悪魔的恋愛
「試しに言ってみてよ」
これは悪魔に囁かれた気の迷い。
自分で自分を苦しめることになる、呪いの呪文。
そうとは気付かずにただ面白半分で口にした私を、もしもあの時に戻れるのなら、張り倒してやりたい。
──半年前。
カラカラと音を立てながら教室のドアが開き、机に突っ伏していた私が顔を上げると、「なんだ、先客がいたのか」と残念そうな声が飛んできた。
校舎に射し込む春の柔らかな夕陽に染められたその人物の顔には、声色とは裏腹におもちゃを見つけた子犬のような表情が浮かんでいる。
「さっきまでここで授業受けてたんだもん。あんたの方こそ、何しに来たのよ?」
つい荒っぽい口調になってしまうことに意味はない。
小学校から大学までたまたま一緒だったから、今さら取り繕う必要がないというだけ。
こいつは私にとって、弟みたいな存在。いや、ただの腐れ縁か。
「実雪ちゃんにサークル終わるの待ってて、ってお願いされちゃってさ。この後、二人で飲みに行こうって。あーあ。ここなら誰もいないと思ったのにな」
確かにこの教室は学部棟の端にポツンと位置しているだけのことはあって、授業でもなければまず来ようとは思わない。渡り廊下と中途半端な段数の階段を上って下りて、やっと辿り着く遠さなのだ。
「で、彩矢は何してるの?」
……言えない。あまりにつまらない授業に眠気を我慢できなかったなんて。
こいつに言ったら、絶対バカにされる。
「なんだっていいでしょ。そんなことより、その手に持った缶コーヒーを飲みながら、食堂で実雪を待てば? 私は一人でいたいんだから」
あからさまに追い払おうとしているのに、ニコニコと人懐っこそうな笑顔で近寄ってくるそいつは、こともあろうか私の一つ前の席に座った。それも、ご丁寧に後ろ向きで。
コトン、と缶コーヒーが机に置かれる。
これは、本格的に居座る気だな。
いいや。もう無視しちゃえ。
面倒くさくなって再び机に突っ伏そうとした私の頭に、突然掌の感触を感じた。おかげで頭は下がるタイミングを失い、至近距離で向き合う羽目に陥っている。
「俺、ヒマな訳。話し相手になってよ」
私が頷くことを微塵も疑っていないであろう、満面の笑み。
これは、あれだ。犬が飼い主に向かって全力で尻尾を振っている感じ。
そんなことを思ったら、つい頬が緩んでしまった。
「もう。啓太は相変わらず子犬みたいだね」
子どもっぽいところも含めて、というのは声に出さずに我慢した。
「そういう彩矢だって、小動物みたいだけどな」
ポンポンと、啓太の手が私の頭に二度触れ、そっと離れていく。
「っていうか、啓太って実雪と付き合ってたの? 実雪ってば、何にも教えてくれないんだから」
去年、つまり大学二年の春、選択授業が同じになり初めて会話を交した実雪とは、あっという間に意気投合した。いろいろとお互いの話をしているうちに、実雪は大学の入学オリエンテーションで啓太に一目惚れをしたと教えてくれた。
そして私が啓太と小学校からの知り合いだと知るやいなや、「協力して!」と必死に手を合わせてきたのだ。それはもう、思わず応援も協力も全力でしたくなるような愛らしい様子で。
「彩矢はいろいろと頑張ってたもんな。俺に実雪ちゃんの連絡先を送り付けてきたり、無理やり四人でのWデートを計画したり。あのときは、好きでもないやつとペアを組まされた大輝が、かわいそうでしかたなかったよ」
意地悪そうに笑う啓太は、とても楽しそうだ。
「そんなこと言っても、実雪と付き合えたならいいじゃん。私に感謝してよね。そうだ! キューピッド役を務め上げたご褒美に、どうやって告ったのか教えてよ」
以前から実雪は、自分からは告らないとよく言っていた。最後の言葉は相手に言わせる、と。モテるあの子らしいと思う。それでいて変なところで恥ずかしがり屋だったり古風なところもあって、同性の私でも可愛いと感じてしまう、本当に魅力的な女の子なのだ。
その実雪に想いを寄せられているのだから、いくら精神年齢小学生の啓太でも、さすがにきちんと言葉にしたはずだと思いきや……。
「なんで俺から告った前提なんだよ?」
不服そうな啓太につい「え?」と首を傾げてしまった。
もしかして実雪の方から告ったの? それってすごいことなんじゃないの!?
でもさすがに、このあたりの実雪の思惑を勝手に教える訳にはいかない。
「えーと、なんでって……。啓太が告るとか、おもしろいなあ、って」
咄嗟に出たごまかしだったけど、考えてみたら興味深いような気がしてきた。だってこの啓太だよ。どんな顔して「好きだ」とか「付き合って」とか言うのよ。ウケる。
それでいったら、実雪と二人きりでいるときの啓太も想像できないけど。
「なんか俺、失礼なこと言われてない? でもまあ、あながち間違いでもないかも。俺、自分から告ったことないからさ」
うわっ。何このモテます発言。
実際モテるから、なお腹立たしい!
まったく、どうして実雪も他の人たちも、こんなやつが好きなんだろう。
確かに顔はそこそこ整ってると思うけど、中身はガキだし、すぐ意地悪言ってくるし、マイペースだし。
私は絶対ごめんだ。
よく分からない悔しさが込み上げてきて、私の悪戯心に火が付いた。
「じゃあさ……」
私が何を言い出すのかと、啓太がワクワクした目でこっちを見る。きっとまた、どんな意地悪な返しをしようかと考えているに違いない。
でも残念。私にはあんたを困らせる秘策があるんだから。
「試しに言ってみてよ」
「何を?」
キョトンとした顔は、何を言われているのか、何を言わされようとしているのか本気で分からないみたいだ。
さあ、困ってしまえ!
「初めての告白ってやつ。実雪だって、きっと啓太から気持ちを伝えてもらうの待ってるよ。だから、練習だと思ってさ」
元々クリっとした啓太の目が、さらに丸くなった。
どうだ! さすがに無理でしょ!
私は心の中でニヤニヤしていた。
だって、これは私の完全勝利。大切な告白を、ましてや生まれて初めての経験を、私なんかに向けてやるなんてもったいなさすぎるもん。
案の定、啓太は唇を噛みしめて俯いた。
そろそろ許してあげよう。別に本気でいじめたい訳じゃないから。それに、実雪にも悪い気がするし。
そう思って「冗談だよ」と言いかけた瞬間、「彩矢」と名前を呼ばれた。
その声が、いつものおちゃらけた感じとは違って、なんだか切実な気がして。
私は息を呑んだ。
開けっ放しにしていた窓から風が吹き込み、目の前で柔らかそうな髪がふわりと揺れる。
再び交差する視線。
さっきよりも傾いた夕陽が啓太の髪を染めて、迂闊にも綺麗だと思ってしまう。
「彩矢。好きだよ。ずっと好きだった。俺と付き合ってよ」
──ドキン──。
心臓が変な音を立てた。
啓太なのに。
啓太のくせに。
何も言えずに見つめ合っていたのは数秒だったかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
「なんてな。どう? けっこうイケるでしょ、俺」
すっかりいつもの調子に戻った啓太が、止まっていた教室内の空気を動かした。
そしてようやく私の頭も働くことを思い出す。
「普通にできるじゃん。つまらないなあ」
何ら変わりなく軽口を叩けたことに、ほっと胸をなでおろした。
さっきの心臓の音は、予想外の出来事に動揺しただけ。
そう思っていたのに。
あれから半年が経った今、季節は秋。
「あー、もうヤバいって!」
頭から布団をかぶり、ひとりベッドの中でもだえる私は、頭の中で鮮明にリプレイされる啓太の告白(練習)と戦っていた。
この半年間で、何度同じことを繰り返しているだろう。
隙さえあれば甦る啓太の切なげな表情に乗せた言葉が、私を震え上がらせる。
その震えは決して不快なものではないのだけれど、心臓がぎゅんっと聞き慣れない音を立てるのが気に入らない。
まるでいくら舐めても溶け切らない飴みたいに、味を残したまま私の中に居座り続けている。
これってなんだろうな。ずっと子どもじみていた弟の成長を喜ぶ姉心ってやつ?
それとも子離れできない親心?
って、離れたくないなんて思ってないけど!
記憶の再生が終わって、私はベッドからのそりのそりと這い出た。
それでもまだ頭の中でチラつくオレンジ色に染まった顔といつもより少し低いトーンの声。
「啓太のくせに、あんな声出すから悪いんだ」
とりあえず何かに原因を見つけないければやっていられない。あの日から私は、こうして時間と気力を浪費しているのだから。
大きくため息をついてから、机に置きっぱなしにしていたスマホを手に取った。
「あれ?」
スマホの左上で、何かを通知する緑色が点滅している。時計を確認すると、もうすぐ日付が変わる時間だ。
こんな夜中に誰だろう、と疑問が浮かぶ。
同時に、どれだけの時間、啓太の言葉を思い出して悶絶していたのかと情けなくもなる。
あんなの、ただの練習で冗談。あいつは全然本気じゃなかったのに。
またしても啓太のことを考えそうになっている思考回路に急いで蓋をして、私はスマホのロックを外した。
表示されているSNSの通知は、去年まで同じ第二外国語の授業を取っていた沙奈絵からのものだった。
沙奈絵から連絡が来るなんて、啓太と実雪と大輝くんの四人で出かけたとき以来かもしれない。
どうしても啓太と遊びに行きたい実雪が、「彩矢ちゃんの恋も応援する!」と言い出して大輝くんを誘う計画を立ててくれた一年前。どこから情報を仕入れたのか知らないけれど、実雪から沙奈絵と大輝くんがいとこ同士だと教えられたときは、嬉しさよりも驚きが勝った。世間って、本当に狭い。
沙奈絵のおかげで大輝くんと出かけることには成功したものの、結局それ以上の発展はなく……。
あのときは「どうして大輝と連絡先を交換しなかったの!」って、沙奈絵にずいぶんと怒られたっけ。
三年になって第二外国語がなくなってからは、他に同じ授業もなくて、顔を合わせることも連絡を取ることもなくなっていたのだけれど。
そういえば、実雪からもこの半年ほど連絡がない。あれだけ頻繁に啓太のことで頼みごとをしてきたり、弱音や頑張る宣言を聞かされていたのに。
でもまあ、無事に付き合ったのなら相談ごとがなくて当然か。それは二人が幸せな証拠だから。
「だけど、ちょっとくらい報告があってもいいのにさ」
いじけた気持ちになりながら、沙奈絵からのメッセージを開いた。
『久しぶり! そして嬉しいお知らせ! 大輝が彩矢と連絡取りたいって私に頼んできたよ! 彩矢はまだ大輝のこと好き? もしそうなら、連絡してみなよ。これってビッグチャンスでしょ?』
モヤモヤした気持ちが、ゆっくりと晴れていく……、晴れていけばいいと願った。
『ありがとう! 連絡してみる』
時間が遅いことが気になりつつも、すぐに沙奈絵に返事をした。
沙奈絵がメッセージを送ってきたのは十五分前。まだ許容範囲内のはずだ。
そんなことを考えていたら、速攻で沙奈絵から返信が届いた。
『よかった! たぶんあいつ待ってるから、今からでも連絡してやって』
一瞬、全身が固まった。
だって時間が……。心の準備も……。
だけど沙奈絵が言うとおり、ビッグチャンスなのは間違いない。
もう繋がらないと思っていた大輝くんへの糸口。
何の用があって連絡を取ろうとしてくれているのかは分からないけれど、一緒に出かけてから一年後にようやく訪れた好機だ。
これを逃したら、もう二度とチャンスはないかもしれない。ううん、きっと最後のチャンス。
それは分かっているけれど……。
『ちなみに私と連絡取りたい理由は聞いていないの?』
どうしても踏ん切りが付かなくて、沙奈絵に尋ねてみた。
大輝くんの用件が分かれば、連絡することに躊躇している気持ちも消えるのではないかと、一縷の望みをかけて。
『ごめん。そこは知らない』
スマホの画面に書かれた非情な返事に、がっくりと肩を落とす。
そして数秒おいて送られてきたのは、ガッツポーズの絵文字。
分かりましたよ。頑張りますよ。
大きく深呼吸を二回して、沙奈絵とのやり取りの中に表示されている大輝くんの名前を押した。
すぐに画面は切り替わり、これでもう大輝くんへメッセージを送ることができる。
こうなったら、やるしかない!
『こんばんは。夜遅くにごめんなさい。沙奈絵から連絡をもらって、こうしてメッセージを書いています。去年の秋にみんなで出かけた以来だよね。あのときはいろいろとお世話になりました』
「……」
二秒ほど画面を凝視して、全文削除。
もっと軽くいかなきゃ。いきなりの長文は、重たい女に思われてしまう。
そして送ったのは『こんばんは。遅くにごめん。彩矢です』だった。
あーあ。可愛らしさの欠片もない。だけど重いよりはいいか。
送ってすぐに既読がついて、本当に待っていてくれたのかもしれないと、こんな時間にメッセージを送った罪悪感が消える。
そのままスマホを握っていると、少ししてブルっと小さな振動を感じた。
『メッセージありがとう。無理言ってごめんね。でも、連絡もらえたこと、すごく嬉しい』
大輝くんっぽいな、と思う。
普通だったら恥ずかしがってしまいそうなことも、大輝くんならサラリと言える。
大人びていて、穏やかで、物静かで。
周りの男子とは明らかに違う。
特に啓太とは!!
『私の方こそ、大輝くんと連絡先を交換しなかったこと、ずっと悔やんでいたから。声かけてくれてありがとう』
『本当に!? 彩矢さん、好きな人いるって聞いてたから、俺のことなんて興味ないんだろうなって思ってた』
ちょっと、誰よ? 私に好きな人がいるとかバラしたのは。
……うん、でも、冷静に考えて沙奈絵の可能性が高いよね。きっと援護射撃のつもりの言葉が、大輝くんには違う意味に取られたんだ。
“好きな人”の部分を深堀する勇気はなくて『本当だよ』とだけ返した。
我ながら素っ気ない返事だと思う。それでも、大輝くんからのメッセージはすぐに返ってきた。
『急だけど、次の日曜日二人でどこか行かない?』
視界に飛び込んできた文字列に、指が止まった。
どうしよう……。
『あ、ごめん。いきなり二人はハードル高いよね。前みたいに四人で出かけようか』
前の四人って──。
『二人で大丈夫!』
気が付いたときには、そう返事を送っていた。
『ありがとう。どうしよう、嬉しすぎる』
画面越しの文字だけのやり取りなのに、大輝くんの心の温度まで伝わってくる。
それから待ち合わせの時間と場所を決めて、最後に『おやすみ』と送り合って、スマホを閉じた。
思いがけないタイミングで、諦めかけていた恋が動き出したのかな、なんて考えてみる。
なんだかむず痒くて、少しだけ困惑している自分がいた。
大輝くんとの約束の日、当日。
今日二人で会うことは、沙奈絵にしか教えていない。
沙奈絵にも、しばらくは誰にも言わないでほしいとお願いした。
『彩矢の恋の結末が見えてくるまでは誰にも言ったりしないよ』と、沙奈絵は笑顔の絵文字つきで返事をくれた。
約束の時間は十四時。予定どおり十五分前に待ち合わせ場所の駅に到着。
お気に入りの紺色のワンピースに薄いグレーのカーディガンを羽織って、いつもよりフェミニンに仕上げたつもりだ。普段はしないマスカラも目立ち過ぎない程度につけてみた。
悪くは、ないよね?
慣れない状況に心許なさを感じていると、秋風が髪をさらい、慌てて手ぐしで整える。
途端、耳の奥で啓太の声が聞こえた気がして、息が苦しくなった。
そういえば、あの日も突然風が吹いて、啓太の髪がふわりと揺れたっけ。もしかして私の髪も風に吹かれていたのだろうか。乱れてはいなかっただろうか。
…………いやいや、啓太のことなんてどうだっていいし!
余計な記憶を頭から追い出したくて、一秒でも早く忘れたくて。
いつもはしないのに、右耳に髪をかけてみる。
こんなことで消えてはくれないって分かっているけど、でも、少しでも違う私になりたかった。
……なんで私があんたに振り回されなきゃいけないのよ。
「ごめん、待った?」
焦燥感に襲われているところに後ろから声をかけられ、私の体は驚きで小さく跳ねた。
慌てて振り向くとそこにはもちろん、大輝くんがいる。
そうだよ。今は啓太のことなんかより、大輝くんだ。
「今来たところ。大輝くんの方こそ、早いね」
照れくさそうに人差し指で頬を掻いた大輝くんは、さっと目線を外した。
「彩矢さんと会えると思ったら、じっとしていられなくて」
社交辞令でも、ありがたいと思った。そういうところが、大輝くんのいいところだ。みんなに優しい言葉をかけられる人。
今日みたいに照れくさそうな様子は珍しくはあるけれど。
「俺、映画を観に行きたいんだけど、いいかな?」
そう言えば、待ち合わせの時間と場所を決めただけで、他はノープランだった。
でもこうしてきちんと予定を立ててくれる大輝くんのマメさに、またしてもありがたさが湧き起こる。
おまけに映画館に着くとすでに席は予約済み。私がボーッとしている間に発券機でチケットをニ枚出して、飲み物とポップコーンまで買って手渡してくれるスマートさは、とても同い年とは思えなかった。
「すごいね、大輝くん。気の利き方が半端ない」
チケット代と飲食代は後できちんと渡そうと決めつつ、お礼の気持ちを目一杯込めて言った。
「初めてのデートくらい、カッコつけたいから」
また恥ずかしそうに頬を掻く姿と、デートという思いがけない単語で、言葉に詰まってしまう。
「なぁんて言っても、実は彩矢さんの映画の趣味は沙奈絵にリサーチしたんだけどね」
照れ隠しなのか、らしくなくおどけて見せる大輝くんは、すごく新鮮だ。
「でもこの映画、本当に観たいと思ってたから。ありがとう」
私の好きな俳優が出演している、ちょっと切なくて不思議なラブストーリー。
大輝くんと観に来ることになるなんて、どうして予想ができただろう。
薄暗い映画館の席に並んで座ると、大輝くんのいる右隣だけが少し明るいような錯覚を覚えた。
それは大輝くんがあまりにも完璧だから。
周りへの気遣いも、相手に対するさり気ない優しさも、あたたかい言葉も、もちろん清潔感のある外見も。
大輝くんの彼女になれる人は、幸せ者だと思う。
「彩矢さんは、一年前のこと、どれくらい覚えてる?」
まだ何も映っていないスクリーンを見つめたまま、まるでずっと溜め込んでいた想いがこぼれていくみたいにそっと発せられた大輝くんの言葉に、妙に胸がざわついた。
「一年前って、四人で出かけた?」
それ以外に私たちの間で共通の“一年前”なんて存在するはずもないのに、他の言葉が見つからない。
「うん。俺ね、すごく申し訳ないんだけど、あの時まで彩矢さんのことをよく知らなかったんだ」
それは謝るようなことではなく、至極当然のことだ。
だって私たちは、あの日まで会話をしたことなんてほとんどなかった。
私が大輝くんを知ったのは、そう、確か実雪に付き合って啓太のゼミ室へ行ったとき、取り次いでくれたのが大輝くんだったのだ。ほぼ初対面の私たちに向けてくれた知的で落ち着いた笑顔と物腰柔らかい丁寧な言葉に、私は瞬間的に憧れを抱いていた。
「だから本当は、出かけるのもすごく迷った。最終的には、沙奈絵がやけに必死だったのと啓太が一緒って聞いたから行くことにしたけど。でも、行って良かったと思う。あの日あの誘いに乗っていなかったら、彩矢さんのことをきちんと知ることはできなかっただろうから」
大輝くんの言葉に見え隠れする真意を、にわかには信じられない。
信じちゃいけない。
疑心暗鬼な気持ちのせいか、私は余計なことを口走ってしまう。
「どうして今になって連絡をくれたの?」
口に出した問いかけを自分の耳で受け取って、初めて後悔が追いついた。
そんな核心に触れるようなこと、聞くべきじゃないのに。
けれど大輝くんの答えは、予想していたものとはちょっと違った。
「あの後すぐに彩矢さんの連絡先を教えてほしいって頼んでいたんだ。だけど彩矢さんはやめておいた方がいいって言われた。友達以上恋人未満の好きな人がいるからって」
「え?」
これは、沙奈絵じゃない。沙奈絵だったら、こんな邪魔をするような言い方はしない。
「それって誰に……」
今度こそ完全に余計な質問だった。けれど出てしまった言葉は消せなくて、優しい大輝くんは当時を懐かしんでいるのか少し目を細めて小さく微笑んだ。
「沙奈絵には、なんとなく気恥ずさがあって聞けなくて。だから啓太に頼んだ」
体のどこかがギシリと軋む音がした。
それから大輝くんは、就活が本格化する前にとか、ダメ元でとか、最初から沙奈絵に頼めば良かったとか、そんなことを言っていたような気がするけど、正直、大輝くんの言葉たちは私の頭をすり抜けていくだけだった。
観たいと思っていたはずの映画も、好きな俳優も、ふと気が付くとうわの空になってしまっている。
憧れの大輝くんと一緒にいるからなのかもしれない。
適当なことを言った啓太に腹が立っているのかもしれない。
だけど本当のところは、自分でもよく分からなかった。
映画が終わって外へ出ると、もう日が暮れ始めていた。
「今まで恋愛映画ってきちんと観たことなかったけど、今日の映画はすごく面白かったよ。彩矢さんと観たからかな」
私に気を遣ってくれているのか、それとも本心なのか、大輝くんは恥ずかしそうに、でもゆっくりとした口調で言った。
「うん、本当に面白かった」
大輝くんの最後の一文は聞き流して、あまり身が入らなかったなんて悟られないよう精いっぱいの笑顔を作った私の頬を、冷たい風が撫でた。
秋の夕暮れ。
私たちを囲むこの時期特有の空気が、なんだか少しセンチメンタルな気分にさせてくる。
だから大輝くんが「少し寄り道しない?」と誘ってきたのも、きっと秋のせいだ。
そして、この後予定がある訳でもないのに、嬉しいはずの誘いに一瞬戸惑ってしまったのも、肌寒さを感じさせた秋のせい。理由なんてただそれだけだって自分に言い聞かせて、大輝くんの横を歩く。
大輝くんは近くにあった自動販売機で、温かいココアをふたつ買った。
「ありがとう」
受け取ったココアの缶を両手で握りしめながら、どちらからともなく目の前の公園に入った。
映画館と同じように、けれど映画館よりは間隔を空けて、ベンチに腰かける。
私と大輝くんの間の、微妙な距離。
なぜか、このもどかしい距離が縮まらないでほしいと思ってしまう。私はどこかで、結論に辿り着くことから逃げている。
「彩矢さん。今日はありがとう。すごく楽しかった」
穏やかな時間が流れる。
言葉の端々から誠実さが溢れ出る大輝くんの、大人な魅力を改めて目の当たりにする。
「私も楽しかった。大輝くん、優しいから」
これは本心だ。心の底からそう思っている。
大輝くんはおもむろに体ごと私の方に向くと、いつになく真剣な眼差しになった。
ついに、と思う。
やめて、とも思う。
だけどもう、逃げられない。
「彩矢さんのこと、この一年間ずっと好きでした。諦められませんでした。付き合ってください」
深々と下げられた頭に感じるのは、嬉しさよりも戸惑いと違和感で、私は咄嗟に“違う”と心の中でつぶやいていた。
──違う。この声じゃない。
勝手に暴れ始めた無意識に、世界で一番、誰よりも驚いているのは、きっと私自身だ。
これが本当の気持ちだなんて、吐き気がする。
それでももう、誤魔化せないことも自覚している。
私は大きく深呼吸をした。
諦めと、決意と、愛おしさと、申し訳なさと、他のいろいろな気持ちを込めて。
「大輝くん、ごめんなさい。私、ようやく自分の気持ちに気付いてしまった」
なんて身勝手なんだろう。
なんて愚かなんだろう。
今ここで大輝くんの手を取れば、私はきっと穏やかで幸せな日々を送れるはずなのに。
だけど私の芯の部分が、あの声を求めている。
夕焼けに染まった教室で、私に向かって投げかけられた、あの切なげで艶めいた声を。
顔を上げた大輝くんは、思いの外爽やかな笑顔だった。
「うん。なんとなく予想してた。だって俺といるときの彩矢さん、ずっと落ち着いていたから。なんて言うのかな。俺じゃ彩矢さんの心を掻き乱すことはできないんだな、って。最初からダメ元だったしね。聞いてくれてありがとう。おかげでようやく諦めがつきそうだよ」
ほら、こんなにいい人。本当に私はバカだ。
これから私が選ぼうとしているのは、悪魔に導かれた茨の道。
きっと大輝くんが言うように、心を掻き乱されて、掻き乱されて続けて、泣きたくなるような過酷な日々。
それでも、そこに眠っているかもしれないひと粒の甘美な飴を、私は求めてしまう。
一度味わったら忘れられない悪魔のような飴を、あいつが私にくれたから。
だから──。
「今日は本当にありがとう。また大学で」
こっそり用意していた水玉のポチ袋には、一人分の映画代とジュース代、そしてポップコーン代が入っている。
半ば強引に大輝くんの手の中にそれを握らせて、私は駆け足で立ち去った。
どうか大輝くんがすぐに私のことを忘れますように。
そう願うことくらいしか、優しい彼のためにできることなんてないはずだから。
家の最寄駅で電車を降りて、人数の少ないホームを一人歩く。
思えば朝だって浮足立って、とか、ドキドキして、という感情とはかけ離れていた。
それに引き換え、今はどうだ。
自覚した恋心はもう制御が効かなくなって、何度も、何度も、途切れることなく、頭の中で啓太の声が甦る。
そしてそれだけで、私は心臓をぎゅっと掴まれたような甘い苦しみに息を呑むのだ。
不思議な感覚だった。
愛しくてたまらないのに、怖くて近付きたくない。
いつでも再生したいのに、思い出すと掻き消したくなる。
誰かを好きになることがこんなに混沌としているなんて、今まで知らなかった。
改札を抜けて駅を出た先に、人影があった。すっかり暗くなった夜道では、薄暗い街灯だけでは顔が見えない。
だけど、瞬時に分かる。分かってしまう。
このまま引き返したいのに、早足になる。
それは、そこに立っているのが啓太だから。
「よう。おかえり」
昨日までできていたはずの普通が、もうできない。
「どうして……」
どうにか声に出せた一言に、啓太はニヤリと子どもっぽい笑顔を見せた。
「デート帰りの彩矢をからかってやろうと思ってさ」
なぜ知っているのかも疑問だったし、いつもみたいに「余計なお世話」と怒って見せるべきだと分かっているのに、啓太の口から出た“デート”の言葉が予想以上に心を抉って、「バカ」と震える一言が精いっぱいだった。
こいつは、私が他の誰かとデートしていても全然平気なんだ。
こいつだって、当たり前のように実雪とデートしているんだ。
何度もその事実を確認して、何度も心を痛める。
その痛みにさえ高揚感を覚えるなんて、本格的にどうかしている。
「家まで送ってやるよ」
そう言って歩き出す啓太に、黙ってついていく。
無言。
横を通り過ぎる車の音だけが、私を安堵させた。だって静寂の中じゃ、心臓の音が聞こえてしまいそうだから。
私の想いは絶対にバレてはいけない。
私の想いに気付いてしまえばいい。
隣を歩きながら、相反する感情に揺れ動く。
そのままどちらも言葉を発することなく、二十分ほどただ歩いた。
私の家の前で、啓太は立ち止まる。
なんとなく名残惜しくて、私の足は動かなくなってしまう。
「着いたけど?」
悪戯っぽく言われてしまえば、もうどうすることもできない。
「うん、ありがとう」
目を合わさないまま玄関へ向けて一歩を踏み出した。そのとき──
「俺の方が良かっただろ?」
背中にかけられた切なげな声に、勢いよく振り返ってしまう。そこには半年前の教室と同じ啓太がいた。
抱きつきたい衝動に駆られる。何もかも打ち明けてしまいたくなる。
けれど啓太は、ふっと口角を上げるといつもの子どもみたいな顔に戻った。
「なんてな。バイバイ」
私はただ背中を見送るだけ。
だから、ほら。茨の道だ。
大輝くんと出かけた日の翌朝は、早くに目が覚めたせいか食欲が出なくて朝食を抜いた。けれど気分は悪くない。それどころか、調子がいいとさえ思う。
いつもは飲まないコーヒーが無性に飲みたくなって、授業前に購買に寄ることにした。
冷蔵の商品棚から缶コーヒーを取り出して、「あっ」と気付く。
ああ、そうか。啓太がコーヒーを好んで飲むから。
どこまで私はバカなのだ。そしてそんなバカになれる自分が、意外と嫌いではなかったりする。自然と頬が緩んだりする。
「あーやちゃん! おっはよ!」
久しぶりに聞く愛らしい声で我に返ると、すぐそばにご機嫌な実雪が立っていた。
「おはよう、実雪」
実雪を見てチクリと胸が痛み、愛おしさが込み上げる。
「ちょうど良かった。彩矢ちゃんに相談したいことがあったんだ」
屈託なく笑う実雪。これは、久しぶりに恋愛相談の予感。
「うん、いいよ。次なら空きコマだし」
実雪の提案で向かった構内一大きな食堂に、人気は少なかった。お昼までまだ時間がある朝の時間帯、しかも授業中とくれば、さすがに混むこともないようだ。
恋バナをする実雪は、いつだって人に聞かれない場所を選ぶ。派手に見えがちだけど意外と控えめな一面に、私は変わらずに好感を抱いているし、たぶん啓太もそういうところに惹かれたはずだ。
「実はね……」
実雪の声を聞きながらつらつらと考える。
別に、今さら宣戦布告するつもりはない。二人が幸せなら、それでいいと思う。
でも実雪と啓太の間に流れている甘い時間について、手に取るように詳しく教えてほしい。啓太がどんなふうに実雪に囁くのか、どうやって実雪に触れるのか、全部を知りたい。
いや、私以外の誰かにあの声を聞かせる啓太のことなんて、何も知りたくない。
「私、ようやく新しい恋を見つけたんだ」
パッと花が咲いたような笑顔で実雪は言った。
「アタラシイコイ……?」
いまいち意味が飲み込めなくて、片言でのオウム返しになっていた。
「うん! 彩矢ちゃんに相談すると、いつも元気をもらえるからさ。今回もよろしくね」
一年半前と同じように手を合わせる実雪に、私は「ちょっと待って!」とストップをかけた。
「啓太は? 啓太とは別れたの?」
もしかすると怪しまれるくらい必死に尋ねていたかもしれないけれど、そんなことはどうだっていい。
噛みつかんばかりの私に対して、実雪は間の抜けた顔をした。
「へ? 何も聞いてないの?」
「知らないよ。実雪、最近何も話してくれないし」
私の答えに実雪が「あいつめー」と唇を尖らせた。
「啓太くんが実雪に話すって言うから黙ってたのに。でもこっちにも意地があるからね。私から彩矢ちゃんには教えられないな」
実雪はカラカラと笑った。
「だけど、彩矢ちゃんにはいつもお世話になってるから、ひとつだけヒントをあげよう。私は今年の春に、啓太くんのことを諦める決意をしました!」
「そうなの!?」
初めて知る事実に、つい声が大きくなってしまう。
「うん。もちろん啓太くんもそのこと知ってるし、それ含めて彩矢ちゃんと話をするって言ってたのになあ。あ、またヒントになっちゃったかな」
可愛らしく舌をちょこんと出した実雪は、肩をすくめて見せた。
「そういう訳で、今は未練がないどころか新しい恋に夢中だから、もう啓太くんのことは気にしないでね」
「う、うん。分かった」
ぎこちない返事を不審に思われはしなかったか、と不安がよぎる。けれど実雪が気にする様子はなかった。
「それじゃあ、話を再開させるよ」
キラキラと目を輝かせて話す実雪の新しい恋の相手は、一学年下のサークル仲間だった。一緒に活動をしているうちに、自然と恋心が芽生えたらしい。
「先輩、先輩って慕ってくれて、すごく可愛いんだもん。そのくせ、案外力があったりしてさ。やっぱり男の子だよね」
実雪があまりに無邪気だから、一生懸命恋をしているって伝わってくるから、私だけ黙っているのは卑怯な気がして。
だから実雪の話が終わったとき、自己満足だって分かっていても、言わずにはいられなくなった。
「実雪、ごめんね。私、啓太のことを好きになってしまった」
言い終えたタイミングで、授業終わりらしい集団がガヤガヤと食堂に入って来た。
なんで今来ちゃうのよ。
賑やかになってしまった食堂に、きっと実雪は長居はしない。
案の定、ふっと小さく息を吐いた実雪は黙って席を立ち、私もそれに倣った。
怒っているのかもしれない。呆れているのかもしれない。もう友達やめようと思っているのかもしれない。
何も言ってくれない実雪と同じペースで歩きながら、私は俯いていた。
食堂を出て最初の別れ道で、実雪が立ち止まる。
「私、図書館寄っていくから」
一緒に行く、とは言えなかった。
そのまま離れていくと思った実雪は、なぜか私との距離を詰め、秘密の呪文を唱えるように耳打ちした。
「彩矢ちゃんから告ったら負けだからね」
スルリと私から離れた実雪は、楽しそうに笑った。
「私は無理だったけど、彩矢ちゃんならきっとできるよ」
そして実雪は手を振ってから、軽い足取りで駆け出した。
この時期にしてはやけにあたたかく爽やかな風が、私の横を吹き抜けていく。
瞬間、あの日の啓太の声が頭の中に響き渡り、時間を追うごとにひどくなる一方の残酷で幸福な胸の痛みにぎゅっと拳を握った。
「もうすでに負けっぱなしな気がするけど」
ひとりごとは、風に乗って飛んでいく。風の行き先は、気まぐれな悪魔の元なのかもしれない。
そう、悪魔のせい。
悪魔の囁きに耳を貸してしまったばかりに始まった私の恋は、これからもずっとあの声に囚われ続けていくのだろう。
それは二度と抜け出せない、抜け出したくない深い罠。とびきり苦くて、とびきり甘い、禁断の飴。