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午後4時。
楓が家庭の用事があると一時間ほど早く先に帰り、その後も一人ぼっちで執筆作業に没頭し、とうとう自分の分のタスクを終了させた、その約10分後。
わたしは登下校に使用している学校の最寄り駅に向かいながらとある思い出に浸っていた。
初恋の思い出だ。
もちろん相手は一個下の後輩、八原桟。
わたしと同じで部活か何かからの帰宅途中なのだろう。周囲に鳥鬼高校の生徒の姿がちらちら目に入る。だが、その彼らの視線も憚らず、笑顔で、わたしは何度も繰り返したその思い出を頭の中で巡らせる。
あれは、桟君たち一年生が鳥鬼高校に入学してきてから10日くらい経った、雨が沛然と降り注ぐ昼下がりのことだった。
わたしは保健室のソファに深く腰掛け、備え付けのテーブルの上に置かれた普段読みもしない大人用のファッション雑誌を見るともなしに眺めていた。
別に授業をさぼって読んでいたのではない。
ほんの10分前。元素周期表の下の方を暗記する方がまだましなのではないかと思えるくらい、将来何の役に立つのかが定かではないバレーボールの授業を受けるべく、体操服を着て体育館に向かっていたのだが、その途中、雨の影響か廊下が濡れており、それに足を滑らせ思いっきりタイル仕上げの渡り廊下に膝をごっつんこさせてしまった。
見ると血が出ており、さすがにバレーボールの授業を受ける気力も起きなかったので同じく体育館に向かっていた楓に保健室に行くと伝え、保健室に向かい、しかし、来てみると肝心の保健室の先生がいなかったので、先生を待つべく、ファッション雑誌を流し読みしていた、というわけである。重要なことなのでもう一度言うが決してさぼりではない。
冷静になってみると歩く分にはそこまで支障はなかったので、先生を呼びに行くという手段も取れなかったということはないのだが、そこはそれ。怪我人が冷静な判断を行えなかったということでどうかご勘弁いただきたい。
「へー。ふーん」
ファッションのファの字、いや、フの字すら知りもしないのに、雑誌を眺めながら訳知り顔でふんふんと独り言ちるわたし。
もし誰かに見られていたら恥ずかしさで発狂しそうなレベルだったが、幸いなことに保健室には誰もいなかったので安心してふざけられた。
「ふーん……お、これはこれは」
そんな風に数ページほどぱらぱらめくっていたのだが、雑誌の後半に差し掛かってきた当たりで、突如、きわどい水着を着た女性の写真がどアップで映し出された。
もはや裸ではないかと言えるくらいに布面積の低いピンクの三角ビキニを纏った女性が、その豊かな胸とお尻を強調するように頬杖をついて嫣然とした表情で臥せっている。
その何とも扇情的な顔は、本当にわたしと同じ人類なのだろうかと疑惑の念を抱かずにはいられない。
「おお……OH……」
……さすがに見ているだけで恥ずかしかった。
普段ホラー映画やミステリー、よくて少女漫画しか見ないわたしにとってこの写真はあまりに強烈過ぎる。
もし、こんな水着をわたしが着たらと思うと……
と、そんなことを考えていた矢先だった。
「失礼します」
「ふぁい⁉」
やおら、通学鞄を持った元気な男の子の声と体が扉を開けて、保健室に入ってきた。
わたしはもはや自分が誰なのか分からなくなるくらいの奇声を上げ、とっさに持っていた
ファッション雑誌をソファとお尻の間に隠した。
「な、な、何の御用でしょうか⁉そこの一年坊主!」
顔を真っ赤にし、丁寧語と悪口のハイブリッドを初対面の男の子にかますわたし。
ちなみに咄嗟に一年坊主と言ったが、それは別にわたしが彼のことを知っていたとかそういうわけではなく、鳥鬼高校では使う上履きの色が学年によって異なる。それで彼を一年生だと断定できた。一応、それに気が付くくらいには頭は回っていたというべきか。いや回転しすぎておかしくなってしまっていたと言う方が正しい。
そしてその一年坊主といえば、そんなわたしの奇行に特に驚くことももせず、微笑を湛え、ゆっくりとわたしが座るソファへと向かってくる。ソファに座るわたしを見下ろし、どこかおどけた口調で話しかけてきた。
「一年坊主はひどすぎませんかね」
そう言って元々浮かべていた微笑をさらに深める彼。目を緩やかに細め、口角を吊り上げる優しい笑みだ。その笑みと口調のおかげか、わたしはようやくそこで彼の全体を認識することができた。
ハーフなのかそれとも染めているのか短めにセットされた金髪。一年生ながらかなり着崩された制服。しかし、その一見するとヤンキーのような服装とは裏腹に、体格はやや細身で身長もそれなり。首の上には、中学二年生なのではと錯覚してしまうくらいの稚い童顔が乗っかっている。
つまり総括すると、
割とイケメンだ……。
……いやいやいや、何ときめこうとしてんだわたし!
わたしは顔を二度ほどぶんぶんと振って、先ほどの失態をなかったことにするように、「ごほん」と、一度わざとせき込み、そのアンバランスな容姿をした男の子の黒目と目を合わしてつんと澄ました。
「わ、わたし、上下関係には厳しいの」
わたしは、たどたどしくも、自分の長く鬱陶しい黒髪をなるべく優雅に見えるようにはらって言った。
ツンデレキャラやお嬢様キャラがよくやるあれである。
アンバランス少年はそんなわたしを見てどう思ったのか、張り付いている微笑を深めた。
「そうですか。それはすいませんでした。以後気を付けます」
何がすいませんなのか分からないが、彼はそう言って、素直にわたしよりずっと優雅にお辞
儀して見せる。まるで一流の執事のように慇懃な一揖だった。
なんだ。格好の割に結構話せる一年坊主じゃないか。
「ふん。分かればいいのよ」
「しかし、『ふぁい⁉』はないかと思います、女王様」
やっぱり無礼な執事だった。慇懃無礼な執事だった。
「ハハッ」
彼はついに笑いを抑えきれなくなったのか、羞恥で顔を真っ赤に染めるわたしを見ながら腹を抱えて笑い出した。この野郎、やっぱりからかってやがったな。
「ところで先輩」
ひとしきり笑い終えたのか、彼はようやく笑いを引っ込めた。そして、何も言い返せず赤くなっていただけだったわたしを見てそう呼びかけてくる。顔にはさっきまでの好青年を思わせる微笑が戻っていた。
「何よ」
「どうしてこんな時間にこんなところにいるんですか?」
「そ」
それはこっちのセリフだこの腹黒野郎、と言いかけた。というか少し漏れてしまったが、それを完全には口には出さずにとどめた。どうせ彼のような雰囲気の男が保健室に来るときは、さぼりと相場が決まっているからだ。間違いない。わたしは詳しいんだ。
だからわたしはちょっと考えて、さっきまでの仕返しも込めて別のことを呟くことにした。
顔は得意気に、しかし口調は皮肉気に。くらいやがれ。
「わたしは怪我人なの、あなたと違ってね」
腕を組んでせせら笑うようにわたしは言った。ふふん、言ってやったぜ。心の中で、かの有名なラオウ様往生シーンのようなガッツポーズを決めるわたし。言った後にどや顔まで決めてしまったので、ちょっといたたまれない気分になったが、まあ、そこはそれ。彼が悔しそうな表情をしているのならなんでもいい。
と、そう思ったのだが、しかし、わたしのそんな予想とは裏腹に、本人は悔しそうな表情も、さりとてさっきまで仮面のように張り付いていたアルカイックスマイルも浮かべてはいなかった。
見ると首をきょとんと傾げているだけである。
え、なんで。
「先輩、もしかして僕のことさぼりだと思ってます?」
そう不思議に思っていると、彼はそのやけに色素の薄い唇でわたしに問いかけてきた。
「え、違うの?」
即座に聞き返すわたし。ヤンキーが保健室ですることなんてさぼり以外あるのだろうか。
「違いますよ、もう。皆俺が何かするとヤンキーがどうとか言うんですから……」
彼はそう前置きすると、一息ついて、縷々として自分が保健室にやってきた理由を話し始めた。
「30分ほど前ですかね……電車に乗ろうとしたら駅前のバス乗り場近くで妊婦さんが倒れ
てたんです。思わず駆け寄って、大丈夫ですかって聞いても返事がなかったので、急いでかついで近くの病院に連れて行きました。それで遅れたんです。ヤンキーみたいな格好になってるのも妊婦さんを担ぐときに服装が乱れてて、それを直すのを忘れてただけですよ」
「そ、そうだったんだ……」
わたしは彼の話を途中からほとんど聞くことができなかった。あまりの事実に絶句して彼の声が耳を通らなくなっていたからである。
『妊婦さん、担いで連れて行った、病院に』。なるほど。もしそれが本当だとするならば、わたしはなんと愚かだったのだろう。勝手に彼を見た目だけで判断してあまつさえ彼を馬鹿にしたような発言もしてしまった。
……わたしは心の中で某銀行ドラマの名シーン並みの土下座を試みた。あまりにも鮮やかすぎる土下座だったので記憶に焼き付いていたのだ。
しかし、さすがに現実でそれをするのはわたしのちんけなプライドが許さない。誰にだって恥や外聞はあるのである。なので、わたしは表情を一切崩すことなく、謝罪とは全く別のことを口にした。面の皮は昔から厚い。
「というか、あなたもしかして弥生中学校出身なの?」
弥生中学というのは、わたしの母校にあたる中学校だ。
弥生町は隣町に古草町というのがあり、その町から先に住んでいる中学生は基本的に春維高校という高校へ、弥生町に住む中学生は電車で4駅ほどの鳥鬼高校へ進むことになる。
だから電車を使って通っているということはそれ即ち弥生町出身者ということになるのである。
「ええ、そうですよ。もしかして先輩もそうなんですか?」
「ええ、そうよ。でも君みたいなヤンキーは見た覚えがないわね。君、名前は?」
「だからヤンキーじゃないですってば……。名前は八原桟っていいます」
「そう。私は園本愛美っていうのよろしくね。ヤンキー君」
「だから……」
――――
そうしてわたしは八原桟を好きになった。
……いや、この思い出だけではどこに彼のことが好きになる要素があったのか分からないが、しかし、これはあくまで初対面の思い出である。
この後、私達は意外にも互いの趣味があっていることや、不思議と話が弾むことが分かり、私が彼をミステリー研究部に誘ったことで更に仲が深まった。そして次第に私は彼を好きになった。そんな当たり前の筋書きが私の初恋の思い出である(現実世界の恋愛なんてたいていこんなものだ)。
けど、わたしはこの思い出を思い出す度、いつも幸せな気分になる。
胸が温かくなって心と体が、羽が生えたように軽くなる。
だからわたしは今日も幸せな気分で最寄り駅の電車に乗り込む。
わたしの幸せを乗せた電車はのっそりと動き始めた。
この先にどんな不幸が待ち受けているとも知らずに。
御一読ありがとうございました。