のけ者ミーツ嫌われ者(長めの回想) ④
私は恋多き女だ。妄想多き女だ。
だからケイにいじめられたとき、私はしょっちゅう妄想した。実はこれはいじめじゃなく、彼女なりの愛情表現なんじゃないか。ケイはサディスト気質の同性愛者で、私を性の対象として見てくれているんじゃないか、と。
それはとても甘美で、とても都合のいい妄想だった。
いじめられるたびにそんなことを思い、あとで自己嫌悪に陥った。そんなうまい話があるわけがない。現実を見ろ。妙な期待をするな。「ケイを恋愛対象として見ない」という戒めを思い出せ。そう自分を叱りつけた。
私はイトウミクと同じく、弱虫で臆病者だった。
都合のいい期待を抱いて、あとで失望するのが怖かった。
恋をして、失恋するのが怖かった。
ウェブスター先生の闘幻反省会が恒例になるまで、私とケイは一緒に帰っていた。
彼女にいじめられたのは、主にその下校時間だった。
そのときはまだ一応、おしおきという名目になっていた。
闘幻の試合でやる気出さなかった。会話している最中にあくびをした。そういうどうでもいいことを無理矢理あげつらって、私に罰を与えていた。ひじの甘皮をグニュグニュつねって弄んだり、ほっぺをつまんで変な顔させたり、公園のベンチでひざの上に乗っかってきたり。
私はそれに、強く抗うことができなかった。
彼女の機嫌を損なうことを恐れていた。それだけの理由だ。
だから別に、おしおきされるのが大好きだった、というわけじゃない。
確かに、嫌か嫌じゃないかと聞かれたら、まあそんな嫌ってわけでもなかった。ケイにおしおきされると、頭がポウッとなったりした。だけど、ただそれだけの話だ。三度の飯よりおしおきが好きとか、そういうわけじゃない。それじゃマゾだ。私は決してマゾヒストじゃない。痛いの怖いし。女の子を責めるサディスティックな妄想とかもするし。
それはさておき。
歯みがき事件が起きたのは、そういった下校時間のときだった。本でのおしおきから二週間後くらいのことだ。
その日のイチャモンは、近ごろ急に私の口がくさい、というものだった。
まあ正直、思い当たる節はあった。当時ママがニカラ料理に凝っていて、お弁当に必ず一品入れられていたのだ。ニカラはおいしいけど、においが残るのが欠点だった。
もうお弁当にニカラ入れないでって、ママにお願いするから。そう言ったけど、ケイは聞き入れてくれなかった。あんたのママは悪くない、あんたが歯みがき下手なのが原因。一方的にそう決めつけられた。
だから、あたしがクミンの歯をみがいてあげる。
そういう流れになるのは、もはや必然だった。ケイは商店に駆け込み、歯ブラシを買ってきた。二人で歯みがきしてるところ見られたら、変に思われる。なので、人の来ない寂れた公園のトイレでやることにした。
掃除はあまり行き届いていないようだった。床や壁は汚れていて、不衛生だった。だからなのだろうか、ただの公衆トイレのはずなのに、どことなく猥雑な気配が漂っていた。
ケイが鼻歌まじりに、新品の歯ブラシをケースから取り出した。毛先の硬さは、意外にも超ソフトタイプだった。
私は便座に腰掛け、また妙な展開になってしまったとドキドキしていた。
「じゃーあー、始めるよぉ?はい、おくち、あーん。」
ケイが、歯ブラシを唇の横にあてがった。
私は言う通りにしようとした。
が、口を曖昧に開いたところで、やめてしまった。
よく知っている女の子に、口腔を、余すところなくすみずみまで見られてしまう。
それがとても恥ずかしいことだと、そのときやっと気がついたのだ。
普段誰にも見せない喉の奥、糸を引いた唾液、汚い歯垢、舌のざらつき具合、大口を開けたみっともない顔。そういった秘めておきたいもの全部を、大切な友達(と、当時は思っていた)に見られてしまうなんて。何というはずかしめだろうか。
もじもじしている私の様子を見て、ケイは、むしろ嬉しそうに目を細めた。
「ちょっとぉ、どーしたのー?」
「は、恥ずかしい…。」
「んー?」
「ケイちゃんに口の中見せるの、恥ずかしいよ…。」
「えー?だってこれ、おしおきだしぃー?それに、あーんしないと、クミンの口くさいままだよー?いいのぉ?ずーっとあたしにくさい息嗅がせたいのー?」
「そ、そんなわけ、ない…。」
「だったら、ほらぁ。あーん?」
「あっ…ん。」
どうしてこの人は、私のいやがるようなことを次々と考えつくんだろう。そう思いながら、羞恥に震えつつ口を大きく開いた。
ケイが、左手を私のあごの下に添えた。それから、「ふーん?」とつぶやきつつ、口の中をのぞき込んだ。にやにやしながら、じっくりと吟味するみたいに。早くして。そう目で訴えたけど、無視された。私が恥ずかしがるのを知って、わざと丹念に見ているのがわかった。
「ふふっ、くっさぁい。やっぱくさいよ、あんたのおくちぃ。こぉんな口臭友達に嗅がせて、よく平気だねー?信じらんなぁい。」
「は、が…。」
わざと鼻先を近付けて、ケイが言った。歯を閉じたら噛めそうなくらいの距離だ。そこで、彼女は自分の鼻孔をヒクヒクうごめかせていた。私のくさい吐息を嗅ぐために。
私はこの時点でもう、羞恥心でどうにかなりそうだった。すでに頭がぼうっとし始めていた。
そんな私の様子を、ケイはうっとりした表情で眺めた。
それからやっと、歯ブラシが口の中に入ってきた。
もっと乱暴にされるかと思ったのに、ケイの手つきは優しかった。甘やかな気分になるほどだった。柔らかなブラシがゆっくりと、歯と歯茎を撫でさすった。
女の子にしてもらう歯みがきは、自分でやるよりずっと気持ちがよかった。何もかもゆだねてしまったような心地よさ。
「うわぁ、クミンのおくち、すっごい汚いねー?やーだ、なにこれぇ?歯のすきまから、食べカスぼろぼろぼろぼろ出てくるよー?ほーら、ぼろぼろーって。クミンのおくちの中、くさいカスでいっぱいだねー?」
歯みがきは優しくていねいなのに、ケイは言葉でいじめることをやめなかった。
「自分でちゃんと歯みがきできないなんて、赤ちゃんじゃーん。みっともないと思わないのぉ?思わないかー、クミンは赤ちゃんだもんねー?ひとりじゃなーんにもできないもんねー?しょーがないなー、ママがきれいきれいしてあげまちゅねぇ?」
「ほっぐ…。」
なじられながら、口腔を優しくいじられる。その初めての経験に、私の感情はぐちゃぐちゃになっていった。
脳の奥の方が、甘く痺れるようだった。
「あははっ…。なーにぃ、そのだらしない顔ー。てかさー、鼻息すごいんだけどー。生あったかい息、手に当たって超キモいんだけどー?我慢できないのぉ?」
「か…、ほっ…。」
言われて自分が、ふごっ、ふごっ、と豚のような鼻息を鳴らしていることに気付いた。
いやだ、こんなのいやだ、恥ずかしい、聞かれたくない。そう思い、鼻呼吸を止めようとした。
でも、無理だった。歯みがき中に鼻息を止めるなんて、できるわけなかった。
それどころか、更にまずい事態を招いた。鼻呼吸をいったん止めたら、唾液がどんどん溜まってきたのだ。
いけない。そう思ったときには、だらだらと唇の端からこぼれていた。私の汚らしいよだれが。あごを押さえていたケイの細長い指に、私のねばついた唾液がついた。どうしよう。止めなきゃ。怒られる。軽蔑される。そう思っているのに、どうしようもなかった。どんどんよだれは口からあふれ、抑えようがなかった。ケイのしなやかな左手は、あっという間に、私の汚い唾液まみれになってしまった。
「ねーちょっとぉ、よだれー。もー、マジで赤ちゃんじゃーん。しょーがないなー。」
べとついた自分の手を見て、ケイが薄笑いを浮かべた。
私の制服の胸元に垂れそうだった、あごの先端の唾液を、その左手でぬぐい取ってくれた。
怒ってないようだった。
怒ってはいないけど、何か別の感情がたかぶっているようだった。
私の口の中から、歯ブラシが外された。
ケイが、じっと自分の穢れた指先をみつめた。
「友達の手をこーんなにしちゃってさぁ、クミンってほんとだめな娘だよねぇ…?もうさぁ、これさぁ、更に厳しいおしおきが必要だよねえ…?」
瞳を妖しく輝かせて、彼女が言った。ぞくりと、私の背筋に震えが走った。
そのとき初めて、私は、怖いと思った。
ケイが怖い、のではなかった。
自分が怖かった。
さっきの「ぞくり」は、恐怖ではなかった。興奮と期待、だった。厳しいおしおき、それってどんなの、という期待。
絶対いやなはずなのに、されたくないはずなのに、期待するなんてめちゃくちゃだ。私の感情めちゃくちゃだ。わけがわからない。そんな自分が怖かった。
このまま続けたら、未知の感情に翻弄されて、自分がどうにかなっちゃうんじゃないか。頭がバグっちゃうんじゃないか。それが怖かったのだ。
「ケイちゃん、もう、やめて…。」
そして私は、初めてケイに抗った。何かが抑えきれなくなりそうで。
「これ以上おしおきされたら、ケイちゃんのこと、嫌いになっちゃうかも…。」
彼女の口元から、笑みが消えた。




