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月日星麗華の心霊取材  作者: 植原翠/新刊・招き猫⑤巻
第一章・路地裏の迷宮
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 窓の向こうからヒグラシの声が聞こえる。灯りの消えた部屋の中には、外の光が微かに差し込んできていた。

 室内に長くこもりきりだったせいだろう。彼女は痩せ細って肢体が骨そのものに見える。伸び切った髪を床に這わせて机に向かう姿は、まるで蜘蛛だ。


「つまり、あなた自身が呪われている、ということですか」


「厳密には私は『呪われている人間』ではないのかもしれない。もう人ではなく――この体は『呪いの器』でしかない」


 そう言った「先生」の瞳は赤く燃えていた。白目は黒く濁り、瞳孔が開いて――。




「間もなく、小鳥ヶ崎、小鳥ヶ崎です。出口は右側です。ドアから手を離して、お待ちください」


 電車内のアナウンスで、ハッと我に返る。文字の羅列から目を上げると、スマホを眺めて電車に揺られる、人々の日常があった。

 電車が止まる前に、僕は手の中の本を閉じた。明るくて四角い車両という空間が、現実に引き戻す。引き戻されたはずなのに、まだ鳥肌が引かない。汗が肌を這う。

 なんだろうか、あの深層心理に触れてくるような、繊細かつ毒々しい文章は。


 僕の腕には、コンビニの袋とずれ落ちた肩掛けの鞄が引っかかっている。僕は閉じた本を、鞄に滑らせた。箔押しの著者名が目にとまる。

 月日星麗華――ホラー小説専門の、ベストセラー作家。

 文学界に彗星の如く現れ、じわじわをファンを増やし続け、そしてこれまたいつの間にか、知らない者はモグリとまでいわれるようになった超人気作家だ。

 彼女の紡ぐ物語は、読む人を本の中に取り込むかのようにのめり込ませる。生々しい文章表現はどこか自分自身を重ねてしまい、そして自分が物語の世界に立ち尽くしているかのような――そんな感覚にさせられる。

 僕なんかホラー小説など大の苦手なのに、まさに魂を吸い取られたかのように、月日星麗華の本を手に取ってしまう。


 月日星麗華は謎に包まれた存在である。

 彼女は人形のように整った顔をした、若い女性だ。取材に応じず、私生活や人柄については全く情報がない。もちろんSNSも使っていない。極稀に行われるサイン会でその姿を人前に晒すが、口数は少ないという。

 美しいルックスとミステリアスな雰囲気も相まって、一層魅力が増す。


 電車を降りた僕は、薄暗い住宅街を駆け足した。電球が切れかけた街路灯が、アスファルトの道路を細々と照らしている。静寂の中ではコンビニの袋が擦れる音がやけに響いて聞こえる。空にはくり抜いた銀紙のような満月が貼り付けられており、夜の闇を支配していた。

 辿り着いた先は、一軒のボロアパートである。欠けて汚れた「かるがも荘」の看板を横目に、錆びついた階段を駆け上がる。上ってすぐの部屋のインターホンに、指を押し付ける。カコ、とボタンが沈む音だけして、呼び鈴は鳴らなかった。壊れたまま直さず年単位が経過しているらしく、多分、この先も直す気がない。

 鳴らないインターホンを押しても、中から反応がない。


 向こうから呼びつけてきたのだから、留守ではないだろう。僕は気持ち程度に扉をノックして、無施錠のそれを押し開けた。


「小鳩です。入りますよ」


 開けた途端、ふんわりとアルコールの匂いが漂ってくる。いつものことだ。僕は顔を顰めて、靴を脱いだ。

 玄関からすぐにキッチン、その奥にリビングの八畳ワンK。キッチンとリビングの間には扉があるが、閉められていたところは見たことがない。今ももちろん開いている。


 リビングはきれいに片付いている。仕事机と本棚と、部屋の真ん中に置かれた座卓。僕は入ってすぐ、床に倒れた女性を見つけた。

 床に広がる長い黒髪。細い体に見合わない豊かな胸が、黒いキャミソールにくっきりと山を浮かべている。一分丈スパッツから延びる脚は床に投げ出され、程よく筋肉のついた太腿で鉛筆を挟んでいる。色白な頬は赤く染まり、花びらの唇からはつうっと液が垂れていた。

 抱きまくらのように抱えているものは、一升瓶だ。床と部屋中央のローテーブルには原稿用紙が散乱し、ついでに大量の酒の空き缶も並んでいる。

 僕はため息をついて、彼女の肩をつついた。


「先生。起きてください」


「んんー……」


 唸り声とともに、長いまつげがぴくりと動く。まぶたがゆっくり持ち上がると、夜空色の瞳が覗いた。

 緩慢な動きで長い髪を引きずって起き上がり、彼女は大きな欠伸をする。


「ふわあ。ああ、よく寝た」


 腿に挟まっていた鉛筆が、床に転がる。

 腕を真上に伸ばし、彼女はその瞳を僕に向けた。


「おはよう、小鳩くん」


「夜ですけど……まあいいか。頼まれてたもの、買ってきました」


「おお、ありがとう」


 先生が少し微睡みから覚める。僕は雑然としたテーブルの上に、コンビニの袋を置いた。


「また飲んでたんですか?」


「いやー、プロットがどうもまとまらなくてね。酒でも飲まなきゃやってらんねえんだわ」


 そう言いつつ、彼女は抱えていた一升瓶をダイレクトに口に傾ける。


「飲んでもまとまらねえどころか、寝落ちしたけどね!」


 ぼさぼさ頭でダハハと笑って床を叩き、酒瓶を抱えて涎を垂らす、この人。僕はここへ来て何度幻滅したことか。僕は鞄の中からちらりと覗く、新作ホラー小説に目をやった。


「今をときめくホラー小説家、月日星麗華の実態……。世間にバレたらファンが泣きますよ」


「ははは。そう言いつつも小鳩くんは私に甘いじゃないか」


 彼女――麗華先生は、僕のげんなりした顔を笑い飛ばした。


 ホラー作家、月日星麗華。

 読者をのめり込ませて狂わせる、天才ベストセラー作家。その本人が、今、僕の目の前にいる。

 床で酒と一緒にごろごろしているこの女性。ボロアパートで気ままに暮らす、自堕落な酒豪――これが稀代の天才ホラー作家、月日星麗華の正体である。


 昼夜の感覚が鈍く、いつ会っても大抵酔っ払っている。火照った顔でゲラゲラ笑い、原稿用紙に酒をこぼしては机を叩いてまた笑う。

 外見はスタイルのいい美人な女性だが、言動がおっさんだ。この酒クズからあのガラス細工のような端正な文章が生み出されているだなんて、目の当たりにしても信じられない。

 この素性が知れ渡ったら作品のイメージが崩れるから、取材もSNSもNGなのである。


 僕は頭を切り替えて、鞄の中から本を取り出した。


「今日発売の新作、電車の中で読みました。今回もすごいです。美しくておどろおどろしくて、骨の髄まで痺れました。さすが発売後即重版の話題作ですね」


「あー、それの発売日、今日だったか」


「特にあの、怪異化した作家に対峙するシーン! ヒロインが呪われてたなんて展開、考えつきませんでした。没入してしまって、危うく駅を通り過ぎるところでした」


「はいはいどーも」


 僕が熱弁を振るっていても、先生はあまり興味なさそうだ。ぽてっと床に転がり、芋虫みたいに体を捩っている。


「あー、二日酔いきっつー。プロットどころじゃねえわ、寝よ」


「いや、それ提出期限、明日でしたよね? 書いてくださいよ」


「まあまあ、なんとかなるなる。それより小鳩くんも一緒に飲もうよ」


 一升瓶を押し付けてくる彼女に、僕は頭を抱えた。

 作品は素晴らしい。人を惹きつける魅力の塊だ。それは間違いないのだけれど……僕が憧れた月日星麗華は、こんな飲んだくれじゃない。


 僕は初めての彼女に幻滅した日を思い起こした。あの日は、先生のサイン会当日。夏の始めの、蒸し暑い日のことだった。

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