第2話 『抑圧からの旅立ち』
「今日はなんだか、いつにも増して一段と気分が重いな……」
自分の家に着いたところで、想像以上に気分が落ち込んでいることに気が付く。元々の後悔、そして先ほどの予想外のアクシデントが彼の精神を酷く刺激したのだろう。日々自分の中で負の感情が少しづつ強くなっていることも何となく感じていた。
今日は少し早めに寝よう。そう思い、彼は残りの睡眠薬を全て口に頬張り、コンビニで買った水と一緒に飲み干した。だが途中で喉に引っかかり、少しばかり机に吐き出してしまう。強力なため、すぐに意識が朦朧としてくる。彼は吐き出したそれらを手さぐりに拾い上げ、乱暴にかみ砕き水を飲んだところで、意識を失った――。
「あーあ、お前、そんな奴だったんだな」 うるさい……「ふざけやがって!何で止めなかった!!」「自分が責任を負いたくないから?傷つくのが怖かった?話にならないわね」 うるさい……「そうやって物事と向き合わずに逃げることこそ罪だろう!」「好きだったなら守ってみせろよ!!」 うるさいうるさい……「あんたはそうやって、自分は知りません、何も見てませんって言ってこれから先も生きていけばいいのよ」 だまれ……「どうせお前には何もないんだからさ」 だまれって……「しょーもないんだよ、お前の人生」「くだらねぇ、ゴミだな」「ああ、ゴミ」「おいおいゴミに失礼だろ、それ以下だぜ」 もうやめろ……「なあお前、生きてて楽しいか?」 もうやめてくれ……「犯罪者が」「お前なんて生まれてこなければよかったのに」 頼むから……「だからもう、死んじゃえば?」やめろッッッ!!
「――ああッッッ!!!!!はぁ……はぁ……はぁ……だ、だめだ……」
もう、耐えられない。もうダメだ――限界だ。
彼は重たい頭をゆっくりと動かし時計を確認する。秒針が縦に真っ直ぐ伸びていることから、おそらく午後六時といったところだろう。この時間なら目の前のマンションの屋上まではエレベーターで行けるはず。
彼は動きの鈍い身体にムチを打って立ち上がると、よろけながら階段を下りなんとか家を出た。そしてマンションの一階の比較的低い柵をなんとかよじ登り、通路に倒れ落ちる。
「はぁ……はぁ……」
意識が朦朧とする中、彼は何とか這ってエレベーターまでたどり着き、手すりに体重を預け何とか立ち上がり、ボタンを押す。
「はぁ……はぁ……くっ……!」
数秒後、到着したエレベーターにやっとの思いで乗り込んだ。
「まずい……本当に、まずい……」
目からは涙か汗かよく分からない液体が溢れ出て、何気なく目を向けた腕にはなんと沢山の蛆虫が湧いていた。
「うわッ!?なんだこれッッッ!!」
「フフ。いい気味」
「――え?」
見るといつの間にかエレベーターの中に、見知らぬ女の子が立っていた。十歳前後だろうか、ツインテールに可愛らしいワンピースを着こなしている。
「全部お前のせいだ」
「ッ!!」
今度は四十代くらいの男が立っている。いつの間に乗ったのだろうか。
「逃げるな」
今度は三十代の主婦のような見た目をした女性が。
「や、やめろ!!」
「楽にはさせない」
自分の通ってる高校の制服を着た生徒まで。
「もうやめろッ!僕に近寄るなッ!!」
彼らの圧に押しつぶされそうになる中、エレベーターが屋上に到着する。裕太は開き始めた扉に勢いよく突進し、屋上に転がり出た。十階建てということもあり、風は強めに吹いている。
「どこへ行く」「こっちへこい」「お前は自分のしたことが分かっていない」「痛めつけてやる」「殺してやる」
後ろを振り返ると、その他大勢の人間が生気を失った目で、そんな夢で聞いたようなセリフをブツブツと吐きながらゆっくりと殺意をもって近づいてくる。
屋上の端まで行ったところで下を眺めると、そこには辺り一面に闇が広がっており、明かり一つ見当たらない。こうしていると、まるでどこまでも続く底なしの深淵に飲み込まれていくような、不気味な感覚に陥りそうになる。
そう――ここが彼の終着点である。
睡眠薬も先程の分で丁度使い切った。後ろからは相変わらず大勢の人間がブツブツと恐ろしいことを呟きながら、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめるように近づいてきている。
「思えば、酷い人生だったな」
生まれ育った環境は一般的とは程遠く、家族から愛を感じたことはない。小中は友達なんておらず学校も大して行っていなかった。そんな中唯一上手くいっていた、幸せだと心から思えた高校でのあの短期間に、自分は取り返しのつかないことをしてしまった。そこから始まる負の連鎖。
「――もう、終わりにしたい」
一歩、彼は目の前の深淵に向かって歩き出す。
「僕が生きてたって、何も良いことはないんだ」
また一歩、闇に近づく。
「悲しんでくれる人もいない」
また一歩、脚を動かす。
「――――」
とうとう深淵に飛び込む、その時が来たのだ。楽になれる。解放される。この辛い世界から、消えていなくなれる。そう思うと、心なしか自身の腕に生えた蛆虫もここぞとばかりに身体をくねらせ、今か今かとそれを待ち望んでいるようにも見えた。もはや大勢の声や周りの音すら、今の彼には聞こえなくなっていた。
「――――」
最後の一歩を踏みしめた。そしてそれは、深い、深い深淵への第一歩となった。
彼はその瞬間――かすかな違和感を覚えていた。普通だったら気が付かない、そんな感覚。しかし着実に迫る死という現実。それが彼の第六感をその瞬間だけ覚醒させていたのかもしれない。かすかな違和感の正体は、脚を踏み出した先に、地面がなかったこと、それを脚が感じ取ったわけではない。
そう――最後の最後まで自分は後悔し続けたという、更なる後悔がここで生まれていることに気が付いたのだ。
こんな状況でもまだやり直したいと思える自分に自分で呆れてしまう。しかしそんな想いも一瞬にして消え、あとには翼が生えているような、それに近い感覚が彼の背中に生じていた。
きっとこの闇の中ならどこまでもどこまでも、飛んでいけるような気がした――。