第13話 『喪失』
時は裕太が小学生だった頃まで遡る。
場所は誰よりも見慣れているであろう自分の家の前。だが一つ違う点を挙げるとするならば、記憶はそのままでありながら、自分は小学生の頃の姿になっているということ。
「――母さん」
裕太は声にならないような声で呟いた。
閉まっている扉の奥からは微かにテレビの音が聞こえてくる。この光景には何となく見覚えがあった。何ら変わらない当時の日常。自分はいつものように学校から帰り、入れ替えのような形で今度は母親が仕事に行く。
裕太は持っていたカギをドアノブに差し込もうとするが、手が止まる。
「くっ......」
カギを差し込めば音が鳴り、母親に自分が帰ってきたことが知られてしまう。それでいい、それを望んでいる。そうしないとここに来た意味がない。なのにその手は震え思うように動かない。
「なんで......どうしてだよ!やるんだよここで!ずっと嫌だっただろ、ずっと!それを断ち切るためにここに来たんだろ!!もう限界なんだろ僕は!!」
裕太は自分を奮い立たせるように手を膝に叩きつけた。そして、カギを差し込み扉を開けた。
「――」
玄関に入ると赤いハイヒールの靴が一足地面に置かれていた。
このまま廊下を奥まで進むと母親の部屋があり、おそらくそこに彼女はいるだろう。
裕太は無言でそこへ向かい、扉の前に立った。
「母さん、ただいま」
中から返事はない。テレビの音で聞こえていないだけなのか、敢えて何も言わないのか。
この何とも言えない嫌な空気に動悸を感じながらも、意を決して裕太は扉をノックし、返事を待たずに開けた。
「――おかえり」
そこにはまさに頭の中の記憶と同じ母親がいた。
「あ......うん、ただいま」
母親はいきなり入ってきた裕太に少し驚いた表情を見せるが、すぐに目の前にある化粧台へと向き直った。
ご飯は?とも、学校はどうだった?とも、何も聞かない。ただ二人の間にはテレビの音だけが流れていた。
「ねえ、母さん」
先に沈黙を破ったのは裕太だった。
「何?」
母親は化粧台から視線を移すことなく答える。
「母さんはさ――僕のことどう思ってるの?」
あらかじめ言おうとしていた言葉ではない、その瞬間に浮かび上がってきたもの。
「......どうって、何よ急に」
「いや、答えてほしいんだよ」
そう言われた母親は視線を目の前の鏡越しに裕太に向けた。
「大切に思ってるわよ、もちろん」
「そう......」
はたして本当にそうだろうか?確かに父親もおらず、こんな環境で毎夜仕事に勤しみ特に不自由することのない生活を自分にさせてくれた母親を見ていると、本当に大切に思っていてくれたのだろう。でも、それなら一度くらい頭を撫でてくれても良かったのではないか。抱きしめてくれても良かったのではないか。母親と二人暮らしになって以来、そんなことを母親にされた記憶は一度もない。
「ねえ、たまにはさ、一緒にご飯食べない?」
そんな言葉が口から出かかって、止まる。今までに何度も似たようなことを母親に言ってきた。今日は?今日は?と。だがその度に同じことを返される。
「仕事があるから、ごめんね」
そう言われてしまったら、黙るしかない。本当は駄々をこねたかった。でも、それで母親に嫌われたらと思うと、怖くてできなかった。
断片的な記憶でしかないが、また父さんと一緒に暮らしてた頃のような母さんに会いたい。あの頃のように楽しくおしゃべりをして、一緒に笑いたい。
「ねえ、母さん。僕、母さんと一緒にご飯が食べたい」
「ん、ごめんね。今日も仕事なのよ。コンビニで何か買って食べて」
ここで諦めるのは簡単だ。今までもそうしてきた。何ら前と変わらずそれを受け入れる、それだけでいい。
でも――だったらこの動悸は何だ。口が乾いていく感覚。心が締め付けられるような苦しさ。
「嫌だよ」
「――え?」
頭で言葉を考えるよりも先に、口が勝手に動いていた。
一瞬何を言われたのか分からなかったのだろう。それまで化粧をしていた母親が初めて手を止め裕太を見た。
「え......嫌?」
「嫌」
困惑した母親をまっすぐ捉えて裕太ははっきりと言った。
「あ......そう。でも、お母さんは仕事だから」
そう言い再び化粧台の方に身体を向けようとする母親。
「ねえ、なんでいつもそうなの?たまには一緒に食べてくれてもいいじゃん。そんなに仕事が忙しい?」
その声は少し震えていたかもしれない。
「ええ、忙しいわよ。とても」
「でも......それでも!それでも僕は母さんと一緒に食べたい!!」
裕太は大声で、半ば怒鳴るようにしてそう言っていた。腹の底にため込んでいた思いが、ついに爆発した。裕太は母親の反応を待たず言葉を続ける。
「確かに、母さんが僕のために毎夜頑張って働いてくれてるのは知ってる!だけど!!僕はあの頃みたいな、父さんと一緒に暮らしていた時みたいな、あったかい気持ちをもう一度感じたいんだよ!!」
裕太の目から涙が零れ落ちる。そうだ、やっと言えた。ただただ、かつて味わった幸せを、裕太はもう一度味わいたかっただけだった。それだけのこと。でも裕太にとってそれは自分の性格を変えてしまうくらい大きな出来事だった。
間違いなく、これで世界は変わった。心の鬱憤が晴れた。例え母親に断られても、嫌われても、結果がどうなっても、今の自分ならすべてを受け入れられるような気がした。後悔はない。
しかし――、
「あー、うるッさいわね......」
母親はそう言い、鬱陶しいと言わんばかりの表情で裕太から視線を逸らした。
ドクン、ドクンと心臓の嫌な音が聞こえてくる。明らかに初めて見た母親の普段とは違う雰囲気に全身が強張った。
「はあ......。だから私はこの子を引き取るのはごめんだって言ったのよ」
「え......」
「ほら、もう分かったでしょ。お母さんは仕事で忙しいの。そろそろ行かなくちゃいけないから」
そう言い化粧台から立ち上がると裕太の横を通り過ぎ部屋を出ようとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「あーもう!!うるさいって言ってるでしょうが!!」
裕太は反射的に母親の手を掴むが、乱暴に振り払われてしまう。
「どうして......」
はぁ、とため息を吐き髪をかき上げた母親の表情は、今まで裕太が見てきた母親の表情とは全くの別人のように歪んでいた。
「しつこいのよあんたは!毎回毎回、ことあるごとに構って構ってって。時間が無いものは無いの!じゃあ何?お母さんに仕事辞めろっていうの!?」
「いや、そうじゃなくて...」
「そうじゃないなら黙ってて!お母さんはあんたのために働いてるのよ!毎日毎日......私だって好きに生きたいのに」
「母さん......」
「でも、それを我慢してるわけ!あんたがいるからよ!!」
裕太の当時言えなかった本音と、母親の予想だにしなかった本音。それが時間を超えて衝突する。
母親の激昂に裕太は言葉が出ない。何を言うべきかも、言いたいことも浮かばない。ただ今この瞬間感じるのは、あまりにも酷く残酷で、現実とは思えない、ある意味での現実。
気付けば母親の肩は上下に揺れ動き、呼吸が荒くなっていた。
「はあ......。悪いけど、今日は遅くなるから」
そう言い残し、玄関の扉が重苦しく閉まる。
裕太はただその扉を呆然と眺めることしかできなかった。




