5.悪役でも
「僕は桜サンのこと、好きだけど」
言葉が落ちた瞬間、空気が止まった。
中庭を抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
あまりにもさらりと言うものだから、胸の奥が不意に締めつけられた。
理由も分からないまま、涙が込み上げそうになる。
両脇にいた彼女たちが、顔を赤くして小さく声を上げた。
椿リヒトは、私を睨むように見下ろしている。
その隣に、橘キョウカの姿はない。
それなのに、彼の世界には彼女しか映っていないように見えた。
一方で。
「桜サン、やっぱりここにいた」
楸ナギは、いつの間にか私の前に立っていた。
庇うようでも、割って入るようでもない。ただ自然に、会話の輪に入ってきたかのような立ち位置で。
いつも通りの、穏やかな声で。
「顔色が悪いね、大丈夫?」
その言葉に、胸が詰まる。
そんなふうに、優しくしないでほしい。私は別に、守られるような人間じゃない。
失恋した時も、今も。
そばに居てくれたのは、ヒロインの力。たまたま中身が私のヒロインを好きになってしまっただけ。
だから。
それでナギくんのことを、まんまと好きになるのは、あまりにも滑稽だ。
「またお前か。でしゃばってくるな、貴様には関係ないだろう」
「あるよ。桜サンは、僕の……」
言いかけて、ナギくんが言葉を止めた。
――ああ、だめだ。この空気、知ってる。
ゲームで見た、ナギくんの専用スチル。あの時の表情を、今、私に向けている。
「僕の――」
彼の言葉を遮るように、私は一歩、前に出る。
「もういいです、椿リヒトくん」
自分でも驚くほど、低い声だった。
「貴方が、私のことを悪役にしたいのは分かりました」
リヒトくんの眉が、ぴくりと動く。
「……何を言っている、キョウカを傷つけたのは事実だろう」
「傷つけた覚えはありません。でも、あなたがそう信じたいなら……もう、それでいいです」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
――私、今。ちゃんと彼と話せてる。
「ただ一つだけ、はっきりしてるのは」
ゆっくりと息を吸って、言葉を選ぶ。
「貴方の見ているものが、全てじゃない」
言い切った瞬間、リヒトくんの表情が凍りついた。ゲームでは見たことない顔だった。
「……失礼します」
それ以上は何も言わず、背を向ける。足が震えていたけど、止まらなかった。
背後で、誰かが息を呑む気配がした。
―――――――――――――
まだ胸の奥がざわついている。
椿リヒトの声、表情、あの場の空気が、頭から離れない。少し進んだ先で、張りつめていたものが一気に緩んだ。
足が、少しだけもつれる。
その時――
ぎゅ、と。指先を、掴まれた。
「……桜サン」
振り返るより先に、手を引かれる。強くはない。でも、離さない力だった。
ナギくんが、そっと私の手を握り直した。
驚いて見上げるより先に、私の手を引いて彼は歩き出す。気づけば、中庭から離れていた。人の気配が薄れていくのを感じながら、私は黙ってついていく。
手は、繋がれたままだ。その手が、やけに温かい。
(……震えてる)
自分でも分かるくらい、指先が小さく震えていた。さっきまで、あんなに平気な顔をしていたのに。
でも、ナギくんは何も言わない。離すことも、握り直すこともせず、ただ繋いだままでいてくれる。
(気づいてる、よね)
気づいているからこそ、この距離なのだと分かる。近すぎず、でも放さない。
――さっきの「好き」という言葉が、脳裏をよぎった。
リヒトくんと別れたのに、胸の鼓動はまだ早いままだった。
ドキドキが収まらないのは、きっとーー。
(びっくりしただけ)
そう言い聞かせる。
リヒトくんと対峙して、予想外の一面を見て、思っていた“推し”とのズレに戸惑っただけ。びっくりしたからだ。緊張したからだ。だから心臓がうるさいだけ。
頬が熱いのも、きっと気のせい。
「桜サン」
名前を呼ばれて、はっとする。ようやく足が止まった。昼休みの終わりを知らせるチャイムが、遠くで鳴る。
「さっき、無理してた」
ナギくんは、そう言ってから、ようやく私の方を見る。繋いだ手は、まだ離さない。相変わらず距離感が近い。
近いけれど、不思議と嫌じゃなかった……いや、嫌じゃないのが問題なんだけど。
「……してない」
「してたよ。オーラがすごく揺れてた」
そう即答されて、言葉に詰まる。反論しようとして、出来なかった。彼には嘘は通用しない。
ナギくんは少しだけ目を細め、それ以上踏み込んでこなかった。その優しさが、逆に怖い。
「僕ね、そう簡単に離れないよ」
「え……?」
「桜サンが嫌だって言わない限り。……言われても、すぐには無理かもだけど」
冗談めかした口調なのに、どこか確信を持った声。それは宣言でも、脅しでもなく、ただの事実みたいだった。
「僕、決めたことは変えないから」
風が吹いて、桜の花びらが二人の間を通り過ぎていく。胸の奥に絡まっていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
ナギくんなりに、励ましてくれているのだと分かって。
肯定されることに、慣れていない心が、少しだけ安心してしまった。
――だからこそ、怖くなった。
リヒトくんに突きつけられた言葉。あの人の目には、私は紛れもなく“悪役”として映っていた。
もし私が、これから先、ナギくんの“悪役”として映る日が来たら。それでも、この人は同じ顔でいられるんだろうか。
「私が、悪役でも…?」
独り言みたいにこぼしたつもりの言葉が、思ったよりもはっきり響いた。
ナギくんの表情がきょとんとする。ナギくんは、何も言わず、少しだけ指に力を込めた。その感触に、胸がざわつく。
「悪役でも、そばにいる」
あまりにも自然にそう言うから、思わず顔を上げた。
冗談のつもりで口にした言葉だった。でも、ナギくんは否定しなかった。ナギくんはこんな突拍子もない質問でも、真面目に答えてくれるんだ。
「悪役でも、桜サンは桜サンだよ」
それは、攻略ルートにも、どこにもない答え。ヒロインに対して、絶対言わないだろうセリフ。肯定する声。疑いも、迷いもない。
――ああ、もう。
この人は、どうしてこうも“ちょうどいいところ”を突いてくるんだ。
「……ナギくん」
名前を呼ぶと、彼はちゃんと私の目を見る。それだけで、心臓が跳ねた。
もう、彼から逃げないと決めた。
「これからも、友達でいてくれるよね」
「…聞いていい?友達の距離ってどれくらい?」
また、その質問。私は少し考えてから、繋がれたままの手に視線を落とす。
「今は……これ以上は、だめ」
一瞬の沈黙。
それから、ナギくんはゆっくりと私の手を離した。名残惜しそうに――ちゃんと約束を守るみたいに。
「分かった、でも」
そう言って、彼は一歩だけ近づく。
「離れすぎたら、迎えに行くから」
真面目な顔で、そんなことを言うものだから、思わず笑ってしまった。
「…それ、友達の距離?」
「うん。僕なりの」
チャイムが鳴り終わる。
「戻ろっか、ナギくん」
「うん」
「……さっきは」
言いかけて、言葉が続かなかった。それでも、ナギくんは何も聞かずに、ただ隣を歩いてくれる。
今度は、手を繋がない。言葉も、さっきより少ない。それでも、並んで歩く距離は、ほんの少しだけ近かった。
(悪役でも、こうして一緒に歩けるなら)
それも、悪くない――そう思えた。




