8.それぞれの違和感
椿リヒト視点
橘キョウカは、俺の幼なじみで、許嫁だ。
それは事実で、今までも、これからも変わらない。
初等部の頃から、ずっと一緒だった。誰よりも優しくて、誰よりも正義感が強くて、少し不器用で。
だから、放っておけなかった。
守るのは、当然のことだと思っていた。
そうしなければならない役目だと、疑いもしなかった。
——最近のキョウカは、明らかにおかしい。
以前のように穏やかに笑わなくなった。代わりに、焦りと苛立ちを含んだ視線を、どこか遠くに向けている。
原因は、分かっている。
(桜アリス……)
あの名前が出てから、キョウカは変わった。
「…ねぇ、リヒトくん」
放課後、いつものように並んで歩いていたとき、キョウカが不意に立ち止まった。
「桜アリスさんのこと、どう思う?」
唐突な質問。けれど最近、似たような話題が増えている。
キョウカはこの名前を、何度も口にするようになった。探るように、確かめるように。
まるで、何か大切なものを、奪われそうになっているみたいに。
「どうって…」
そう聞かれた時、俺は一瞬も迷わなかった。
「キョウカを泣かせるようなことをする、最低な奴だろ」
そう答えるのが正しいと思った。
実際、あいつのせいでキョウカは動揺している。
なのに。
キョウカは、納得できない何かを抱え込んだような顔をした。
俺の言葉を聞きながら、別の答えを探しているような——そんな、奇妙な表情。
——それが、ひどく不安だった。
守るはずの相手が、俺の知らない場所で別の答えを探している気がして。
「……そう」
曖昧な返事を残して、視線を逸らす。
最近のキョウカは、いつもこうだ。
「何か気になることでもあるのか?」
そう聞いても、彼女は首を横に振るだけだ。
「ううん。ただ……」
言いかけて、やめる。それ以上、踏み込ませない壁。胸の奥に、言葉にできない違和感が残る。
——守ってきたはずなのに。
——俺は、ちゃんと隣にいるはずなのに。
それなのに、キョウカの視線は、俺ではない“どこか”を追っているように見えた。
そんなある日。
中庭を通りかかったとき、偶然その光景を目にしてしまった。
(……キョウカと、楸ナギ?)
遠目でも分かった。二人の間の空気が、妙に落ち着いている。
距離はある。楽しそうでも、親しげでもない。
けれど——警戒もない。
必要だから話している。それだけの、静かな距離感。
——それが、妙に腹立たしかった。
……また、あいつか。
楸ナギという男は信用ならない。桜アリスの前に必ず現れる、掴みどころがなくて不明瞭な存在。
なのに、キョウカは彼の前では、俺の前よりも少しだけ、本音を出しているように見えた。
胸の奥が、ざわついた。
これは嫉妬だ、と認めるのは簡単だった。
けれど、それ以上に——
奪われる、と思ってしまった。
キョウカを。そして、俺が守ってきたはずの“役割”ごと。
「……」
声をかけるべきか、一瞬迷って、やめた。自分でも驚くほど、足が動かなかった。
自分の知らないところで、キョウカが何かを確かめようとしている。
それが、どうしようもなく気に入らなかった。
——桜アリス。
その名前が、頭をよぎる。
俺は、彼女をよく知らない。
なぜキョウカが、彼女をあそこまで気にするのかも分からない。
桜アリスも、楸ナギも、同じだ。
俺の知らない場所で、キョウカの世界を歪める存在。
——排除すべきもの。
そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
俺は間違っていない。守っているだけだ。
キョウカが、安心して笑っていられるように。
でも最近、キョウカの背中が少しずつ遠ざかっている気がしてならない。
守るべきものが、自分の手から零れ落ちていく感覚。
それを認めるのが思っていた以上に、怖かった。
―――――――――――――
橘キョウカ視点
——やっぱり、おかしい。
最初にそう思ったのは、桜アリスを見た瞬間だった。彼女は、私の知っているヒロインとは違っていた。
だって、私は知っているから。
この物語を。この学園を。この世界の“正しい流れ”を。
この世界のヒロインは、桜アリス。
優しくて、純粋で、攻略対象たちに守られる存在。
——そのはずだった。
あろうことか彼女は、悪役令嬢の取り巻きと呼ばれるはずの二人と、笑っていた。
怯えるでもなく、距離を取るでもなく。
彼女たちを庇って、手を取って、当たり前のように連れて歩く。
あんな展開、知らない。
(……ありえない)
彼女たちは、本来ならヒロインを追い詰める存在だ。私と同じ、悪役サイドのはず。
清くて正しい彼女が、悪役と仲良くなるなんて、あるはずがない。
なのに桜アリスは、彼女たちと並んで歩いている。迷いも、ためらいもなく。
胸の奥が、冷たいものが広がる。
(違う……こんなの、私のヒロインちゃんじゃない)
私は、前世で何度もこのゲームをプレイした。
選択肢も、分岐も、結末も——全部知っている。
桜アリスは、不器用ながらも正しさを貫く存在だった。
健気でひたむきな姿勢で、誰からも愛される頑張り屋さん。
そんな彼女が、大好きだった。
なのに今の彼女は。
誰かに見初められるでもなく、誰かを攻略するでもなく、楽しそうに自分の居場所を作っている。
(そんなの……)
許せるわけがない。
「私のヒロインちゃんは、そんなんじゃない」
気づけば私は、彼女について嗅ぎ回るようになっていた。
私は、思わず足を止める。
「……楸ナギ」
少し離れた場所で、彼が一人で本を読んでいるのが見えた。攻略対象の一人。桜アリスのそばにいる男。
彼と一緒にいるということは、彼のルートに入ったんだと思っていた。本来なら、もっとイベントが起きているはずだ。
なのに、妙に距離が近いくせに、何故か物語らしい進展がなさそうだった。
私は、意を決して声をかけた。
「桜アリスさんのこと、どう思ってますか?」
探るように。確認するように。
ナギは顔を上げ、少しだけ考える素振りを見せる。返ってきた答えは淡々としていた。
「普通だよ」
——普通。
その言葉に、苛立ちが込み上げる。
普通なわけがない。彼女は、ヒロインなのに。
「彼女は、君の思う通りには動かないよ」
ナギは、静かにそう言った。
その視線は、まるで——
物語に縋る哀れな悪役を見ているようで。
(何、それ)
私は、間違ってない。ヒロインちゃんを正しい道に戻そうとしているだけ。
桜アリスが、本来あるべき場所に立てるように。
なのに。
彼女は私を選ばなかった。拒絶するように、はっきりと言った。
——友達。
その言葉で、胸の奥がひび割れた。
(違う……)
ヒロインちゃんは、悪役令嬢の取り巻きなんかと仲良くするような器じゃない。
私が大好きだったのは、“今のヒロイン”じゃない。
“物語の中で、輝いていたヒロイン”だ。
彼女は、私の手を取らなかった。
世界が私の知っている物語から、静かに、確実にずれていく。
この違和感を無視したままでは、もう前に進めない。
——桜アリス。
(あなたは、何者なの?)
私は、その答えを知るまで、きっと立ち止まれない。
ヒロインちゃんが間違った道を進むなら、悪役令嬢である私が、正してあげる。
たとえ、彼女に嫌われる役を引き受けることになっても。
だって私は——
桜アリスの一番のファンだから。




