結局好きって言われてないし
蝉が鳴いていた。
日陰になっていても、ゴミ処理場は暑かった。
外気にさらした脇の毛穴から、じくじくと汗の玉が噴き出してくる。
体が熱い。頭がぼんやりしてくる。蒸し暑さと、恥ずかしさのせいだ。私から誘ったことだけど、好きな人に脇の下を見られて、平気でいられるはずはなかった。脇汗が体の横をつたい、ブラウスに染みをつくる。その一部始終を、ケイちゃんが熱っぽい目でみつめ続ける。
そしてケイちゃんが、紅潮した顔をゆっくりと近付けてきた。荒い息が、脇に吹きかかる。私はゴクリと唾を飲み込む。
湿った手に、右の二の腕を掴まれた。グイッと強引に、上の方に持ち上げられる。肩と水平だった腕、四十五度の角度だった腕が、垂直の九十度になる。蒸れた脇の下が、あけっぴろげにさらけ出されてしまう。
「やだ…。」
思わずつぶやく。自分の左手の人差し指を噛んで、羞恥に耐える。そんな私を見て、ケイちゃんが「はああ…。」と熱い吐息を漏らす。
「なにその顔、たまんないんだけどぉ…?ねえ、じゃあ、嗅いじゃうね、クミンの脇のにおい嗅いじゃうねぇ…?」
「ん…。」
指を噛んだまま返事をする。
彼女の鼻が、脇のくぼみに触れるか触れないかのところまで寄せられる。その場所で、すーはーすーはーと深呼吸する。じっとり蒸れた私の体臭が、ケイちゃんの鼻孔に吸い込まれてゆく。
「はーっ、はあああ…、すご…。」
「く、くさくないの…?」
「ええー?くさいに決まってんじゃーん?超におうよぉ、クミンのここー?ねえクミンさあ、自分が今なにやってんのか、ちゃんとわかってるぅ?友達脅迫して脇のにおい嗅がせるなんてさぁ、やること変態すぎだよねぇ?」
「ち、違う…。」
「ああ、もう、たまんない…。」
「わきゃっ?!」
小さく悲鳴を上げて、私は飛びのいた。
ケイちゃんの唇が、私の脇のくぼみに触れたのだ。脇の下にキスされたのだ。
くすぐったかったし、そこまでされるとは想定していなかったので、驚いてしまった。思わず立ち上がってしまった。
私がこんなリアクションをしてしまったせいで、ケイちゃんは、急に真顔になった。一気に興奮が冷めた顔をしていた。
やばい、怒らせちゃったか。
そう思っていたら、彼女は怒るどころか、シュンとしてしまった。がくりと肩を落とし、眉根を八の字に寄せた。
「あー、いや、あのー、そのぉ…。クミンさ、今のはそのー、なんていうか、そのー。ノリっていうか、つい調子乗っちゃったつーか、その…。」
髪をいじいじしながら、言い訳みたいなことを言う。どうやら、私がケイちゃんを拒んだと思っているようだ。私が脇にキスされて嫌悪感を抱いたと、勘違いしているようだ。
いけない。誤解をさせてしまった。びっくりはしたけど、嫌だったわけじゃない。ていうか、ケイちゃんにキスされて嫌な場所なんてない。
私は再び彼女の隣に座り、「違う、違うよ」と声をかけた。
「違うよ、別に私、嫌だったわけじゃなくて…。ただちょっと、びっくりしちゃったっていうか。口より先に、脇にキスされるって思ってなかったから…。」
「え。」
私の慰めを聞いたケイちゃんの、眉間の皺が取れる。よかった、誤解が解けたみたいだ。
と安堵していると、ケイちゃんは急に顔を赤らめ、もじもじし始めた。ん?なにその乙女な反応。かわいいな、おい。かわいいけど、私そんな感じになるようなこと言ったっけ?
「ク、クミンさぁ…。それってぇ、あのー、つまり、そ、そういうこと?」
「そーゆーこと?」
そーゆーことってどーゆーこと?と首を傾げたが、ああそっか、「もっと脇舐めていいの?」ってことか。うん、だったらもちろんオッケーだ。恥ずかしいしくすぐったいけど、喜んでくれるならどんとこいだ。
「うん、そういうことだよ。」
「そっか、ふーん、そっかぁ…。」
ケイちゃんが、赤い顔をしたまま、何かを決意したように深く頷いた。
そして、にわかに緊張し、まなじり決した表情になった。
いやいや、ちょっと。何もそこまで意気込まなくてもいいんじゃない?それほどまでに、脇舐めに対して真摯な気持ちがあったのか。さすがにちょっと引く…いや、引きはしない、引きはしないけど、びっくりするというか。そんなにもなのかーって気持ちが否めないっていうか。
なんてごちゃごちゃ考えていると、不意に彼女の手が延びて、メガネを外された。
へ?なんで脇舐めるのにメガネ外されるの?
戸惑っていると、両肩をぐっと掴まれた。
そして、ゆっくりと近付いてきた。口をすぼめた、ケイちゃんの顔が。
え、え、え、え?ちょっとちょっとちょっと、待って待って待って、え、これってこれってこれってあれじゃん、完全にあれじゃん、キスのやつじゃん!人と人が口を吸い合わせるときの態勢のやつじゃん!なんでなんでなんで、急になんでそんな?そんな流れじゃなかったじゃん、なんでそんな急に…。
と、パニックに陥りかけたが、ふと気が付いた。
さっき私が言った、「口より先に、脇にキスされるって思ってなかったから」というセリフ。
あれを、「口にキスして」と解釈されてしまったのか。
違うよ、そういうことじゃないよ、拡大解釈だよ。ちょっと待って、こんな感じでファーストキスなの?私が思い描いていたファーストキスは、こんな脇舐められたついでなんかじゃなしに、もっとロマンチックな…。
まあ、でも、いっか。
いろいろと思うところはある。だけどその「思うところ」は、ケイちゃんとキスできるという嬉しさの前には無力だった。
好きな女の子が、私の唇を求めている。これに勝る喜びを、私は知らない。拒む理由なんてどこにもなかった。
目を閉じる。
あごを少し上げて、そのときを待つ。どきどきする。どきどきどきどきする。どきどきしすぎて、胸が苦しい。
唇に、柔らかな感触。
温かくて気持ちいいものに、口を塞がれた。
温かい。柔らかい。プルプルしてて、ふにふにしてる。これが、女の子の唇。ケイちゃんの唇。夢みたいだ。
夢…じゃない、よね?
ちゃんと現実だと確認したくて、目を開けた。大好きな人の顔が、文字通り、目と鼻の先にあった。まつげとまつげが触れ合いそうな距離にあった。
唇を重ねたまま、彼女の潤んだ瞳にうっとりと見入った。
「ふふっ…。」
唇を離して、ケイちゃんが笑った。顔をまっかに火照らせたまま。
「なんで急に目ぇ開けんのー?びっくりして、ちょっと笑っちゃったんだけどー。」
「ゆ、夢かと思って…。」
「なにそれー。現実現実―。ほらー。」
ケイちゃんが、私のほおをグニグニ引っ張る。引っ張られたまま、私はでへへとにやける。
唇が離れても、ふわふわした感触がずっと残っている。見えない生クリームがくっついているみたいな、そんな感じ。多分正確には、残っているのは感触じゃなくて、幸福感だ。甘くて柔らかい、生クリームみたいな幸福感。
「でも、すごい優しいキスだったね…。ケイちゃんのことだから、いきなり舌とか入れてくるかなって覚悟してたんだけど…。」
「えー?ちょっとぉ、あたしをなんだと思ってんのー?パーンチ。」
「わー。ふふふっ。」
メガネをかけながら言うと、ケイちゃんに叩く真似をされた。
「ってまー、正直思ったけどー?舌入れよっかなーって思ったけどー?でもやっぱ、ファーストキスだしさぁー。初めてでディープはあかんでしょーって。」
「えっ。なんで、私が初めてだって知ってるの?」
「は?…あー、じゃなくって、あたしがファーストキスって、そういう意味だったんだけどぉ…。」
「あっ、そ、そっか…。」
そうか、ケイちゃんも初めてのキスだったのか。初めてを私が奪っちゃったのか。嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。向こうもおんなじ気持ちなのか、上機嫌でにやにやしている。
「じゃーあー。次のキスは、ご期待通りに、べろんべろんに舐めまわしてあげっからねぇ。覚悟しときぃ?」
「うん、楽しみにしてる…。」
「お、言ったなー。ほんじゃ、さっそく…。」
「えっ。」
かけたばかりのメガネを、また外された。
そして、二回目のキスが始まった。
夢みたいだ。
キスされたとき、私は思った。
でもよく考えたら、キスの夢なんて見たことない。
夢の中では、私はイトウミクだからだ。
実際の夢では、イトウミクの人生においては、キスされたことは一度もなかった。
彼女は、死ぬまでキスと縁遠い暮らしだった。
だけどイトウミクは、そんな暮らしをそれなりに愛していた。寂しかったけど、誰にもキスされなかったけど、それでも大丈夫だった。希望がなくても、絶望せずに頑張れていた。
その理由は、ハヤミさんとアカサキのキスを目撃したからだ。
桜舞い散る下で重ね合う、美少女同士の唇。そんな光景を見れたのだから、それだけでもう、私の人生は十分だ。あの素晴らしい記憶があるだけで、人生は生きるに値する。彼女はそう思っていた。
それほどまでに美しいキスだった。
一方。
私とケイちゃんのキスは、お世辞にもかっこいいものじゃなかった。脇舐められた直後だし、相手が勘違いしたのを止められず流されてって感じだし、場所もゴミ処理場だし。
だけど、私はあの唇の感触を、きっと一生忘れないと思う。
いや、「思う」じゃない。
絶対に忘れない。ゴミ処理場で交わした、自分の脇汗の味がするあのキスを。いつまでもずっと覚えているだろう。大人になっても、おばあちゃんになっても、死ぬ間際になっても。
忘れられるわけがない。いつかケイちゃんが私を捨てて、二度と会えなくなったとしても。
「エリーから、『大事な話あるから今度の休みに会おう』って言われた。たぶんだけど、告白される感じ。」
ケイちゃんにそう告げられたのは、ファーストキスから二週間後のことだった。
あと二話で完結です。




