第7話 『違和感の正体』
「ふー.....これでしばらくは手出ししてこないはず」
相手としても、もう一度こんな面倒な事になるのは御免だろう。
そして拳の感覚が徐々に戻り始めたことで、同時に目をそむけたくなるような痛みも感じるようになる。
「あ、ありがとう野嶋君。助かったよ」
「危なかったね。というか怪我は?大丈夫?」
今は自分のことより彼の怪我の方が気になる。いじめは自分が駆け付けた時より前に始まっていたため、傷の一つや二つあってもおかしくはない。
「うん、大丈夫。多少足を蹴られたくらいで、重傷ではないから」
心配しないでと言わんばかりの表情で言うが彼の足を見ると、そこには絆創膏の下に見え隠れしているどす黒い傷跡が至る所にあり、つい先ほど付いたと思われる生々しい傷跡もあった。当然、腕や手にも似たような傷がある。
つまり、このようないじめは今に始まったことではなく、それもかなり前から起きていたということだ。
だが彼は深刻そうにしている自分を裕太に見せたくなかったのかもしれない。こうして大して気にしていない素振りを見せているが、実際そんな訳はないのだろう。しかし裕太もこれ以上深堀りして聞くのは返って申し訳ないと思い、しばし互いに黙り込んでいた。
と、そんな沈黙の中、今度は彼が裕太の手を見て口を開く。
「野嶋君のその手.....。そうだ、こうしてる場合じゃない。早く学校に入って手当てしてもらおう」
そう言って痛む足に構わず無理して立ち上がろうとする彼に対し、裕太は落ち着かせるように言葉を掛けた。
「ああいや、それは大丈夫。見た目ほどは痛くはないし、今戻ると色々面倒だからさ」
手当の最中に事情徴収をされながら、深刻な表情で先生方といじめっこ三人で話し合いをするのは流石に避けたい。そして何よりこの世界の仕組みが分からない以上、変に動くのは危険だろう。
「ん、そっか」
彼もそれ以上何かいうことはなく、二人の間に再び沈黙が訪れる。お互い思っていることを上手く言いだせないような、多少の気まずさが漂う。
「――ねぇ野嶋君はさ、何で僕にここまでしてくれたの?」
「え?あ、いや......それは、その......」
何の前触れもなくいきなりそんな質問をされ、つい口ごもってしまう裕太
「友達、だからだよ」
歯切れ悪くも何とかそう答えた裕太に、彼はどこか自信なさげな表情を浮かべた。
「でも......だからって、普通ここまでしないよ。一歩間違えれば自分だって大怪我しかねないのに」
「――」
確かにその通りだった。まさに自分はあの時、そうなることを恐れて彼を助けることが出来なかった。勇気を出せず、見て見ぬふりをしてしまった。
「まあでも、本当に今日はありがとう。おかげで助かったよ」
「いや全然いいよ気にしなくて。無事......ではないだろうけど、それくらいで済んでよかった」
「確かにね。あ、そうだ。別にお礼ってわけじゃないけど、今度うちにこない?話題の新作ゲーム買ったからさ、一緒にやろうよ!」
「新作ゲーム?」
「そうそう。野嶋君も知ってるでしょ?格闘ゲームなんだけど――」
そう言いそのゲームについて語り始めた彼に、裕太はどこか懐かしさを覚えた。こうなるとしばらくは口を閉じないだろう。
「あはは、じゃあ最高ダイヤまでは行ってるんだ?」
「そうそう!ただその上がさ――」
こうして久しぶりに彼と喋っていると思う。これが現実であったらどれほど良かったか、と。それと同時に、ついこの前まで気兼ねなくこんな風に自分たちは喋っていたのかと思うと、無性に胸が苦しくなる。
確かに後悔は晴れた。しかし――完全に晴れたかと聞かれれば、そうではなかった。勇気を出して過去をやり直し、理想の結果を掴み取った。清々しい気分になり達成感まで味わった。なのに、どこか悶々としている。
それはなぜか。
今この瞬間の自分と過去の自分は、同じようで全くの別人であるからだ。感じているものも、記憶も、肉体的なものも、精神的なものも、何もかもが同じようで全く違う。だからいくら今の自分が過去の自分の後悔を晴らしたとしても、それはあくまで他人が自分の代わりに晴らしてくれたようなもの。本人、つまり過去の自分が晴らさなければ意味がないのだ。そのためには、その瞬間に存在していた、その時までの自分。その時までの記憶、その時までの精神でやり直す必要がある。そうして初めて後悔はなくなるのだろう。しかし、あいにく今回のやり直しの仕組みはそうではなかった。
そう――裕太はやり直して後悔を晴らしたかったのではなく、その後悔自体を無かったことにしたかったのだ。
「ゲーム、やりかったな」
「え?」
話に夢中になっていた彼は、裕太が小さく呟いた言葉を聞き取れず聞き返してしまう。その直後、学校のチャイムが校内に響き渡った。
「あ、チャイム鳴っちゃったね。急がないと。行こう」
「あいや、ごめん。先行っててよ。僕はちょっと職員室によらないといけないから」
裕太は職員室に通ずる玄関を指さして言った。
「そっか、じゃあまたあとで!」
「うん、あとで......」
恐らくだが、これで彼とはもう二度と会えないだろう。なぜならあくまでもこれは過去の世界であるため、現実に戻らなければならないからだ。そして現実は現実で、彼はもうどこにいるのかも、何をしているのかもわからない。それなのに、はたしてこんな簡単に別れてしまっていいのだろうか。何かがそう自分に訴えかけている。もう行ってしまうぞ、と。伝えたいことがあるのではないか。ここで言わなければそれこそ後悔してもしきれないぞ、と。
こうしている間にも動悸が激しくなっていくのが分かる。何か伝えたい。分かっているはずだ。最後に何か言いたいことがある。自分の後悔、あの時の懺悔。いや、そんなことではない――
「あ、あのさ!」
「ん?何か――」
言ったか。恐らくそう言いかけた彼を、裕太は思い切り抱きしめていた。身体が勝手に動いていた。
目に涙が浮かんでくる。もう二度と彼には会えないかもしれないからこそ、この理想の世界に留まりたくなる。手放したくない。この世界で生きていきたい。もう一度一緒に笑えたら。他愛もない話で盛り上がって、また前みたいに幸せを感じられたら。
やり直したいことはまだ沢山あるが、それをするのも簡単ではないのだ。そう上手くやり直せるなら最初から後悔なんてしない。一つ一つのトラウマと向き合うのにどれほどの勇気が必要か。それに今回はたまたま上手くいっただけで、次は理不尽な目にあって何回やり直しても上手くいかず、更に苦しむかもしれない。
しかし――そうやって恐れて何も行動せず目を背け続けるのが、実は一番辛いことだというのも彼は知っていた。だが、出来るならこのままずっとここにいたい。ここから離れたくない。せっかく、ようやく掴んだこの世界を手放し、やり直すためにまたこんな過去を繰り返し同じような感情に苛まれるのは御免だ。自分はそこまでして過去をやり直したいのか。今やりたいことは、この世界に留まることだ。いやそれは本当に自分がしたいことなのか。一体自分はどうすればいいのだ。何がしたいのか。この先もいちいちこんな感情になるのだろうか。
そんな次々と浮かぶ思考と感情の波に飲み込まれ、もはや自分で自分がよく分からなくなってくる。もういっそ、このまま永遠に時が止まってしまえばいいなんて――
「ねぇ、顔を上げて」
「ぁ......」
その声音は、あまりにも優しく、慈悲に満ちているように感じた。それから彼はこう言葉を続けた。
「僕はさ、この学校に入学した当初、なぜだかわからないけど、君に不思議な魅力を感じたんだ。きっとこの人と話せたら楽しいだろうなって。だからあの時話しかけて本当に良かったと思ってるし、実際にそれは間違ってなかった」
「はは......こんな僕に――」
「君だからだよ。自分では気付いてないかもしれないけど、君には良いところが沢山ある」
はたしてそんなものがあるのだろうか。しかし、彼が言うのだから本当にあるのかもしれない。だが今そう言われたからと言って、すぐに自分で納得できるようなことでもないだろう。ならどうすれば自覚できるようになるのか。自己分析だとしても、おそらく当分は無理だ。
「でね、僕には君が今何をしたいのか、何に直面しているのか、それは正直言って分からない。けど、何かに思い悩んでいるということはわかる。だからそういう時は、自分の心に聞いてみるといいと思う。本当にやりたいことは何なのか。何も考えなくていい、しがらみとか他人の評価とか気にしないなら、本当は何がやりたい?そしてそのやりたいことは、君なら絶対に出来ると思う。だって、僕が君を信じているから。意識は人を変えるんだよ」
「意識は人を変える?」
「そう。僕は君なら絶対に上手くいくって信じてるからこそ、僕の現実では君は上手くいくんだ。でもそれと同時に、君自身も自分を信じないとダメ。だって自分のことすら信じられない人が、自分の作り出す現実で上手くいくわけなんてないでしょ?僕の現実では君が上手くいくことは確定してる。でも、君自身の現実では?僕はそっちでも上手くいってほしいと思ってるけど、こればっかりは自分を信じて行動しないと上手くはいかないんだ。多分今の君には、僕の言っているこの話はよく分からないと思う。けど、いずれ必ず分かる日が来るよ」
自分を信じて行動する。何も考えなければ、自分は何をやりたいのか。
ならば、果たして今の自分は本当に、まだ残っているいくつもの過去をやり直したいのだろうか。目の前の理想を捨ててまで。正直に言えば、今の自分は最も後悔した過去をやり直せて、他のやり直したい過去が霞んで見えてしまっている。だがきっと、仮にこのまま問題なくこの世界で生き続けるとして、今感じている自分の心の隅にある小さな違和感。それが日々を積み重ねていくうちにどんどん大きくなり、やがて無視できないほどの明確な負の感情に化けるのかもしれない。別にやり直さなくてもいいような気がするというこれは、一時的な感情に過ぎないのかもしれない。
そう考えると、やはり自分は少しでも後悔を晴らしたいのだろう。たとえそれが完全に無くならないとしても。これが自分の本心のように思える。
「そっか......。確かに君の言う通り、よく分からないけど......でもどこかそういうものかもしれないって、なんとなくだけど思える。なんか、不思議だね。というか君って普段からそんな哲学みたいなこと考えてるの?」
「ははは、まあたまにね。どう?ちょっとは元気出た?」
「うん。まあ、ちょっとね」
確かに、さっきよりは少し冷静に、前向きに物事を見られるようになった気がする。
「それはよかった。じゃあ僕は先に戻るから、また!」
そう言うと彼は、急ぎ早に昇降口へと向かって行った。
「うん、ありがとう。本当に」
気付けば裕太は、彼の言葉に随分と元気付けられていた。彼と話すと不思議と前向きになれて、なんだか自信がついたような感じがする。ただきっとこの先、自分はまた様々な困難や葛藤を抱えることになるのだろう。そして当然それに悩み、苦しむこともあるだろう。
しかし彼が教えてくれた、自分を信じて今一番本気でやりたいことをやる。そうすれば、たとえそこにどれほどの困難が待ち受けていようと必ず乗り越えられる。そう根拠はなくとも思えた。
そして裕太は、一度ならず二度までも自分に手を差し伸べ救ってくれた彼をもう一度心に思い浮かべ、その思い出と共に深く胸に刻んだのだった。