10.忘れたの?
最近、橘キョウカは——どこにでも現れる。
それも、前とは比べものにならない頻度で。
朝の昇降口。昼休みの中庭。放課後の図書室前。廊下を曲がった先。食堂の列。植物園の入口。
私が行こうとした場所に、なぜか先回りして立っている。
(……またいる)
視界に入った瞬間、内心でため息をつく。
橘キョウカは、今日も今日とて完璧な姿勢で立っていた。背筋はまっすぐ、制服には皺ひとつない。
あの宣言通り、彼女は本気で私をヒロインらしく矯正するつもりらしい。会う度に採点され、会う度に突っかかってくるようになった。
焼きそばパンを片手に、私は足を止めた。
「桜さん」
逃げ場のない呼びかけ。
背後から、きっちり整えられた声が落ちてくる。
「その手に持ってるの、何?」
「焼きそばパンだけど」
何気なく返した、その瞬間。
彼女の眉が、ほんのわずかに寄った。
「……ヒロインちゃんは、そんなもの食べない」
出た。最近、彼女は会うたびにこれだ。
「ヒロインちゃんはいつも、手作りのお弁当を食べてた!」
「そんなジジくさいもの、ヒロインちゃんは口にしない!解釈違い!!」
(解釈違いて……)
揃いも揃って、焼きそばパンになにか恨みでもあるのか。橘キョウカは眉をひそめていた。
橘キョウカの視線は、まるで嫁の所作を逐一チェックする姑のようだった。
「自分が食べたいもの食べて、何が悪い」
そう返すと、キョウカは一瞬だけ言葉に詰まった。けれど、すぐに立て直す。
「“ヒロイン”は、そんなことしないもん!」
私は焼きそばパンを一口齧り、ゆっくり飲み込んでから言った。
「私、ヒロインちゃんじゃなくて、桜アリスだよ」
空気が、ぴしりと張り詰める。
キョウカの目が、冷たく揺れた。
「……ヒロインちゃんは、そんな突き放すような言い方しない」
今度は、言い方。本当に面倒くさい。
何をしても、何を言っても。
ヒロインちゃんならそんな事しない、ヒロインちゃんならそんな顔しない、ヒロインちゃんならそんな事言わない。
“ヒロインなら、もっと——”
(……息、詰まりそう)
注意されているわけじゃない。責められているとも、少し違う。
ただ、“否定”されている。
私という存在そのものを。
「桜アリス」
その日も、キョウカは当然のように目の前に立っていた。最初は反論していたけれど、最近はもう聞き流している。
正直、どうでもよかった。だって何を言われても彼女の“理想のヒロイン像”に合わせる気はないから。
「ヒロインちゃんはね、本当はもっと——」
私は反射的に思考を切り替える。
彼女の言葉を聞き流す技術は、だいぶ上達していた。
ふと、胸に小さな違和感が生まれた。
この神出鬼没さ——どこかで覚えがある。
(……ナギくんみたい)
思い浮かんだ名前に、少し驚く。
そういえば、最近全く会っていない。
楸ナギ。
以前は、用事がなくても近くにいた。
占いがどうとか言いながら、理由をつけて。なのに今は、まるで最初から存在していなかったみたいに、静かだ。
学園のどこかにいるはずなのに、ふとした時に感じていたあの視線も、気配も、ぱったり消えた。
(……なんで、会いに来ないんだろう)
こちらから探していないわけじゃない。
図書室も、あの木陰も、彼がいそうな場所には足を運んでいる。
——いない。
考え込んでいると、キョウカの声が少しだけ強くなる。
「聞いてる?」
「あ、うん」
反射的に返す。
「桜さんは、もう少しヒロインとしての自覚を持った方がいいと思う」
「周囲からどう見られているか、とか」
「私のヒロインちゃんのイメージを落とさないで欲しい」
またそれか、と思いつつ。今日は、少しだけ気分が違った。
「ねえ」
私は、彼女の言葉を遮る。ほとんど無意識に口を開いていた。
「最近、楸ナギくん見かけた?」
キョウカが、ぴたりと口を閉じた。
ほんの一瞬。ほんの一拍。
けれど、確かに“間”があった。
「……どうして?」
「いや、最近会ってなくて」
理由はそれだけ。深い意味はない、はずだった。
橘キョウカは、じっと私を見つめてくる。
何かを測るような、試すような視線。
そして、彼女は信じられないものを見る目で、静かに言った。
「……あなた」
責めるでも、怒るでもない。
ただ、呆れたような声。
「楸ナギルートのシナリオ、忘れたの?」
——ぞわり。
背中を、冷たいものが撫でた。
胸の奥が、一気にざわつく。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
嫌な予感が、静かに根を張り始めていた。
——それが、もう動き出しているということだけは、はっきり分かった。




