恋やぶれて(真)
イトウミクは空き教室の窓の陰から、じっと成り行きを見守っていた。
ハヤミさんは手紙を持っていた。ということは、彼女が告白される側なのだろう。桜の樹の下に来てと、その手紙で呼び出されたのだろう。
ハヤミさん、まさか二度も同性に告白されるなんて。罪な女だよほんと、なんて思いながら、身を隠しているカーテンの生地をギュッと握りしめた。かわいそうに、あの娘…アカサキも、この後すぐふられることになるのか。
しかしすぐに、イトウミクは「あれ?」と思った。
ハヤミさんの表情が、自分の告白のときとだいぶ違ったのだ。
イトウミクが好きだと告げたときは、困ったような、申し訳なそうな顔をしていた。
でも今、アカサキ嬢に歩み寄る彼女の顔は、まるで見たことのない顔だった。
緊張し、ほおを紅潮させ、瞳を潤ませていた。
明らかに、何かを期待している表情だった。
桜の樹の下に、二人が立った。幼い印象のアカサキと、凛々しい顔立ちのハヤミさん。向き合うと、実に絵になった。
雲間から差し込む夕暮れの光、舞い散る薄紅色の花びら、みつめあう二人の少女。
一瞬何もかも忘れ、見惚れた。
神に祝福された光景みたいだと、イトウミクは思った。窓ガラス一枚隔てた教室で。埃の積もった薄暗い部屋で。
アカサキが、何か言った。ハヤミさんが、それに答えた。
声が届かなくても、何を言っているかは明らかだった。予感がした。
その予感を肯定するように、アカサキとハヤミさんは体を寄せ合い…唇を重ねた。美しい物語のクライマックスみたいに。
そして、ようやくイトウミクは気付いたのだ。
あのときのハヤミさんの言葉は、建前なんかじゃなかったってことに。
女の子同士が恋したっていいと、彼女は言った。それは紛れもなく本音だったのだ。ハヤミさんは噂通り、同性愛者だったのだ。
その事実は、イトウミクの自尊心を深く傷つけた。
それはそうだろう。
イトウミクはそのときまで、自分がふられた理由は、相手が異性愛者だったからだ、と信じて疑わなかったのだ。でも違った。ハヤミさんは同性愛者で、それでも彼女をふったのだ。
つまり。
イトウミクがふられた理由は、シンプルに、女としての魅力が乏しかったからなのだ。
問題は性別じゃなかった。自分自身だった。性別的にはオッケーだけど、付き合えるほど好きにはなれないと判断されたのだ。
不戦敗だと勝手に思っていたのに、実はちゃんと土俵の上で負けていた。
そのことに気付いたイトウミクの衝撃は、計り知れない。なんだか、だまし討ちにされたような気分だった。油断していた分だけ、ダメージはひとしおだった。
二年分の時間差で、失恋のショックが彼女に襲い掛かってきた。
自分は選ばれなかった。付き合うには足らないとジャッジされた。あなたより他の人がいい、あなたよりアカサキがいい、そう宣告された。どうしようもない自己否定と、みじめな自己嫌悪。そういう負の感情が、イトウミクを苦しめた。
告白してふられるのは苦しい。
好きな人と付き合えないという、当たり前の悲しみだけでは済まない。相手に値踏みしてもらった上で、不合格を突きつけられ、自尊心を傷つけられる。それが失恋というものなのだと、二年越しにイトウミクは思い知った。
しかしそれは、ふられて失恋した人みんなが味わう苦しみではある。彼女固有の苦しみではない。
誰だってふられたら傷ついて、自分が無価値な人間のように思えて、何もかもいやんなって、それでもまた立ち上がって恋をするのだ。
だけどイトウミクは、立ち上がれなかった。
恋をするのがすっかり怖くなってしまった。
イトウミクは普通に弱い人間だったので、「失恋が怖いからもう恋はしない」という臆病な選択をしたのだ。
それ以降の人生で、彼女が告白することは二度となかった。
人と関わることを極力避け、それでも一丁前に性欲だけはあり、日々「女の子とエッチしたいなあ」とうだうだ妄想し、そして三十六歳で死んだ。エッチはおろか、キスさえ知らない一生だった。
私には、その前世がある。
イトウミクの無念の記憶がある。
三十六年分の性欲を引き継いでいる、と言っても過言じゃない。
それでもなお、私は恋人を作る気がなかった。
転生してもいまだに、失恋するのが怖いのだ。びびっているのだ。イトウミクと同じように。他人にノーと言われるのが、たまらなく恐ろしかった。
もちろん、本当にそれでいいのかという気持ちはあった。また前世と同じことを繰り返すのかよ、馬鹿じゃないの私、という気持ち。
だから更衣室でのあれは、千載一遇のチャンスだったのだ。相手に絶対にノーと言わせず、性欲を満たすチャンスであったのだ。
逆らったらバラすと脅して、エロいことをする。それで、三十六年プラス十六年分の鬱積した性欲を解き放つことが可能だった。
でも、結局だめだった。脅迫してエロいことするなんて無理だった。
前世からの宿願を、なぜ果たそうとしなかったのか?
答えは簡単。
普通に、「いややっぱダメでしょ、こんなん。よくないよ」という倫理感に負けたのだ。土壇場で。こういう場面でも、結局私は普通だった。
でも、それだけじゃない。もう一つ理由がある。
私の靴嗅いでハアハアしてたってことは、よく考えたら別にこれ、脅迫なんてする必要なくない?今すぐじゃないにしても、そのうち合法的にエッチできるんじゃない?
そう思ったのだ。われながらクレバーな判断である。
もちろん私は、ケイのことなんて好きじゃない。
当然だ。あんな性格悪い女、好きになるわけがない。むしろ嫌いだ。大っ嫌いだ。
例えば仮に、神様から「女の子を一人だけ好き放題にできますよ」という権利を与えられても、絶対にケイなんて選ばない。まっぴらごめんだ。私が選ぶのは、カリスマ歌手のアリシアさんや、踊劇トップスターのサラヤ様。あるいは、サラヤ様のライバルのティナちゃん。ケイを選ぶとしたら、せいぜいその次ぐらいだ。トップ3にも入れやしない。
ケイが恋人なんてまっぴらごめんだけど、でもまあ、あっちが私のこと好きって言うなら付き合うのもヤブサカじゃないっていうか。いっつも闘幻で競い合っている仲なわけだし。ていうか別に、女の子だったら誰でもいいし。誰でもいいから、大嫌いだけどケイでもいっかーっていう、そういうあれだし。そういった感じのスタンスだし。
とはいえ、別に向こうの「好き」という言質を取ったわけじゃない。わけじゃないけど、まあ、大丈夫だろう。違かったら大恥だけど、違わないだろう。絶対。どう考えても。
ここから私のラブストーリーが幕を開けるのだ。
そのラブストーリーのきっかけとして、「闘幻のペアになって」とお願いしたのは、イトウミクの読んでいた本の影響だ。
そりゃまあ、「ばらさない代わりに恋人になって」と脅した方が、話は早かっただろう。でも私はそうしなかった。ペアになってもらうことを要求した。
学年ワースト2とワースト1が手を組んで闘う。そういうのってすごく、イトウミクの読んでいたお話っぽいじゃんと思ったのだ。
個々では冴えない二人だけど、共闘したらケミストリーを起こして大躍進。見下していたクラスメイトをばったばったとなぎ倒し、底辺から頂点へと駆け上っていく。当初はいじわるだった相棒も、だんだん素直で清らかな乙女へと変化してゆく。死線をともに潜り抜けた二人は、いつしか、固い絆で結ばれた恋人同士に…。
これからのことを妄想しつつ、私は校舎を出て帰途に就く。こんなワクワクした気分で学校を後にするのは初めてだ。
にやつく口元を押さえながら、家路をいそぐ。脅迫なんてしていたせいで、日は沈みかけていた。黄昏。あの日見たような美しい夕暮れ。