16.未来が視えなくても
あの事故から数日。
私は驚異的な回復力を見せ、一週間も経たずに退院できるらしい。明日が、その退院日だ。
機械音と、遠くの足音だけが、規則正しく時間を刻んでいる。
カーテン越しの窓には、街の灯りが滲んでいた。
身体はまだ重い。
けれど、痛みは思っていたほどじゃない。
(……本当に、生きてるんだ)
天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
本来なら、この世界にいないはずだった私は、
ヒロインとして今もこうして、心臓を動かしている。
――楸ユウリは、死ななかった。
代わりに、私が倒れた。
それだけの違い。
……のはずだった。
カーテンが、かすかに揺れる。
「……起きてる?」
小さな声。
覗き込んできたのは、橘キョウカだった。
明日退院だというのに、律儀に見舞いに来てくれたのか。
「うん」
「そっか」
彼女は、ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろす。
いつもより、少しだけ静かな仕草。
一瞬、間が落ちる。
「……ねぇ、アリス」
視線を私から外したまま、キョウカは言った。
「未来、変えたよね」
「うん」
その声色は、ひたすら柔らかかった。
「“成功”って言葉で済ませていいのか、分からないけど」
「でも……分岐は、確かに踏み越えた」
彼女は、指先をぎゅっと握りしめる。
「本来なら、あの場にいたのは……」
「ユウリさんだった」
言葉にした瞬間、空気が少しだけ重くなる。
「なのに、倒れてたのはアリスだった」
「貴方が、選んだ結果」
キョウカは、まっすぐ私を見る。
「……もう、元のルートには戻れない」
「分かってるよ」
それは、不安じゃなかった。
むしろ、確信に近い。
「でも、後悔はしてない」
「だよね」
彼女は、小さく笑った。
「アリスは、そういう子だと思ってた」
「ヒロインらしくていい?」
「いや――」
一拍置いて。
「ヒロインちゃんじゃなく、貴方らしくていいよ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
驚いた。初めて、私の存在を認めて貰えた気がして。
嬉しかった。
「……私ね、前世でヒロインちゃんのこと、大好きだったんだ」
彼女の視線が、静かに落ちる。
「今までヒロインちゃんがこの世界にいると思ってたから、頑張れた」
「まさか中身が別人だなんて……信じたくなかった」
彼女は、独り言を言うように、言葉を零していく。
「認めたくなくて、あなたにヒロインちゃんの理想を押し付けてた」
「ごめんね」
息を飲む。
――ああ、この子も、私と同じだった。
推しがいたから、この世界に希望を持てた。
推しがいたから、頑張ってこれた。
でも、実際に会ったら“違う人”だった。
その絶望は、よく分かる。
転生者同士、分かり合える。私は、彼女の唯一の理解者だ。
「……私もヒロインじゃなくて、ごめん」
気づけば、そう口にしていた。
それは、ずっと心の奥にあった言葉。
キョウカは驚いたように、私を見る。
「……謝って、欲しいから言ったわけじゃないの。私だって同じ立場だから。それに今は受け入れてるから」
そう言われて、微笑む。
「キョウカ、かなり変わったよね。まわりに対しても、無駄に笑顔を振りまかなくなった」
「……だって、私がああいう振る舞いをしてたのは、ヒロインちゃんのためだもん。いないなら、もうみんなにいい顔しなくていい」
「そっちの方がいいじゃん、私は今のあなたの方が親しみがあって好き」
「……ヒロインちゃんの顔と声で、そんなこと言わないで欲しい」
「ほんと、ヒロインのこと好きだね」
私も、リヒトくんを取られたと思っていたあの頃とは、かなり変わっただろう。
彼女と、こんなに穏やかな気持ちで接せるなんて、あの頃からは想像つかなかった。
その時、廊下の向こうで慌ただしい足音が近づいてくる。
カーテンが開いて、ナギくんが顔を出した。
「……桜サン」
少し、青ざめた表情。
「さっき、占ってみたんだ」
「……でも」
言葉が、詰まる。
「結果が、出なかった」
「“何も視えない”」
私とキョウカは、思わず視線を合わせた。
――力が使えなくなる。
それは、彼が兄を失った直後に起きるはずだった現象。
彼のシナリオ通り。だけど。
(お兄さんは、死ななかったのに、どうして)
――彼の“力”は、物語前提で成り立っていたのだろうか。
物語が壊れた今、占いは、もう万能じゃないのかもしれない。
だからこそ。
「……一緒に考えよう」
「未来が視えなくても」
そう言うと、ナギは目を見開いたあと小さく、でも確かに頷いた。
未来が見えなくても――
それは、彼にとって一番怖い言葉のはずなのに。
窓の外では、夜が近づきはじめていた。
救われた命。狂い始めた力。
そして、元には戻らない物語。
――今は、まだ静かだ。
けれどこれは、
嵐の前の、はっきりとした“凪”。
私は、それをはっきりと感じていた。




