9.私は絶対に認めない
最近、視線を感じる。
それも一度や二度じゃない。
廊下を歩いているとき。教室で席に着いたとき。食堂でフォークを持ち上げた瞬間でさえ。
背中に、薄く、けれど確実に刺さる視線。
(……また、橘キョウカ)
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が重くなる。
あの日、はっきりと言い返してから。彼女は声をかけては来ないものの、ストーカーのごとく周囲を付きまとうようになった。
話しかけてくることも、突っかかってくることもない。
代わりにあるのは、妙に丁寧な距離感と、冷静すぎる視線。ただ、少し離れた場所から私を見ている。
振り返れば、必ず一拍遅れて目を逸らす。
露骨じゃない。だからこそ、余計に気味が悪い。
(……観察、してる)
私の行動。言葉。表情。
まるで、“答え合わせ”をしているみたいに。
落ち着かない気分のまま、私はガゼボへ向かっていた。
「アリス、今日も植物園行く?」
「うん。そのつもり」
隣で歩くカオルが、いつもの調子で笑う。反対側では、コトリが私の袖を掴んだまま離れない。
最近はもう、この距離が当たり前になっていた。
——その様子を。
少し離れた木陰から、じっと見つめる視線がある。
橘キョウカ。
彼女は一人。誰かと話すでもなく、ただ、私たちを見ている。
……昨日までなら、気づかないふりをしたと思う。
関わらなければ、きっと何も起こらない。
面倒なことに巻き込まれるくらいなら、距離を保つ方が楽だ。
でも。
「……仕方ないな」
小さく息を吐いて、私は立ち止まった。
「アリス?」
「どうしたの?」
二人が振り返る。
「ちょっと先に行ってて。すぐ戻るから」
そう言って、そっと手を離す。
不安そうにこちらを見る二人に、軽く手を振ってから、私はキョウカの方へ向かった。
彼女は逃げなかった。
それどころか、こちらが来るのを待っていたかのように、背筋を伸ばして立っていた。
「何か、用?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
キョウカは、少しだけ目を見開く。そして、ゆっくり息を整えてから口を開いた。
「……あなたに、聞きたいことがあるの」
来た。直感がそう告げる。
「桜アリスさん。あなたは——」
一拍。
言葉を選ぶように、彼女の視線が揺れる。
「——この世界を、知ってる?」
心臓が跳ねた。
あまりにも、真っ直ぐな問いだった。
問いかけているくせに、彼女の声にはもう答えが含まれているみたいだ。疑問じゃない、ただ確認しているような声色で。
私は一瞬、カオルとコトリの方を見る。
二人は少し離れた場所で、こちらに気づいていない。
「……何の話?」
とぼけた声を作る。でも、キョウカは引かなかった。
「とぼけなくていいよ」
低く、冷たい声。
「私も、そうだから」
その一言で、全部が繋がった。
やっぱり、彼女も転生者。私の予想が確定した。
「ヒロインなのに、悪役とされる人たちと平然と仲良くする」
「ヒロインちゃんが、あの人たちと関わるなんて、ありえない」
——確信。キョウカの目には、一切の迷いがなかった。
私は、しばらく黙って彼女を見ていた。否定することもできた。笑って誤魔化すこともできた。
でも。
「……彼女たちは、今は悪役令嬢の取り巻きじゃない」
静かに、言葉を選ぶ。
「この世界で生きてる、一人の人間だよ」
キョウカの唇が、わずかに歪む。
こんなことをいうと、彼女に転生者だと明かしたようなものだ。
それでも、私の友達を最初から悪と断定し、凶弾されるのは耐えられなかった。
「……やっぱり、そうなんだ」
彼女の顔から表情が抜ける。
彼女は薄々わかっていた答えを、照らし合わせたくないようだった。
「じゃあ貴方は、取り巻きたちがヒロインちゃんにしたことも全部知ってて、仲良くしてるってこと?」
「今の彼女たちは、何もしてないでしょ」
そう答えると、彼女は拳を握りしめた。
「前世でプレイ済みなら、どうして平気な顔して仲良くできるの?人はそう変わらない、中身が同じなら性格悪いのは確定してる」
「……それがどうしたの」
私は、視線を逸らさなかった。
「私は、それでも好きなんだよ」
一瞬、空気が凍る。
「つまり……あなたも同類ってわけね」
一歩、彼女が距離を詰める。
「私は、絶対に認めない」
「私のヒロインちゃんを返して。その見た目で、好き勝手しないで」
「ヒロインちゃんが、可哀想」
たくし上げるように並べられる言葉に、ぞっとするほどの“愛情”を感じた。
「だから——」
彼女は、胸に手を当てて言う。
「……私が、元のヒロインに戻してあげる」
静かに、息を吐く。
戻すも何も、そのヒロインはこの世界のどこにもいないのに。
「……それ、なんのために?」
「もちろん。ヒロインちゃんのため」
即答だった。
一瞬、声が震える。
「だって私は……ヒロインちゃんの一番のファンだから」
その言葉を聞いた瞬間、はっきり分かった。この人は、もう止まらない。好きという真っ直ぐした熱量が、1番厄介だ。
「……悪いけど」
私は、一歩引いた。
「私は、あなたの好きなヒロインじゃない。私は私が選んだ人たちの側にいる。それだけ」
キョウカの表情が、凍りつく。
カオルとコトリがいるであろう場所に、視線を向けた。
「だから——」
はっきりと、言葉を紡ぐ。
「私を“正そう”とするなら、全力で対抗する」
沈黙。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが響く。
キョウカは、しばらく私を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……やっぱり」
その笑みは、どこか壊れた人のそれだった。
「あなたは、私のヒロインちゃんに相応しくない」
そう言い残して、彼女は踵を返す。去っていく背中を、私は黙って見送った。
やはり彼女はヒロインのファンだった。しかも、予想していたよりも。
(……結局、明かしちゃったな)
この先、面倒くさくなる未来しか見えない。
でも、後悔はなかった。
ヒロインらしく振る舞うつもりはない。
選んだのは私だ。引き返すつもりもない。
きっとこれが——
私と橘キョウカが、決定的に分かれた瞬間だった。




