけが、脈打っている。
リュカは足を止めた。
魔術師が作る光ではない。あれはもっと、意思がある。誰かが見せようとして見せている光。これは――“勝手に”そこにある。
「……こんなの、はじめてだ」
そのとき、土壇の縁で何かが動いた。
人影だった。倒れ込むように座り、片手で地面を支えている。長い髪。灰色がかった銀の色が、光を拾って淡く輝いていた。
少女だ。
リュカの第一印象はそれで、次に思ったのは「寒そう」だった。薄い外套。旅装にしては軽すぎる。頬が白い。唇の色も薄い。けれど、目だけが不自然に澄んでいた。
少女は顔を上げ、リュカを見た。
視線が刺さる。剣でも矢でもないのに、まっすぐ胸に入ってくる目。
「……来ないで」
声は小さい。震えている。でも命令の形をしていた。
「え?」
「そこ、近づくと……巻き込まれる」
少女の視線が、リュカではなく、背後の空間を見ているようだった。見えないものを見ている目だ。
リュカは数歩下がる。理由は分からないが、身体が勝手に従った。
「君、大丈夫か? 怪我して――」
「怪我じゃない」
少女は息を整えようとして、うまくいかないように肩を揺らした。深く吸えないのは、リュカだけではないらしい。彼女の呼吸は浅く、速い。
「……世界が、詰まってる」
意味が分からないけど、妙に納得できる。今朝からリュカが感じていた重さと一致する。
「詰まってるって……何が?」
少女は答えず、土壇の中心の光を見た。光は一定リズムで脈打っている。まるで心臓みたいに。
その瞬間、光が強くなった。
草地の空気が揺らぎ、皮膚が粟立つ。毛が逆立つ。目の奥が痛む。目を細めても眩しい。
リュカと少女は境界に座り込んだ。
「……その袋。薬草採りでしょ」
少女が、リュカの荷袋を見て言った。
「あ、ああ……そうだけど」
ミアは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「よかった。完全に関係ない人じゃない」
「どういう意味だよ」
「この場所、放っておくと……下に降りるの。村に。人に」
リュカの背筋が冷えた。
「熱が出たり、眠れなくなったり……ひどいと、息ができなくなる」
思い当たる節があった。ここ最近、村で流行った原因不明の不調。医者も神官も首をひねったままだ。
「……それ、ここが原因なのか」
「たぶん」
ミアは立ち上がり、少しふらつきながらも丘の下を見た。
「だから、見に来た」
「一人で?」
「……いつもは一人じゃない」
それ以上は語らなかった。
リュカは、少し考えてから言った。
「じゃあ、案内するよ」
ミアが驚いたように振り返る。
「え?」
「村に被害が出るなら、放っておけないだろ」
「……わたし、怪しまれない?」
「すごく怪しい」
「……だよね」
丘の上を、風が抜けた。
世界は、かすかに息を整えたようだった。
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