卒業式はいつですか?
「今は明治で、江戸は終わったってホントかな……」
つぶやく少年の声は、街が生み出す雑踏にかき消される。
そこに響くのは少年の腹の虫だった。
(動乱ってやつでおっ父もおっ母も死んじまったしなあ)
どうしたらいいかと思っていると食べ物扱う商店が、少年の瞳に飛び込む。
ゴクリと唾を飲み込み、少年は意を決して一歩目を踏み出す。
☆☆☆☆☆☆☆☆
「そこまでにしとこうか」
後ろからの声で、少年は我に帰る。
振り向くとそこには侍がいた。
「手に持ってるものを元の場所に戻してきたら、飯奢るって言ったらどうする?」
少年がすぐに言われた通りに動くと、侍は少年を連れ、大衆食堂へ足を運ぶ。
「おう帰ってきた帰ってきた。なんね?その子は」
豪快な男が侍と少年を出迎えた。
侍や周囲の人たちとの会話の流れから、薩摩あたりの人と少年は判断する。
やがて食事が運ばれてくると、少年は我先に食べようとする。
「まずは、いただきます。親に教わったでしょう?」
聞こえた声に手を止め、少年は身の上話をした。
言葉に詰まる男たちを横目に、侍からいただきますの作法を学ぶ。
「両替商も店を畳むご時世とはいえ……」
「ま、まあこれからは学問の時代だから。いろいろ学ぶといいよ」
手をグーにして箸を持ち、飯をかきこむ少年に侍は優しく話しかけた。
「福沢諭吉さんの言葉ですね」
「はっ!剣豪のくせに戦闘とあらば逃げ出す腰抜けがなんば言いよると!」
雰囲気を変えたいのか、ざんぎり頭に豪快な男の怒声が飛ぶ。
「まあ確かにそういう見方もありますね」
「もっと全体から見ると、見方も変わるよ」
侍の声と新しく聞くふたつの声が少年の耳に届く。
「あの動乱の中、戦ったらどうなるかわかるだろ?だから逃げたのさ」
「生かした相手が今も生き残ってくれれば国力増強ですから」
「敵対した人間とそうそう分かり合えるかな……」
そこにまた新しい声が割って入り、喧々轟々目まぐるしく言葉が飛び交う。
「んぐっ!」
少年が飯を詰まらせると会話は止み、すぐさま湯呑みが差し出された。
「ゆっくりでいいから、たんとくっとけ、な」
「まず腹ば見たせ。その後に学や心を満たせばよか」
一命を取り留めた少年に、次々と優しい言葉がかけられる。
食事を終え、少年はまたひとりになった。
(お侍さんたちなんか話し合ってたな……なんだろな)
まあいいかと一言で片付け、食事中の話を思い出し、少年はこれからを考えた。
(学べか……よっしゃ!)
何か閃いた様子で少年は走り出す。
☆☆☆☆☆☆☆★
「また来ましたか!毎日毎日ネズミみたいにチョロチョロと!」
ここ数日、少年は近くに私塾に忍び込んでいた。
教室の窓辺近くに身を潜め、耳をそばだてる。
(暗記するんだ。あそこから漏れる声を…一切合切すべて丸ごと)
いつも途中で見つかり逃げ出し、今日もまた大人に見つかってしまった。
(かくれんぼだっけか鬼ごっこだっけか、上手くなったな)
いつもの調子で塀から逃げようとすると、茂みから人影が出てきた。
「わっとっ――とぉ!」
出てきた大人の股ぐらに滑り込み、塀へと急ぐ少年の腕を誰かが掴む。
「っと!すばしっこい!」
すり抜けた大人の対応は速く、少年は捕まった。
「校長先生、ありがとうございます」
「動乱の経験が生きただけですよ、教頭先生」
捕縛されてもなお逃げようと、少年はもがく。
「さて、ひとつ問題。一昨日の今頃、教室で何をしていたか、答えてください」
「えーっとおとといだから…算盤で算術。和差積商で九九の段」
一昨日と聞いて少年は何度か指を動かす。
少年が話す授業内容や生徒の質問は、授業風景をありありと思い浮かべさせた。
「記録と一致しますね。どうです?教頭」
栞のついた記帳をめくり、校長は確認すると教頭に手渡す。
(何の質問だこれ?あの食堂に行くと飯がタダで食えんのと関係あるんか?)
「丸暗記でしょうこんなの!?なら五日前の朝一番の内容は?」
メガネを指で上下に揺らして質問する教頭に、少年はすらすらと答える。
「当たってますね……なんで覚えているんですか……」
閉じた帳面をまたパラパラとめくり、教頭はワナワナと震えながらつぶやく。
「今だけだから。学べんの」
あっけらかんと答える少年の声に、教頭は言葉を失った。
「まあまあ。私が捕まえたのですから、私に権利があるということでひとつ」
校長の声に教頭は大きく息を吐き、腕を組み何かを考え始める。
「そこまで真面目に聞いているのならどうです?ここに通ってみますか?」
「え!?金は?」
「出世払いということで。住む家も食事も風呂も私が提供しましょう」
目をパチクリさせる少年に校長は続ける。
「これは努力で勝ち取った権利です。誇ってください」
「あーもう!わかりましたわかりましたわかりました!」
突然の出来事に立ち尽くす少年は教頭の声が耳に響く。
「人が欲しいのですね次世代を育てるのですよねいつも言ってますもんね!」
校長に早口でまくし立てると、教頭は少年をキッと見た。
「こちらからも条件は出させていただきますよ!盗み聞きをした罰として!」
どんな罰か覚悟を決める少年に教頭が口を開く。
☆☆☆☆☆☆★★
「盗みは卒業なさい!我が校の生徒になるのですから!」
「え?そんなんでいいの?」
「返事!」
「ん、わかった」
「よろしい!今後は努力で勝ち取りなさい!」
言うことを言うと教頭は大股びらきで歩き、ドカドカと去っていった。
「えーっと、これって……」
「継続は力、になりますね」
少年が教頭の背中を見つめながらつぶやくと、隣から校長の声がする。
「勉強も技術も研磨を怠れば、衰える一方です」
真剣な顔でジッと見つめる校長に少年は息を呑む
「努力し続けてくださいね。これからもずっと」
「ん、わかった」
「なら、まずは挨拶と言葉遣いと箸の持ち方からですね」
少年は校長から差し伸べられた手を取り、一緒に建物へと歩いて行った。
☆☆☆☆★★★
季節は移ろい、私塾は小学校へと変わっていく。
さらに季節は流れ、卒業が近くなった少年は進路を決めはじめた。
「教職試験落ちましたか……」
「子どもを見るとどうしても思い出すます……小さかった頃を」
言葉を選びながら少年は謝罪の言葉を校長に告げる。
「まあ高等学校もありますし。経営を学ぶのですよね?」
「はい。育てていただいたご恩に報いたくて」
進路を変えてもなお、少年の目は希望に満ちていた。
「面接試験を辞退?これまた何が!?」
「襲ってきました、過去が。昔雑貨店で盗もうとした罰です」
「ああ、あのときの。あれは未遂だったのでしょう?」
「この店で盗みを働けば飯を奢ってもらえる、との噂が」
「流言飛語……さもありなん」
試験会場で雑貨店の息子に胸ぐらを掴まれたと少年は話す。
傾きかけた店は当時の侍たちが来て支援を受けたという。
「僕に似た境遇の子たちも、お侍さんたちの部下が引き取ったそうです」
「……ああ。なんて言ってました?」
「海や船、魚介類に興味ある者は一歩前へ、とか何とか」
踏み出したものと留まったものと二手に分かれて引き取られたと少年は話す。
「それでケガは?」
「大丈夫です。福沢諭吉さんを真似て逃げましたから」
「正解です。いくら溜飲を下げるためとはいえ、暴力は抑えましょうね」
「はい。殴りあったらどうなるかがわかりましたし、それに」
「それに?」
一拍間をおいて、少年は話を続ける。
「盗みを働く者、働こうとする者は経営者としてどうか、ですね」
全体を見て出した答え、と少年は告げる。
「それでやってみたいことができました。挑んでみてもいいでしょうか?」
☆☆☆☆★★★★
「最後に改めて。役人試験合格、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、少年はお礼を述べる。
「教育者や学校に携わる制度を作る側で、滅私奉公しようと決めました」
「自分で選んで自分で決める。それなら、大丈夫そう、ですね」
汽笛が鳴り、汽車が出発するとの声が二人の耳に届く。
「もう時間か……行ってきますね」
「体に気をつけて」
「お金、ちゃんと返しますね。手紙も出します」
「たまには顔を見せてくださいね」
「はい。必ず。今までありがとうございました」
☆☆☆★★★★★
引っ越した矢先、少年はまた試験を受けている感覚に陥った。
(借りたのは一人の部屋のはずなのに、過去の自分が住み着いていた…)
少年は独りだった頃を、寂しかった時期を思い出す。
(また逃げようかな……ってどこに!せっかくここまで来たのに!)
それではまたぶり返すと、少年は首を振って邪念を払う。
(変わろう、変わるんだ!少しずつでいいから、今できることをやろう!)
孤独感から逃げ出そうとする自分に喝を入れ、少年は立ち向かう努力を始めた。
(まず隣の人と仲良くなろう。えーっと…蕎麦だったかな手渡すの)
引っ越しの作法を確認し、少年は速やかに行動に移す。
(そうだ!日記もつけよう!変われたって記録をつけて自分を褒めよう)
少年は蕎麦と一緒に日記帳と手紙も購入する。
部屋に戻るとすぐに隣人に挨拶をして、蕎麦を手渡す。
久しぶりの会話に心を弾ませた少年は、部屋に戻ると、日記をつけ始めた。
(信じよう。たとえ歩みは遅くても人は変われる。変わっていけるって)
少年は新たな決意を胸に秘め、手紙に手を伸ばす。
☆☆★★★★★★
時間は人を変えていく。
少年が青年になる頃には、身も心も一回り大きくなっていた。
☆★★★★★★
そこから少し時代は移り、少年結婚し、子どもを授かる。
「子育て用に新しい日記帳を買って来たぞ!」
これに成長の様子を書き残していくと、妻と固く青年は約束した。
★★★★★★★
(時間の流れが早い……この間会った校長先生もすっかり老いていたなあ)
子どもはスクスクと成長し、結婚して順風満帆な日々を送っている。
手紙を大切そうにしまう青年もまた、壮年に足を踏み入れかけていた。
そんなある日、青年はいつも通りに郵便受けから新聞を手に取り、開く。
「へー鳥鳴歌か、いいね粋だねいなせだね」
時代の変革を告げる鐘の音を、青年は歌を反芻して何度も聴いていた。